冷めていく二杯目
初投稿です。
とろしくお願いしますm(_ _)m
【あらすじ】
三年の眠りから覚めた七瀬灯里は告げられる。「あなたは他人の人生を借りて生きていました。返しに行ってください」と。借りた記憶の中で灯里は、ただ誰かを待ちつづけていた。冷たい窓ガラス、二つのコーヒー、めくられないカレンダー。その"待つ人生"を返すため訪ねた住所で、扉を開けた男は、灯里の名前を知っていた――借りていたのは、彼が彼女を待った三年間だった。
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目覚めは、水底から氷が浮かび上がるみたいだった。ゆっくりと、けれど止められない力で、光のほうへ。
まぶたを開ける前に、灯里の指はもう動いていた。冷たい窓ガラスに手のひらを当てる仕草。何百回も、何千回もくりかえしたはずの動き。けれど、そこに窓はなかった。あるのは点滴の管と、消毒液のにおいと、白い天井だけ。
「――まだ、来ない」
自分の口から、知らない声で言葉がこぼれた。誰が来ないのか、灯里にはわからなかった。
看護師が駆け込んできて、ペンライトが瞳を刺した。医師が何かを叫び、廊下が慌ただしくなる。その騒ぎの中心にいながら、灯里の胸を占めていたのは、たった一つのことだった。
(二杯目のコーヒーが、冷めてしまう)
そんな記憶が、指先に残っていた。誰かのために淹れて、けれど飲まれることのなかった、二杯目の温度。
三日後、「一ノ瀬」と名乗る女がやってきた。医者でも刑事でもない、灰色の制服。胸の名札には〈返生管理局〉とあった。
「七瀬灯里さん。あなたは三年間、眠っていました。交通事故です」
灯里はうなずけなかった。三年。その言葉は大きすぎて、まだ体に入ってこない。
「本来なら、そこまで長く眠れば、心は――〈わたし〉という感覚は、溶けて消えます。名前も、悲しみ方も、笑い方も。全部ほどけて、なくなる」
一ノ瀬は淡々と、まるで天気の話でもするように続けた。
「だからあなたは、他人の人生を借りていました。眠っているあいだ、あなたの心は、ある人の毎日を"自分のこと"として生きていた。そうやって、〈わたし〉の形を保っていたんです」
一ノ瀬はタブレットを差し出した。そこには、灯里の脳波と、もう一つの脳波が、まるで手をつなぐように重なって描かれていた。
「これが、貸してくれた人。あなたはこの人の三年間を、借りて生きた」
灯里は思い出そうとした。眠っていた三年間を。すると、ほどけかけていた記憶が、少しずつ形になった。
――狭いアパートの一室。カレンダーは、めくられずに三月のまま。テーブルには、いつも二つのマグカップ。窓辺に立って、通りを見下ろす。誰かを、待っている。ずっと、待っている。
それは灯里の記憶ではなかった。灯里は独り身で、誰かを待つような相手も、めくり忘れるほど大切な日付も、持っていなかったはずだ。事故の前の自分の生活は、思い返すほどに冷たかった。誰も待たず、誰にも待たれない部屋。帰っても電気をつけるのが億劫になる、あの空白。
なのに――借りたその人生は、あたたかかった。
痛いくらいに、あたたかかった。
(返したくない)
その思いが、真っ先に胸に灯った。自分でも驚くほど、はっきりと。冷たい自分の人生に戻るくらいなら、この借り物の温度のまま生きていたい。借りた温もりは、返すときにいちばん熱いのだと、灯里はこのとき知った。
「一つだけ、決まりがあります」
一ノ瀬の声が、その熱に冷や水を差した。
「借りた人生は、返さなければならない。返生といいます。貸してくれた本人のところへ行き、借りた記憶を、あなたの口から本人に語って返す。そうしないと――」
「しないと?」
「あなたは、新しい記憶を作れない。毎晩、眠るたびに今日が消える。永遠に、借りた三年間の中に閉じ込められたまま」
言葉は矢だった。放たれたら戻らない。その一本が、灯里の逃げ道をまっすぐに射抜いた。
住所の書かれた紙を、灯里は受け取った。
そこに記された町名を見て、指先が震えた。それは、借りた記憶の中の――あの、窓から見下ろしていた通りの名前だった。
電車を乗り継ぎ、坂をのぼる。足が、道を覚えていた。曲がり角の郵便ポスト、割れたブロック塀、痩せた野良猫。全部、"知っていた"。借りた記憶の中で、灯里は――いや、あの人は、毎日この道を歩いていたのだ。
古いアパートの二階、角の部屋。三月で止まったカレンダーが見えるはずの、あの窓。
心臓が、他人のリズムで鳴っていた。
灯里はドアの前に立った。ここに、人生を貸してくれた誰かがいる。会ったこともない、名前も知らない他人。その人に「あなたの三年間を、返しに来ました」と告げれば、この胸のあたたかさは――借り物の温もりは、そっくり出ていってしまう。
拳を握り、そして、ほどいた。何度も。
(それでも、返さなきゃ、わたしはわたしに戻れない)
傷ついた冷たい自分に戻ることが、借りた温もりを手放すことよりも、まだしも自分の人生だと思えたから。その一点だけを頼りに、灯里はノックした。
足音が近づく。鍵の外れる音。
ドアが開いた。
痩せた男が立っていた。無精ひげ。落ちくぼんだ目。けれどその目が灯里を捉えた瞬間、涸れていた泉に水が差すように、みるみる光をたたえていく。
灯里が口を開くより早く、男は言った。まるでこの三年間、毎日この瞬間だけを練習してきたみたいに、震える声で。
「――灯里さん」
心臓が、止まった。
「あなたは、わたしを知らない。……そうですよね。会ったのは、たった一度きりだから」
男は、ドアの奥を指し示した。灯里の視線が、その先を追う。
テーブルの上に、二つのマグカップ。
窓辺のカレンダーは、三月のまま。
そして壁には、事故のニュース記事の切り抜きと――眠りつづける灯里の、病室での写真が、何枚も、何枚も貼られていた。
「わたしが貸したのは」男の声が、涙で濡れていく。「わたしの人生なんかじゃない。……あなたが目を覚ますのを、待っていた三年間です」
記憶が、音を立ててつながった。二杯目のコーヒー。冷たい窓ガラス。めくられないカレンダー。灯里が借り物だと思っていたあの温もりは、すべて――この男が、灯里を待ちつづけた時間そのものだったのだ。
灯里は、彼の"待つ"を、内側から生きていた。誰を待っているのかも知らないまま、彼の想いを、自分の心臓で三年間、鳴らしていた。
記憶は借り物の服だ。脱ぐときになって、はじめて、自分の体にぴったりだったと気づく。
「返しに、来ました」
灯里は言った。けれど、その言葉の意味が、いま反転していた。返すということは――この人の"待つ"を終わらせるということ。もう誰も待たなくていいと、彼に告げるということ。
三年分の想いを返した後、この人の胸には、何が残るのだろう。
冷めていく二杯目のコーヒーの、その隣に。




