ぎゅっととじて。
「お母様……お父様……」
ぽとり。 睫毛から伝った水滴が、床へと落ちた。
異世界から落ちてきた者が元の世界へ帰れたことはない、そうカヅチは言っていた。
「っ、……っ」
どれだけ息を殺そうとしても、出来ない。
綾が必死に閉じ込めている望郷の思いは、いつでもそれをあざ笑うかのように、不意をついてはその扉を開こうとする。
二度と帰れない世界に残してきた何より大事なものを奔流のように思い出し、綾の瞳からもう枯れ果てたはずの涙が、後から途切れず溢れだしてくる。
頬を伝う二筋が顎へと到達する寸前、綾は肌が傷むのも構わず両の手の平でぐいと拭うと、両頬を押さえ目をぎゅっと閉じて、それ以上の涙を堪えた。
息が苦しい。 けれどそのまま奥歯を噛み締める。
「……昼間は、泣かないと決めた筈だわ」
夜、どうせ寝台の上で散々に想うのだ。
あちらに残してきた全てのもののことを。 涙はその時に流せばいい。
昼間も泣き暮らすなんて建設的でないことこの上ないと、綾は自らを叱咤した。
「部屋に籠っていると鬱々としたことしか考えませんわね……」
目を開いた綾の視界にうつった窓の外は、こちらの心情も知らぬような、いっそ晴れ晴れとした晴天だった。
もう既に秋めいて薄い色をした空は高く澄み、山間の隙間の高台にあるらしいこの屋敷の外には、この世界に落ちてきたあの日よりも更に、緑から赤と黄色へ染まりつつある見事な木々が、葉を揺らして綾を誘っている。
勝手をしては、と綾はずっと遠慮をしていたが、部屋を出てはいけないとは誰にも言われてはいない。 辞書や書物を広げていた机を片付け、厚めのストールを肩に羽織った綾は、気分転換にと廊下へと繋がる扉を、そっと開いた。
◇◇◇
決済書類に押印をしたカヅチは、先ほどから一向に減る様子のない目の前の書類と資料の山に目をやって、吐きかけた溜め息を喉奥で押し殺そうとしたが、失敗した。
盛大な塊となって漏れ出た呼気は長く、どうやら自分は苛々しているようだ、とカヅチは自己分析しつつ眉根を寄せる。
カヅチが群れを離れたのはせいぜい五日程だったが、秋に入る多忙な時期に重なったのもあり、戻ってから十日間働き通しでもずれにずれ込み、未だにこれだけの仕事が山積している。
しかし、それはここ数年においては比較的良くある光景だ。 今更それくらいで苛々することなどないのにおかしなことだと、普段とは違う自分自身にカヅチは物思いにふけりそうになったが、今の己に自身の内心探索に興味を取られている暇などない。
カヅチは頭を一振りすると思考を隅へと追いやって、次の書類へと手を伸ばした。
それから暫くしてそれでも山を少しずつ減らし、ある程度終わりの目処が立ち一休みをカヅチが入れようとした所に、扉を軽く叩く音と共に扉の向こう側から入室の許可を請う声が届いた。
その扉を叩いたのは。
連投。
…続くといいなあ。