最終話「You were here」
呆然と過ぎ去る景色を見ながら積る安堵とともに席に身をゆだねていた。薄暗がりの中、時が止まったような世界で朝を迎えようとしている。
タワーマンションから脱出後、基地へ向かうアイラ・マディソン少尉の下に連絡が入った。何の連絡だったのかは分からない。「少し遠回りをしてもいい?」そう聞いた彼女に、俺たちは顔を見合わせた後で首を縦に振った。どのみちこれからの安全は保障されている。その中に入れるのであればもはや居場所なんて些細な問題ではなかった。
でも、少しの遠回りの割に随分と長い間ジープは走っている。後部座席で俺の肩に首を預けながら藤宮はすぐに眠ってしまっていた。長い間、ほぼ不眠不休で歩き続けたのにも関わらず俺はあまり眠れずに明かりもない道路の向こうの闇を見据えていた。たまに見かける食屍鬼との距離は見かけよりずっと遠く思えた。
運転をするのはチャーリー・ゴメス軍曹という黒人の救助隊だと日野さんが教えてくれた。だとしてもお互い言葉が通じるわけではなく『大丈夫か?』という言葉に記憶に曖昧な返事をしただけだ。
ある意味退屈ではあるのだが、そう感じれることが幸せなのだとは思わずにはいられなかった。他の車に乗る仲間もそうなんだろう。座席に預けた背中は力を失って、体だけが眠りについた。今はこれでいい。
曇る後部座席の向こうで徐々にその姿を現す終末世界。無理やりに腕を動かして窓をこすって眺める。いつの間にやら高速道路に入っていたらしい。気づかないうちに寝てしまっていたのだろう。藤宮も俺の膝の上に頭を置いて小さな寝息を立てている。逆にその姿勢は辛くないのか。それでもこうして眠りにつけるのなら俺にとっても幸いである。その腰にそっと手を置いた。
バックミラーに映るゴメス軍曹の顔は俺たちとは違って生き生きとしているように見えた。時折彼の鼻歌が車中に小さく響く。それがなんだかおかしくて数時間ぶりに再びほおが緩んだ。
雨はまだあがっていない。ワイパーは忙しくフロントガラスを行き来する。昨日よりも強くなっているようだ。
白み始めた雨の朝、住宅街と小さな林の向こうにわずかではあるが水平線を見た。
少尉たちの目的地に着いたのはそれから一時間半後の事だった。閑散とした駐車場に止まったジープから見知った顔達が降りてくる。誰もみな、寝ぼけ眼をこすりながら小さく「おはよう」とこぼした。目の下に浮き出るくまに秋津さんが寝ていないことも分かった。
ほのかに潮の香りが鼻に届く。冷たい風が肌を撫でてその身を縮ませた。雨の中を誰が何を言うわけでも無く、海の方向へと歩き出す。石の階段を降りて砂浜に足を踏み入れた時、詩音ちゃんが駆けだして、荒れた波を恐れるようにその場に立ち尽くした。
季節外れの海水浴場。波は白く波打って朝の静寂を叩いている。
なんのためにこんなところへ?たぶん誰もが思っていることだろう。けれど誰も口にせず、少尉の下に続いた。
それは砂浜に降り立った時既に俺たちの目に映っていた。その時には何も考えなかったがよく考えてみれば少し異質だ。
潮風に曝される一台の車。車種こそありふれているがここにある理由は不明だ。その車を囲むように立った小隊に続くように俺も藤宮と手を繋ぎながら向かう。
日野さんは生存者グループの誰よりも足早に車の下へと向かっていた。日野さんだけが俺たちがここにいる意味を知っているような気がした。
車の座席が見える位置まで近づいた時、俺は心臓をギュッと掴まれた感覚を覚える。運転席と助手席に若い男女が座っている。助手席の彼女は帽子を深々と被り静かな笑みを湛えながらうつむき、運転席の彼はその白い目にエメラルドグリーンの海原を湛えていた。
彼はすでに死んでいる。死にながらにして生きている。幾度も目にした食屍鬼だ。それは分かっている。だがそれらと違うのは、やってきた俺たちに何も関心を持たないように、息をすることなく海を見ているだけだったことだ。
「ここにいたのか……」
日野さんが呟く。
「お前、ここまでやってこれたんだな」
声は震え、日野さんの頬を涙が伝っていった。雨が降ってはいるがそれは確かに涙だった。
彼がいったい誰なのか、それを知るのはこの場では日野さんだけだろう。俺たちには何も関係がない。それなのになんで、なんで熱い滴が頬を伝うのだろう。冷たい雨に入り混じって、俺の頬にも涙が伝う。
見ればここにいる全員が静かに泣いていた。思い違いじゃなく、紛れもなく涙している。強く手を握る藤宮も石井さん達も、秋津さんや成塚さんでさえも静かに彼の死を弔うように泣いている。
俺は彼を知らない。いったい彼が誰でどんな人だったのか。この世界はそんな人ばかりだ。前に藤宮が言ったように名前もない哀れな魂が彷徨っている。そのひとつひとつに涙することもなかった。
だけど今は理由のない涙がこぼれていく。疲れ切った表情で海を見つめる彼に対して自分でも説明のつかない涙だけが流れていく。
ふと、彼が隣に座る彼女の手を握っていたのが目に映った。
それを見た時、すべての意味が繋がった。
そうか。
俺は君を知っているんだ。
名前も分からない。彼の性格も、どんな人生だったのかも、これまでに何があったのかも俺たちには分からない。
ただ一つ、君がどんな思いで彼女とともにこの世界を生き抜いて、どんな気持ちでその手を握っているのか、それだけははっきり分かる。俺たちもその軌跡を辿るように歩いてきたのだから。
だからきっと君は彼女との約束を果たそうとここまで来たのだろう。死者の手から抜け出して、どこまでも続く大海原を前にして、ここに安息の地を見つけたのだろう。
君がその目に湛えるこの景色は君が彼女とともに見たかった景色なのだろう。
胸が張り裂ける思いだった。
彼とともに藤宮の手を握ったまま海を眺める。生憎の大しけだが、その向こうに静かに波打つ景色さえ見えたような気がした。
「……こいつがお前の言ってた引きこもりなのか?」
秋津さんが日野さんに尋ねる。
「ええ……。奥村大智って名前です」日野さんはポケットから彼のものと思しき生徒手帳を取り出した。「俺が彼と話した時は名前さえ知らなかったんですけど、少尉たちが出会わせてくれた。たぶんこいつに呼ばれたんですよ」
大きく鼻をすすってから、日野さんは彼に話しかける。
「なぁ引きこもり。お前……なんていうか、すごいよ。俺たちみんなお前のおかげでここにいるんだよ。引きこもりのくせしてここにいる全員、お前が助けたんだよ。お前が諦めなかったから、お前がその子を守り切ったから俺たちみんなここにいてお前に会いに来れたんだ」
日野さんの言う通りなのだろう。彼の意思が俺たちをここまで連れてきてくれた。たとえ、彼が食屍鬼で彼女が息をしていなかったとしても、彼はそのすべてを守り切って俺たちへと繋げてくれた。
「約束するよ。今度は俺の番だ。絶対に諦めないから」
日野さんはダウンジャケットから銃を取り出して彼のこめかみへと向ける。
「だ……駄目ッスよ!」
藤宮が日野さんに向けて叫ぶ。
「何もそんなことする必要ないじゃないッスか!!」
日野さんは藤宮へと振り返り、涙を拭ってから優しく返す。
「……そうかもしれない。でもさ、俺、なんとなく思うんだ。こいつの魂はまだここに残ってる。永遠に死ぬことができないままずっと一人ぼっちでここに居続ける。そんな気がするんだよ。だから俺は隣の彼女のもとにこいつを連れてってやりたい。……そんな理由じゃダメかな?」
藤宮は小さく「そういうことなら」と言って引き下がる。マディソン少尉は一人だけ雨の降り落ちる空を見上げていた。
向けた銃口の先はこめかみではなく眉間になっていた。彼はゆっくりとこちらを向いてその白い目で何かを訴えているかのようでもあった。同時にすべてを受け入れるようにその瞳に銃口を映す。食屍鬼とは思えないほど彼は静かに俺たちと向き合っている。
「……ありがとうな引きこもり」
日野さんを始めにみんなが口々に感謝を告げる。
「ありがとう」
俺が小さく礼を告げた時、エメラルドグリーンの海に一発の銃声が響き渡った。
奥村大智という名の彼、そして俺たちの逃避行はこの海で終わった。
ずっと歩いてきた。死と喪失で溢れかえる暗く長い道をずっと。
そしてこれからも歩いていくのだろう。この逃避行の終わりが歩くことの終わりではないのだから。
前に進み続ける。彼の目的地から俺たちの旅が始まる。
去りゆく中、振り返った先にはもう動くことのない車が一台、安らかに眠る二人と共に止まっている。
俺はそこに、確かに安息の地を見ていた。
降りしきる雨の中、何度も振り返りながら隣を歩く彼女の手を強く握る。
彼のように俺は彼女を守りきれるだろうか。そんなことを、ずっと、考えていた。
最終話ですけど、あと一話だけ書かせてください。




