三月のカレンダー
男は、二宮 悠と名乗った。
灯里を部屋に招き入れると、彼は慣れた手つきでケトルに火をかけた。マグカップを二つ、テーブルに並べる。その所作の一つひとつを、灯里は"知っていた"。借りた記憶の中で、灯里自身が何百回もくりかえした動きだったから。自分の手が、彼の手をなぞろうとして、宙で止まる。
「砂糖は入れない。ミルクだけ、少し」
灯里が言うと、悠の手が、ぴたりと止まった。
「……覚えてるんですね」
「わたしのじゃない記憶が、勝手に」灯里は湯気を見つめた。「あなたが、そう淹れてくれていたから」
悠は答えなかった。ただ、二杯目のカップに、ミルクを少しだけ注いだ。飲む人のいないはずの、二杯目に。
その仕草を見て、灯里は理解した。彼はこの三年間、毎朝二杯淹れていたのだ。一杯は自分に。もう一杯は、いつか目を覚ます灯里のために。冷めることが約束された、その一杯を。
「会ったのは、たった一度きり」——ドアを開けたとき、彼はそう言った。灯里はその一度を、どうしても思い出せない。
「事故の、日でした」
悠は、窓辺に立った。三月で止まったカレンダーの、すぐ隣。
「わたしは、あの交差点にいた。信号は赤で、あなたは反対側の歩道にいた。……わたしは、そこから飛び降りるつもりで、歩道橋の上にいたんです」
灯里は息を呑んだ。借りた記憶のどこにも、その場面はなかった。彼が"貸さなかった"記憶。
「三年前のわたしは、もう、何も持っていなかった。仕事も、家族も、明日を待つ理由も。全部こぼれ落ちて、空っぽの器だけが残っていた」悠の声は静かだった。「だから、終わらせようとした。誰も待っていない人生を」
「でも」灯里の声が震える。「あなたは、飛ばなかった」
「あなたが、下で笑ったから」
灯里は、まばたきを忘れた。
「反対側の歩道で、あなたは電話をしながら笑っていた。何がおかしいのか、声を上げて、くしゃくしゃに。……そのとき、赤信号を無視した車が、あなたに突っ込んだ」
記憶の断片が、鋭く光った。笑っていた。誰かと電話で。事故の直前、たしかに灯里は――誰かと。
「わたしは歩道橋を駆け下りて、あなたに駆け寄った。血だまりの中で、あなたはまだ、かすかに笑っていた。……死のうとしていたわたしが、死にかけているあなたを、抱きかかえていた」
言葉が、部屋の空気を凍らせた。悲しみが凍って、刃に変わる。その刃は、灯里ではなく、悠自身の胸を貫いているように見えた。
「救急車の中で、わたしは決めたんです」悠は灯里を見た。落ちくぼんだ目の奥に、三年分の光があった。「この人が目を覚ますまで、わたしは待とう。自分を終わらせる代わりに、この人の"つづき"を待つことに、命を使おうと」
だから彼は、待てたのだ。灯里という他人のために。——いや、違う。灯里は、ゆっくりと気づいていく。彼は灯里のために待ったのではない。
待つ理由を失った男が、待つという行為に、もう一度すがりついたのだ。
「あなたが眠っているあいだ、わたしは毎日ここへ来た。あなたの部屋を借りて、あなたの帰りを待つふりをした。二杯のコーヒーを淹れて、カレンダーを止めて。……そうすれば、わたしはまだ、誰かを待っている人間でいられた」
灯里は、胸の奥がひきつるのを感じた。借りていたのは、灯里のほうだけではなかった。悠もまた、灯里の"眠り"を借りて、生きる理由を保っていたのだ。二人は、互いの空白を貸し借りして、かろうじて立っていた。
貸し借りは、いつも二人でするものだった。片方だけが借りている貸し借りなんて、どこにもなかった。
「返生管理局の人に、聞きました」
灯里は、冷めていく二杯目に指を添えた。
「借りた記憶を、本人に語って返す。そうしないと、わたしは新しい今日を作れない、と」
「……知っています」悠は目を伏せた。「わたしのところに、返しに来るだろうと」
「でも、変なんです」灯里は顔を上げた。「わたしが返すべきなのは、"あなたが待った三年間"の記憶。それを語って、あなたに返せば――あなたはもう、待たなくてよくなる。待つ理由が、消える」
悠は答えない。
「あなたは、それでいいんですか。待つことだけが、あなたを繋ぎとめていたのに。……それを返されたら、あなたは、三年前の歩道橋に、戻ってしまうんじゃないですか」
沈黙が、部屋を満たした。ケトルの残り湯が、かすかに鳴る。
やがて悠は、笑った。あの日、灯里が交差点で見せたような――くしゃくしゃの、けれどどこか壊れそうな笑みで。
「灯里さん。一つ、あなたに言っていないことがあります」
彼は、窓辺のカレンダーに手を伸ばした。三年間、一度もめくられなかった、三月のカレンダー。
その一枚を、彼はゆっくりと、めくった。
下から現れたのは、四月ではなかった。
そこには、びっしりと日付が書き込まれた、手書きの表があった。何百という日付。そのすべてに、小さな文字で記録が添えられている。
「これは……?」
「あなたの、脳波の記録です」悠の声が、かすれた。「わたしは毎日、病院に通っていた。あなたの脳波を見せてもらうために。——灯里さん。あなたは、"三年間ずっと"眠っていたんじゃない」
灯里の指先が、冷たくなっていく。
「あなたは、一度、目を覚ましているんです。二年前の、四月に。三日だけ」
めくられたカレンダーの、その日付に、赤い丸がついていた。
「その三日間、あなたはわたしと、この部屋で過ごした。二杯のコーヒーを飲んで、笑って、約束をした。……そして、また眠りに落ちた。すべてを、忘れて」
灯里は、めまいを感じた。借りた記憶。返すべき三年間。その中に、ぽっかりと空いた三日間の穴。誰も貸してくれなかった、灯里自身の記憶。
「あなたが返しに来たのは、わたしが待った三年間じゃない」悠の目から、ついに涙がこぼれた。「あなたが忘れた、あの三日間を——わたしに、返しに来たんです」
カレンダーの、赤い丸。その隣に書かれた、小さな一文を、灯里は読んだ。
〈灯里さんと、約束した日〉
何を約束したのか。
その答えだけが、どの記憶にも、借り物にも本物にも、どこにも――残っていなかった。




