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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
DEAD ZONE
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第百五話「chain・9」

 バリケードが静かに崩されていく。小さめの本棚を花田君が持ち上げて静かに床に置く。

 うめき声は近く、けれどどこにいるのかは分からない。闇がただ蠢いている。俺たちの死を望みながら。


 懐中電灯が正面を照らす。淡くも強い白色の光が灰色の階段を照らす。黒い血液が流れた跡、どこのものともつかぬ肉片。それが見えてから戻らなくてもいい嗅覚が吐き出したくなるような臭いを覚え始める。

 ひたひたと素足で歩く音が反響している。雨漏りなどしていないこの階段に水の音を撥ねさせながらそれはどこかで鳴っている。思っているよりもずっと近いところなのだろう。


 バリケードを崩すにあたって完璧な無音を創り出すのは困難なことだ。雑音が生まれてはこめかみに汗が流れ、喉が不快な唾を送る。騒ぎ出す空気が焦燥を強める。焦燥が雑音を産み、雑音が焦燥を生む。そのたびに近づく足音。黒い両目の視界をジャックしたように俺の脳内で鮮明に階段を上っていく光景が広がってくる。もちろんそんな能力はない。恐怖が生み出す幻想。なにかもっと他にいい言葉はないものか。もっとおどろおどろしく不快を思わせる言葉が。


 空気はピアノ線のように張り詰め、ピアノ線のように殺傷能力を持ち合わせる。これが最後。それが命の最期ではないことを祈りたい。

 ようやく自分の腰までバリケードが崩れていったとき、下へと降りる階段の壁に人影がゆっくりと上ってくるのが見えた。心臓は強く波打ち、噛みしめる歯がギリギリと鳴った。


 ふいに自分たちの足元で物音が響く。静かな波も打たない水たまりに突如投げ入れられた石のごとく、それは荒々しい波紋となって俺たちを叩いた。


 動かした棚の中に何か物が入っていた。誰かがそんなことを言っている。だが、そんなこと、光の速さで過去へと流れ、避けたい現在(いま)が立ちはだかる。


「走れ!!」


 成塚さんが叫ぶ。

 迷っている場合ではない。投げ出すように振り上げた足が未だ崩しきっていないバリケードに当たり咆哮した。


「っ!!!」


 ただ耳の中に情報として入ってくる銃声。今はそれどころではない。たった一時間も前に落ちた時に痛めた足を当ててしまったのだ。触らずとも大きく腫れているのが分かる。

 走り出した秋津さんや石井君たちに後れを取らぬよう懸命に足を前に送り出す。踏み込むたびにこの世のものとは思えぬ痛みが走る。地獄で罰を受けている気分だ。でも今までだってずっとそうだった。


 成塚さんの下へ振り返ることはしなかった。未だ最後尾の俺の後を彼女が追っているようには思えない。誰も死なないことが成塚さんの望みならば俺がすべきことはたった一つ。走ることだけだ。


 懐中電灯の明かりは四散してあらぬところを乱暴に照らす。


「先に行け!!」


 秋津さんに背中を思い切り押されて踊り場に崩れ落ちる。このままの姿勢でいるほうがずっと楽だった。だけど命がそれを許さない。

 両手で階段を掴んで再び半二足歩行で上へと上っていく。あげているはずの足が燃えるように熱い。

 これは痛みではなく、熱そのものだ。痛い痛いと叫ぶ自分の声が他人の声にも聞こえる。


「日野君!足が折れてたんじゃないか!?」


 石井君が手を貸してくる。ありがたくその手を取る。手を取るというには表現が足りない。その手を握りつぶすような強さで固く握った。こうでもしないと足を踏み外してガタガタと崩れ落ちてしまいそうだった。


「山崎!!前だ!!!」


 花田君の太くて威勢のいい声が響く。続く鈍い音。目の前で何かが横たわる。それを踏み越えて進む。痛みにこらえきれない涙がぼろぼろと落ちていく。感情は何も関与していない。だからこそ大量の涙が出ていく。あまりにも無機質な液体だ。


 きっと今目にしている光景はすぐに忘れてしまうのだろう。はちきれそうな心臓も、視界を覆う闇も、耳に入る阿鼻叫喚も、むせかえるような腐臭も数分後には忘却の彼方だ。

 何もかもが一瞬にして過ぎ去って消えていく。


 それでいい。

 もっと大事なものが俺の目には見えている。

 力ではなく、命そのものを振り絞って、生者を生者たらしめる足取りで往くべき道を往くのだ。





 タワーマンションの屋上、風は唸りをあげて俺たちの下に吹き曝す。陽はすっかり落ちて漆黒だけが眼前を満たしている。立ち込めた雨雲からは霧雨が降り服をじんわりと濡らしていく。

 手も足も無くなったように冷気に曝されてただだらりと下がっている。呼吸さえできているのか分からないほど疲弊した俺たちは一抹の希望を待ち続けていた。

 それがあるからこそまだ息をしていられる。まだ存在することができる。


 どれほどの距離を歩き続けたのだろう。黒煙が巻くような空を見上げながら思い返す。あてもない逃避行。そこらじゅうで蔓延る死者の手から逃れ、歩き、走り続けた。逃避行とは言いながらも俺たちは常に進んでいた。裏切られ、失いながらも確実に前に。

 同時にたくさんのものを見つけた。言葉にすれば些細なものへと変わってしまうようなものたち。そういうものこそ大切だと言い切れることも学んだ。

 世界がすっかり変わっても、絶望の渦の底に沈んでも変わらない何かがこの世界には必要だ。それを俺たちは、この世界は享受できたのだろうか。


「……助けに来るッスかね」


 隣に座る藤宮が呟く。声は掠れて俺にさえギリギリで届いたようだった。

 返事はできなかった。けたたましいライフルの音が聞こえたのはたった数十分前。おそらく助けが来たのだろうと歓喜さえ沸き上がったが気づけばそれが消えてしまうほどに疲弊している。


 詩音ちゃんは小さな寝息を立てながら俺の上着を下に、最上の上着を上に眠ってしまった。風邪を引くことを気にしているような状況でもない。時折屋上階のドアを見つめてはそれが開くことを待っている。

 食屍鬼の手で鋼鉄製の重い扉は開かれない。その扉を開けるのは人間だけだ。永遠に開くことが無いのなら飢えて死ぬだけ。それも大したことじゃなくなっていることをひどく嫌悪した。


 雨に濡れるコンクリートの床に静かに寝そべって天を仰いだ。咆哮、悲鳴。そのどちらともとれるような風の唸り。冷たさを覚える背中を預けるとこの高層ビルが掻き消えて無に浮かんでいるような感覚を覚える。投げ出した脚が竦み、脳は僅かな恐怖を覚える。


 鼓膜を蹂躙する風の中俺は確かに金属音を耳にした。闇に支配されていた頭が冴え、そのスピードとは対照的にゆっくりと体を起こして向き直る。

 暗闇に目を凝らすと懐中電灯の明かりとともに声が飛び込んできた。


「……雨宮君?」


 聞き覚えのない声だった。

 返事をすることができないが確かに呼ばれた自分の名前に答えるようにゆっくりと歩き始める。雨に曝されて感覚の死んだ手が徐々に温かみを帯び始める。


 灯りの先に見えた顔。伸びた髪が静かに揺れる。出会った記憶のない人はまた俺の名前を呼んだ。


「君が……雨宮君だね」


 息も絶え絶えに震えた声で彼は呟いた。


「ええ」


 掠れた声で答える。届いたかどうかも分かりはしない。彼が俺の存在に何を思っているのかは分からなかったが安らぎに満ちた笑顔で息をついていた。


「雨宮!!」


 その後ろから良く知った声達を聞いた。相変わらずだなぁ。そう思った時心の内が震えた。

 仲間たちが立ち上がり小走りでこちらへと向かってくるのが分かった。


「無事か!?他のみんなは……」


 辺りを見回す石井さんはその影に気づくと膝に手を付いて大きく息をついた。


「お前ら……もう……本当……雨宮ぁ!!!」


 言葉を失っているであろう石井さんは俺に抱きつくとその体を力強く抱きしめる。振動と熱が冷たくなっていた体を乱暴に叩いた。


「気持ちは分かりますけど……痛いですよ……」


「知るかこの馬鹿野郎が……!!」


 石井さんの肩越しに並んだ花田さんたちを見る。今はその影しか分からないけど安堵しているのは見て分かる。血染めの武器が音を立てて床に落ちた。


「迷惑かけてすいませんでした」


「本当だよ!帰ったら説教だお前はぁ!!」


 騒がしい声の中、ゆっくりと扉が開くのが分かると石井さんもようやく俺を開放した。やってくる存在を俺は静かに待っていた。


「……秋津さん」


 オールバックの髪は崩れシャツの至る所が血染めになっている。息も絶え絶えながらその眼孔に光を宿し決して良いとは言えない目つきで俺を見据えている。

 そんな秋津さんからの一言を待ち望んでいた。


「……無事だったか?」


 重い口が開く。俺の掠れた声とは対照的にそれはこの場にいる全員に届いたように思う。


「……はい」


 自分でも感情が渦巻いているのが分かる。それを必死で堰き止める。強く噛んだ奥歯にすべてを預けながら。


「詩音は?」


「……そこで、眠ってます。もう遅いですから」


「……そうか」


 奥にやった視線を再び俺に戻す。ゆっくりと距離を詰めて手をかざした。


 殴られたっていい。むしろそれを望んでいる。ここにいる全員を危険に曝した。すべて俺のエゴで。決して顔にも言葉にも出さなかったが色んなことを責め続けてきた。

 秋津さん達から離れたこと、仲間を死者の海に曝したこと、死にそうになったこと、仲間が殺されそうになったこと、人の命を殺めたこと、わが家にただいまを言えなかったこと。すべての罪を洗い流してほしかった。殴られたからってすべての罪がどうなることはない。いつまでも背負っていかなくてはならない。ただそれで少しでも自分の気が晴れるなら、ここで命を失ったっていい。決して無駄にはならない。そのはずだ。


 掲げた両手はそっと俺の肩に置かれた。


「よくやった」


 低く強い言葉。捉えて離さないかのように強く握られた肩。

 吐く息は震えて静かに嗚咽が混じりはじめる。冷たい雨が打ち付ける中、熱い涙が頬を伝って零れていく。


「……秋津さん……!!俺……!みんなに迷惑をかけて……!!みんな死んでもおかしくない状況で……!!俺は……人の命に手を掛けました!!この手で……!人を殺したんです……!!」


 おぼつかない言葉で自分の罪を並べていく。秋津さんは黙ってそれを聞いていた。


「もういい。終わったんだよ陸。終わったんだ」


「でも……」ふと、もう一人足りないことに気づいた「……成塚さんは」


 秋津さんとともにやってくるものだと思っていた。扉はまだ静かに冷たい鋼鉄のままそこに存在している。死と生とを隔てる冷たく重い扉。成塚さんはまだその向こう側にいる。


「……別に頼まれたわけじゃねぇが、さっきの言葉は俺と成塚のものだ。伝えてくれって言ってたからな。あいつはきっと自分がこの場にいないことでお前がお前自信を責めるって分かってた。だからそう伝えろと。世話焼くのには慣れてんだろうよ」


 秋津さんは俺の目をまっすぐ見たままで言う。


「よく詩音を守ってくれた。お嬢ちゃんたちも、お前自身もだ」


 秋津さんの大きな手が肩から離れる。


「だから成塚の事はもういい。それがあいつの本望だろう。お前があいつのことを忘れなければそれでいい」


 忘れるはずがない。それは約束できる。ただ自分の靴に視線を下ろしたまま、その視線をどこかに預けることはできなかった。涙だけが雨とともに床を濡らす。

 どれだけ言葉を並べようとあの人の強さを表現することはできない。ただあの人が命を呈して守った命をこれからどうするべきなのかを考えていた。その時だった。


「秋津康弘、私を勝手に亡き者にした罪で逮捕する」


 力強くよく通る言葉が鼓膜を叩く。見上げた先に首根っこを掴まれる秋津さんと片腕でそれを成す成塚さんがいた。


「成塚さん!」


 石井さんや見知らぬ彼、俺もその名前を呼んでいた。

 その後ろからぞろぞろと銃器を手に持った外国人たちがやってくる。


「……てめぇ、生きてやがったのか」


 苦しそうに秋津さんが言う。もう放してあげてもいいと思う。


「そう言っただろう。下の階層からやってくるマディソン少尉たちを忘れる私ではない。正義の味方は往生際が悪いのだ」


「少尉!」


 俺たちを前に立ち位置を悩んでいたであろう彼は真っ白な髪の彼女の下へと片足で跳ねながら駆けていく。


「陽平!良かった……!あんたたちも無事でやってこれたのね!」


「足がおしゃか気味ですけど……成塚さんに比べたら無傷もいいとこです。容体はどうなんですか」


「見ての通りピンピンしてるわ。普通なら立って歩くのも難しいのに。よほどあの怖そうな彼に執着してるみたいね。感染しているかどうかについてはまだ分からないけど、おそらくは大丈夫よ。血液のサンプルは向こうに送ってある。腕を斬り落とす覚悟に見合った結果は得られるでしょうね」


「……そうですよね」


「その足もすぐに応急処置しないとダメね。彼女みたいに斬らずに済むといいけど」


「そう願いたいです」


 片腕が無い成塚さんを見てショックこそ覚えたが勝利の笑みと言わんばかりに首根っこを掴んだままの彼女を見ると腕の欠損などものともしていないようだ。この人はきっと人間から一歩外れているに違いない。


「いい加減猫みたいに掴むのやめやがれクソアマぁっ!!」


「無様だな秋津。実にいい気味だ」


 後ろにいる仲間たちの顔を確認しようと振り向いた瞬間体が大きく揺さぶられる。抱きついてきたのは思いもよらない人物だった。


「……雨宮!」


「……最上」


 驚きこそしたが長い髪に腕を回してその背中を叩く。今までずっと気を張ってきたのだろう。最上にも二人の後輩がいて、突っ走りがちな俺の手を引く役目を負っていた。その背中の荷を下ろすように声をかけた。


「迷惑かけてごめんな」


 一番にそれを言うべきは彼女だった。今まで言えなかったことを悔やまぬようしっかりとそれを伝える。


「いいの。ずっと信じてたから」


 疲れ切った声とともに胸に顔をうずめる最上。


「冷たくないか?服は濡れてるんだが」


「あったかいわ。久々に自分以外の動いてる心臓を聞いてるの。鼓動が早いけど……大丈夫?」


 そりゃあ、待っていたとはいえ、一度に色々とありすぎたからなぁ。


「あー……おほん」


 わざとらしい咳払いに気づいて隣を見れば小さな影が立っている。


「先パイは早々に浮気するタイプッスか」


 本来は高い声なのに藤宮は低く刺すような声を放っている。


「いや……これはそういうのじゃ」


 俺から頭を離して手のひらで涙を拭った最上は俺たち二人を交互に見てから悟ったようだ。


「……あら。ごめんなさいね結衣ちゃん。ちょっと昂っちゃったみたいで」


「最上先輩は何も悪くないッスよ!私にも抱きしめさせてくれるなら許してあげるッス!」


「あ……!私もお願いします……!」


「中島さんもこっち来るッスよ!!今なら最上先輩ハグし放題ッスから!!」


 抱き合う彼女達。中島さんさえもこの喜びを表現するために駆けていく。残された俺は一人、一体何なんだと空をもう一度仰ぐ。


 漆黒の空に響く騒がしいほどの声達。自分の頬に久々に笑みが宿ったのを確かに感じていた。

次回最終回ですよ。

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