後編
放課後だった。少し蒸し暑さを残した風が、窓から吹き込んでは恵美の前髪を揺らした。締め切りは一週間を切り、恵美は焦りともどかしさを感じながらも、ぼんやりとノートの上の小説ともいえない文の羅列をなぞった。家に帰れば、酒臭い母のヒステリックな罵詈雑言に涙を流すのはわかっている。もう少しだけ、穏やかな教室にしがみつきたかった。夕陽に染まるグラウンドの片隅に燃える火のように咲く彼岸花を意味もなく数えながら、もう少し陽が傾いたら帰ろう、あのサッカー部の練習が終わったら帰ろう、なんて思っているうちに、時計は六時を指していた。
「あれ?まだ残っていたの?」
教室の戸が音をたてて開き、知可が両手に鮮やかな彼岸花を五輪、胸の前で抱えている。知可は恵美の机の上に開いたノートを見つけ、そういう事、と笑った。
「頑張ってるわね。小説はもう出来た?」
「ううん、まだなの。白水さんは?」
「一応ね。もう少し書き足すつもりだけど」
知可は、頑張れ、と笑って、教室の隅の花瓶に彼岸花を挿した。毒々しい紅が、夕陽と溶け合って幻想的に教室を色づける。
「その花は?」
「これ?温室の横に咲いてて、綺麗だったから取ってきちゃった」
知可は肩をすくめて、温室の花は勝手に取っちゃうと部長に怒られちゃうからね、と付け足した。知可は園芸部に所属しているのだ。彼岸花を活け終えると、恵美の前の席に座って、ノートを覗きこむ。恵美は、ふわりと薫る花の匂いを感じ、知可の持つ甘い匂いは、花の香なのかもしれない、とうっとりした。
「恵美の書く話って、優しい感じがするわね。柔らかい愛に満ち溢れてる感じ」
知可は、ノートに書かれた夢物語に目を向けて優しい目をした。
「本当の恵美のお母さんも、きっと優しい人なのね」
そう付け加えられて、恵美は、自分がこの目の前の少女を騙しているような気分になって口ごもる。嘘だ、こんなの嘘だ、自分のためだけに書いた、浅ましい言葉の羅列だ、家に帰っても、死んだような、でもこの世の果てのような恨みがましい目をした自分を生んだだけの女が居るだけだ!そう叫びたくなるような鼓動を抑えて、恵美は無理やり何とも言えない苦笑を作る。しかし、次の瞬間に、それは徒労に終わった。
「どうしたの?この傷」
知可が、畏怖にも似た、触れてはいけない物に、でも触れずにはいられない、といった様に声を荒げた。しくじった、恵美はとっさにそう感じ、背筋が冷たくなるのを感じた。
恵美は普段、その傷を隠すために夏服の時は薄手のカーディガンを羽織っていた。教室の冷房が効き過ぎるからだと言って。でも放課後は冷房が止められるので、暑さに負けてそれを脱いでしまっていたのだ。手首に残る毒々しい黒紫に盛り上がったその傷痕は、彼女自身が付けたものではなく、彼女の母親が割れた酒瓶を振り回してきた時に付けられたものであった。よりによって手首に。
「自分でやったの?」
硬直してしまった恵美の手をとって、悲痛な声が響く。恵美はその声で、もう逃げられない、どうしようもない事を悟り、涙が湧き出てくるのを止められなかった。
「違うの。これは、お母さんが……。お母さんは、本当は優しくなんかないの。いつもお酒ばかり飲んでて、暴力ばかり振るって……愛された事なんてない。私、寂しくてそれでこんな話ばかり書いてたの」
やっとの事で、それを言い終えた瞬間、恵美は柔らかく温かい腕に、きつく抱きしめられていた。その体温も、優しい花の匂いも、恵美がずっと焦がれ続けていたものだった。知可は震える、でも力強い声で、大丈夫、大丈夫よ、と何度も繰り返した。
陽も暮れた頃、しばらく抱き合っていた知可は、恵美の手を握り、優しく微笑んだ。
「絶対、この事誰にも言わない。恵美の傷の事も、家族の事も。二人だけの秘密ね」
恵美は何度も頷いて、握られた手に、また涙を流した。
(私は、ここに、存在しているのだ。)
握られた手で、自分がちゃんと存在しているのがわかる。知可の目に、自分が映っている、知可の手が私に触れている。恵美ははじめて、自分が一つの人間として生きているのを知った。
恵美は、その日のうちに、小説を書き上げた。題を『彼岸花』とした。燃えるような花に、人との繋がりが、どれほどに優しく、力強く、血縁の繋がりよりも、友情の持つ魂の繋がりが嬉しい事かを託した。それは長い孤独から解放された故の、自由を持っていた。
『彼岸花』は、また佳作だった。それは、恵美にとって大した問題ではなかった。それよりも、知可の小説が大賞を取った事が嬉しかったからだ。羨望の眼差しは、美しい少女にだけ注がれた。それを妬む気持ちも微塵もなかった。恵美は、知可さえ自分を見てくれればいい、と思っていたからだ。知可は嬉しさを隠し切れないといった風に、はしゃいでいた。知可に目もくれずに。
表彰が終わった後、誰もいない教室で、配られた書評を開いた。それには入賞した五作品の一部と批評、出身校・氏名が記されていた。恵美は、誇らしい気持ちで、そこにある自分の名前と知可の名を眺めた。そして、その後、愕然とした。
(彼女はいつも陰気な影を押し隠す事もせず、その眼差しを私に向ける。私はそこに一種の気味悪さを感じながら、でも怖いもの見たさも手伝って、彼女に声をかけた)
(救いを求めるような目、それは誰からも愛された事のないそれだった。ノートに書きなぐられた絵空事は、ひたすらに愛に飢え、それは手首に付けられた傷と共に、夕暮れの中、私に投げつけられた。一体すべての原因は、どこにあるというのか。私は、その秘密を暴いたと同時に、彼女の友人でいなければならないだろう運命を悟った。これは正しい友情といえるだろうか。否、ただの意味のない責任である。彼女は私に救いを求めこそするが、私を救おうなんて気はこれっぽっちもない。受けられなかった無償の愛を、私と作る仮初めの友情の中で、望んでいるだけなのだから)
恵美は、呆然と目で知可の書いた文章を見つめた。秘密を暴露された裏切りよりも、そこに書かれた知可の感じたであろう事が、恵美の心を刺した。その下に載せられた自分の友愛の賛美が、全くの絵空事に思えた。彼岸花、は、いつの間にか消えていた。教室の片隅からも、グラウンドの隅からも。季節はもう十一月の寒さを持っている。それも道理だ。恵美はカーディガンを纏う必要はない。制服は冬服に変わっていた。
それでも恵美は消えた彼岸花をうつろな目で、探し続けた。
了




