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前編

 「毎朝、眩しい朝日で目を覚ますと、お母さんとお父さんが、焼きたてのトーストの香ばしい匂いの中で、笑いながら次の旅行の行き先を話し合っている。遊園地なんてどうだろう?この前いったばかりじゃないの、次は××高原がいいわ、恵美が羊を見たいって言ってたもの。そうか、じゃあそうしよう。 私は二人の会話に、どこかくすぐったいような嬉しさを感じながら、おはよう、お母さんお父さん、と言うのだ。」


【暗い微笑】


 恵美は、一人の薄暗い部屋の中、溜め息をついた。興奮が冷めるのと同時に、じわりと涙が浮かぶ。ノートに書きなぐられた薄っぺらい理想に、少し慰められたからだ。


 いつからだろう、恵美は、母親との仲がこじれる度に、こうして温かい理想の家庭を紙の上に作っては、そこに自分の姿を置き、自分を慰めるようになっていた。父親の多額の借金を理由に離婚した母と二人で暮らすようになってもう十年経つ。

 雀の涙ほどの生活保護のお金を、母親はお酒に費やすようになった。勉強の出来た恵美の進学を助けてくれたのは、その母親の両親、祖父母だった。とはいえ祖父母は、本当の意味で恵美を救わなかった。恵美が酔った母親に暴力を受けているのを知りながら、それでも実の娘が可愛いのか、実家に帰るのを拒む母から恵美を取りあげる事はしなかった。

 つまり恵美は、母親の生活を支える役割を担わされているのだ。恵美は毎日、酒を飲む以外何もしようとしない母の代わりに、全ての家事をしながら、また母の鬱憤晴らしに使われながら、一番に自分の事を考えてくれる人間はいないのだ、と悟った。そして、その寂しさを、自分で書いた物語によって紛らわしていた。


 恵美の通う高校は、県内でも有数の進学校だ。恵美は、自分は一人で何とか生きていかなければいけない事を知っていたので、よく勉強した。奨学金を貰い、県外の大学へ進学し、母と離れたいというのもあったが。

 内気な恵美には友達がいなかった。また恵美は、高校に通う大抵のクラスメイトが、裕福な家庭で、親が医者だったり、大学教授だったり、企業でそれなりの地位についていたりするのが殆どで、劣等感にも似た気持ちから、自分の寂しい事情を理解してくれる人はいないだろう、と思ってもいた。恵美はハツラツときらめかんばかりの級友の笑顔を見るたび、一抹の影を暗い目にためたまま寂しく微笑した。


 その高校には、毎年二回のある行事があった。県内でトップ10の高校合同で開催される文芸コンテストだ。募集要項は、自作の文芸作品、または小論文で、大賞が一作品と優秀賞、佳作を合わせて五作品が入選する。入選すれば新聞での紹介と学校での表彰が行われる。高校同士の競争もあって、それぞれの高校が、このコンテストに力を入れていた。また、内申書の事もあって、生徒のほとんどがコンテストに参加し、慣れない文章を書いた。



 恵美もまたコンテストに情熱を燃やす一人だった。五月のコンテストで、佳作をもらってから、いよいよその熱は高まった。次の募集締め切りは九月だ。七月に佳作の表彰を受けてから、実は恵美には一人の友達が出来た。一緒に佳作に入選した白水知可である。恵美と彼女はクラスメイトから羨望の眼差しと、教師からの期待を一身に受けた。


「嫌ねぇ。プレッシャー感じちゃう。私まだ全然新しい小説書いてないのに」


 満更でもない、といった顔で知可は恵美の肩を叩く。知可は全てにおいて恵まれている少女だった。夏服の白いセーラーからは、すらりと白い腕が伸び、傷ひとつない華奢な足もまた真っ白なソックスに包まれている。匂いたつ髪は光を浴び美しく流れ、長い睫と色濃い唇、派手な雰囲気の顔立ちは、均整がとれ美しかった。知可は、強引で少し我儘な所もあったが、その美しい容姿のおかげで、大抵の事は好意的にとられていた。知可自身、自分の我儘が、当然のごとく受け入れられるものと認識していた。


「先生、コンテストに向けて朝の課外は読書の時間にして欲しいの。いいでしょう?このクラスは、二人も佳作をとったんですよ」


 知可がそう提案した時も、国語教師はあっさりと週に一度ある現国の課外授業を、コンテストの創作時間にあてる事にしてしまった。それには、さすがに恵美も驚いたが、家に帰ってはコンテスト用の小説を執筆する時間が限られているので、助かった。


「どう?順調?」


 休み時間に恵美が机に向かって、ペンを悪戯に弄んでいると知可が声をかける。


「全然。何を書いていいのか、わからなくなっちゃって」


 恵美は突然美しい少女に話しかけられた事にどぎまぎしながら、苦笑した。実際、今までは自分のためだけに小説を書いていたのが、急に佳作を貰った事で、注目され、次の入賞のため、学校の期待に答えるため、何を書くのがいいのか考えあぐねていた。


「好きな事を書けばいいのよ。そうすればきっと良いものが出来るわ。お互い頑張りましょう。」


 知可は優しく微笑んで、恵美の髪を撫でた。知可が皆に嫌われず、持てはやされるのはきっとこの優しい笑顔、どこか姉御肌の強気な態度に包容力に似た優しさを持たせるそれがあるからだ、と恵美は思う。


 知可は、事実、大人しくて孤立しがちな恵美を積極的にクラスの輪へと誘った。昼ご飯の時、体育のチーム決めの時、何という事はない自習時間の談笑の時。どこか陰気な影を持つ恵美の雰囲気は、隣に知可の居るとき、美しい花を添えたように、ぱっと華やいだ。恵美は、始めて自分の存在が皆に認識されたようで嬉しかった。そして、目の前にいる美しい少女が、優しい目で、自分を見てくれる事が、何よりも恵美を幸せにした。


 自分は、誰からも見放された寂しい存在だと今までずっと思っていたのだから。


 

 幸せを噛み締めながら時が過ぎ、いよいよコンテストの締め切りまで一ヶ月を切った。周りは、近づく締め切りに向け、皆がどんな話を書いているのかの詮索や、自分の作品の出来栄えの話でざわめいている。恵美は、静かに机に向かう事が多くなった。学校での幸せな日常に比例するように、母親の暴力は増え続け、家庭での時間は日々陰惨たるものになっていて、執筆の時間はおろか気力すら削がれていたのだ。それに楽しい学校生活という逃避場所を見つけた恵美にとって、小説を書く事はどうでもよくなっていたのだ。

 それでも締め切りが近づき、周囲の期待もあっては、恵美も何も書かないわけにはいかず、しぶしぶノートに実のない言葉を書き綴った。


 


 

 


 

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