第1話 奪われた主役と婚約
王立歌劇場の大稽古場には、拍手より先にため息が満ちていた。
新作歌劇《白銀の花嫁》の通し稽古。私は舞台袖で配役台帳を抱え、代役欄と出欠欄を確認していた。表紙の角は擦り切れ、革紐は何度も結び直している。それでもこの台帳だけは、誰がいつ舞台に立ち、誰がどの役を引き受けたかを嘘なく残してきた。
「クラウディアお姉さま、その台帳、もう必要ないかもしれないわ」
高い笑い声と一緒に現れたのは、二十八歳の妹リゼットだった。薄金の髪を揺らし、まだ本役でもないのに主役の白いドレスを着ている。
「今日は代役確認の日よ、リゼット。勝手に衣装を」
「勝手じゃない。もう決まったの」
そう言って彼女は、指先で舞台中央を示した。そこへ三十五歳の婚約者エーミール・ハルトマンが歩み出る。王立歌劇場の支配人補佐で、口先だけなら一流の男だ。
「クラウディア。主役アーデルハイトは、今夜からリゼットが務める」
私は言葉を失った。主役の代役登録も、歌唱補助も、舞台転換表の修正も、ここ一ヶ月ずっと私が整えてきたのだ。台帳にも本役の欄には私の名前があり、リゼットは第二代役でしかない。
「配役変更届は出ていません」
「これから出す」
「順番が逆です」
「観客は順番より華を求めるんだよ」
エーミールは、昔そうだったように私をなだめる声音で言った。だが視線は私ではなく、リゼットの頬にしか向いていない。
「それに」
彼は私の左手を見た。婚約指輪がある。
「婚約も見直す。歌劇場の顔になる女性は、やはりリゼットの方がふさわしい」
喉の奥が冷えた。笑うべきなのか怒るべきなのか、一瞬だけ判断が遅れる。その隙に、舞台監督が稽古場の奥から新しい配役紙を持ってきた。まだインクが乾いていない。私の名前に横線が引かれ、その上へリゼットの名が重ねて書かれている。
「そんな紙で台帳は変わりません」
私は配役紙を受け取り、筆跡を確かめた。署名欄は空白。承認印もない。こんなもの、正式な変更ではない。
「正式かどうかなんて、明日の夜会で皆が見ればわかるわ」
リゼットは主役の袖をつまみ、甘く笑った。
「端役の声がお似合いだったのに、お姉さま」
その言葉で、稽古場の空気が凍る。私は台帳を胸へ引き寄せ、静かに答えた。
「端役でも代役でも構わないわ。でも、記録だけは勝手に塗り替えさせない」
エーミールが肩をすくめる。
「なら好きに書け。明日になれば、誰も気にしない」
その時、台帳の間から一枚の控え札が落ちた。慈善公演特別夜会、主演者確定欄、私の署名入り。昨日の時点では確かに私が主役だった証拠だ。
私はそれを拾い上げ、折り目を伸ばす。
「ええ。明日になれば、もっと大勢が気にするかもしれません」
まだ、この時の私は知らなかった。主役を奪われた夜より、もっと大きなものを奪われた朝が来ることを。




