第百四話「chain・8」
何が起こったのか、すぐには分からなかった。目まぐるしく、耳鳴りと頭痛が体内で鳴り響いていた。
「こっちだ!」
花田君の声がする。俺は闇の中誰かの手にとられ半ば強引に引っ張られてそちらへと向かう。階段を踏み外して脛をぶつけたが手を握られるそのあまりの力強さに転んだことさえも瞬時に忘れた。暖かいその手から伝って流れる暖かい液体に俺はただ「最悪なことが起こってしまった」と理解するほかなかった。
フロアに着いて、足元にあった何かを蹴り飛ばす。その瞬間に秋津さんたちがやってきてそれを元の位置に移動させる。バリケードか。ここにいた人たちが作った最後の砦。見れば棚や今どき珍しい大きめのブラウン管のテレビもある。散乱しているということはつまりそういうことだ。
物を動かすと同時に聞こえてくるのは響く消音機付きの銃声。息も上がり肺が焼ける感覚を覚える俺は何が起こっているのかをその目に焼き付ける。
「成塚……!」
秋津さんが懐中電灯で照らす先、片方の手で銃を持ち片方の手から血を流す成塚さんが目に入る。
「……噛まれたのか……?」
「どうやら……そのようだ」
痛みを抑えようとくぐもらせた成塚さんの声に俺の中の何かが音を立てて落ちていく。
「そんな……!」
石井君たちが各々声をあげる。俺は絶句していた。言葉が出ないというべきか。
とにもかくにも俺を助けるために成塚さんが自らを犠牲にしたというのは分かる。分かりたくもなかった。闇の中で煌々と輝く懐中電灯の明かりがぼやけ、目の前を闇が覆う。顔は発熱し、立ってもいられなくなり壁に背を預けて荒い息をした。
身勝手だ。それは分かる。でも、人の命が自分のせいで失われることに俺は慣れていなかった。
なんで助けてくれたんだ。こんな俺を、ここまでそれほど大きな働きだってしていないこの俺を。
成塚さんはここにいなくちゃいけない人なんだ。優先順位をつけるんだったら、真っ先に抜けていくのは俺でいい。
誰を恨むべきだ?運命そのものを恨むべきか。
「……畜生」
小さな声が自分から漏れる。
ジャケットを脱ぎ血で染まったシャツをめくりあげる成塚さんは声一つ発していないが眉間には大きな皺がよっている。成塚さんはただじっと流れ出す血を見ていた。助けた俺を見ることは無かった。
この人はきっと、誰が噛まれそうになったって率先して救い出しに行くのだろう。この中の誰だってそうだ。たぶん見知らぬ人でさえもその身を盾にして守ろうとしただろう。この人はそういう人だ。それは理解できる。
ただ、納得には至らない。
人の価値は皆同じだという人がいて、そうじゃないと言う人同士とは分かり合えないように。俺は後者だ。少なくとも成塚さんの命に見合う価値はない。
言葉はいくつも沸き上がっては気化して消えていく。頭はまるで地獄の窯のように灼熱とともに思いを燃やす。
礼も、心配も、すべて成塚さんにかける気にはなれない。沈黙さえ俺は許すことができない。何をどうやったって俺は俺自身を許さない。
「秋津」
「……なんだ」
秋津さんを呼ぶ声は怒りに満ちているかと思えるほど力強く冷淡な声だった。心臓が冷たい温度とともに拍動する。
成塚さんは目を瞑ったまま噛まれた腕を水平に上げている。
「斬り落とせ」
何をしようとしているのか察しがついた時には成塚さんはそれを口に出していた。全員がその言葉に息を飲んだ。
「……な……」
「時間がない。早くその刀で肘から先を斬り落としてくれ」
感染は噛まれた部位が脳に近ければ近いほど感染の速度が早くなる。腐食箇所の粘性の血液はもちろん通常の血液と同じ速度では循環しない。脳に行きつくまでにその流れを止めることができるのなら、感染を防げる可能性があるかもしれない。随分前にネットで流れた噂だ。もちろん前例は確認されていない。
成塚さんはきっとそんなことを知らない。知るわけがない。考えたというわけではないようだ。前方を睨む瞳がそれを教えてくれた。何をしてでも生き延びる。人間の本能が成塚さんの瞳に表れている。
「……いいのか?」
腕を斬り落とす。それが何を意味しているのか秋津さんも理解したようだ。
「良いも何もこれは命令だ。私は生き延びなくてはならない。彼や雨宮君にこれ以上の心労を負わせたくはない。これで駄目なら私の体が弱かったということだ」
「……成塚さん!」
居ても立ってもいられなくなり、俺は成塚さんの下に駆け寄ってその腕を支える。握った手はまだ暖かく黒い血液が俺の手のひらを濡らす。
「すまないが私のポケットに入っているタオルハンカチを咥えさせてはくれないか」
言われた通り、一度手を離してタオルハンカチをくるみ、成塚さんの口に咥えさせる。ここまでこの人は一度も痛みに喘ぐことは無かった。秋津さんが恐れるのも無理はない。改めて思う。
諦めずに生き延びて、俺が助けられたことを後悔させないようにするその芯の強さに素直に敬服する。ここでいくら自分を責めたとて成塚さんの慈愛と強さには敵わない。
そういう人は確かに実在するのだ。
「やへ」
秋津さんは鞘から刀を抜いて慎重に関節を狙っていた。顔は険しく、躊躇すら垣間見える。当たり前だ。誰だってそうなるんだ。
「……っ!!」
振り下ろされた刀に全員が息を飲む。斬り落とされたと一番最初に感じ取ったのは俺と成塚さんが最初だろう。掴んだはずの腕が、ぶれないように絡めた指が無造作に力を失い握りしめた自分の手から垂れ下がっている。
その光景に思わず手を離してしまう。先ほどよりも大きなショックに眩暈を覚えながら成塚さんを見やる。斬り落とされた腕の脇を絞めて、タオルハンカチを咥えたまま痛みに耐えている。
「……成塚さん!!」
成塚さんの腕からは鮮血が流れ出る。懐中電灯に照らされた紛れもなく赤い血液。それが成功を意味しているのかは分からない。
成塚さんはタオルハンカチを吐き出すとそのまま仰向けになって寝転んだ。
同時に彼女の頬を涙が伝っていったのを俺は確かに見た。
数分間、俺たちはうな垂れていた。石井君たちはへたり込み、秋津さんも壁を背に座り込んでいる。どうすればいいのか。それはきっと成塚さんが決めることだ。未だに天井を見上げたまま寝転ぶ成塚さんの小さな息を聞きながら、その声を待っていた。
こうしている間にもバリケードのむこうで何かが蠢いている音がする。黒い目か、そうでないのかは分からない。どのみちこのバリケードの向こうに行くにはそれ相応の覚悟が必要だ。限界を超えた疲労を超えるのは生命力だけだ。その生命力を揺り起こし生き延びるための覚悟が俺たちには必要だった。
「……血は止まりましたか?」
石井君が成塚さんに声をかける。俺はそのきっかけを作れなかったことに少し気後れしていた。
「ああ……どうやらそのようだ。動くことはまだ控えたいがな」
「待ちますよ。ここまで来たらいくらでも」
「どうかな」
優しく返した石井君に成塚さんから言葉が漏れた。俺も秋津さんも成塚さんの方へ向く。明らかに諦観の混じっていた言葉だった。
「ここから出るには正面のバリケードを動かす必要がある。反射的にここへやってきたはいいが、それが裏目に出ているような気がするんだ……なんとなくな」
「そんなことないですよ。例の黒い目だってまだ近くにはいない。抜けきることだってできる」
「成塚さんは」花田君が成塚さんに似たトーンで加わる「それがバリケードを動かした時にやってくるって言ってるんじゃないか」
「そうだ。あいにく私は手負いだ。階段を駆けあがるには少しばかりしんどい」
「なら俺らで手を貸しますって」
「そうなった時には全員がその場で死ぬ時だ」
石井君たちがどうにか成塚さんを説得しようと試みているけど、悪い方へ悪い方へと回答が積み重なっていく。
何だって急に。それじゃ、まるで矛盾している。生き延びるために腕を斬り落としたのに、数分後にはその逆へと進んでいるのだ。
「……じゃあなんで俺に腕を斬らせた?」
秋津さんの言う通りだった。疑念の渦の中、成塚さんはいつもの声で言った。
先を見据え、揺るがぬ意思を持ち、真実を語る声。
「生き延びるため。そう言ったはずだ」
「だが……」
「私が命を諦めると?」上体を起こし成塚さんは秋津さんを睨みつけるように見た。「ならきっとパニックが起こった時点で私は死を選んでいる。なんのために死地を踏み越えてきたと思っているんだ。私が言っているのは全員で生き延びるにはそれしかないということだ。私を連れて上に行くならばそれは叶わない。先にお前たちで上がれ。それが最善だ」
数舜沈黙が流れる。怒りかと見紛う強い言葉。俺たちは全員圧倒されてしまう。
「でもそれじゃ成塚さんは……」
「よせ」
山崎君の開いた口を制止したのは秋津さんだった。
「もういい。成塚が決めたことだ」
それだけ言うと秋津さんは煙草を取り出して火を点ける。暗闇を見つめながら大きく煙を吐いた。
この二人の領域には足を踏み込めない。二人の領域というのは少し言葉が足りない。秋津さんも成塚さんもそれぞれ相反する領域を持っている。譲ることのない強固な領域。
でもどこかで二つの領域が重なった時、それを他人がどうこうしようたって動くことは無い。そんな時がここで訪れる。
成塚さんは理想を語る人じゃない。現実の中で最善を導く人だ。警察という立場で悪を見てきたからこそあらゆる理不尽な状況も受け入れながら前に進む。
でも成塚さんは今度こそ生き延びてはくれないような気がする。映画だってそんな展開ばかりだ。
俺たちは押し黙った。組んだ両手を見つめながら成塚さんの言葉を受け入れようとしていた。
「陽平君」
名前を呼ばれた俺はすぐさま成塚さんの方へと向く。何か言葉が欲しかったのだ。
「君に頼みがある。その拳銃を私に預けてはくれないだろうか?」
「ええ、もちろん」
俺は迷わずにグロックを取り出して成塚さんに手渡す。それでこの人が生き延びてくれるならなんだって差し出すだろう。
「……いい銃だ。これなら戦える」
「准尉のお墨付きみたいです。彼はこれを手渡した時に言ってました。『狙って、撃って、殺せ』って」
「……そうか。君はその意味を?」
「生き延びること。……それとなんだか変な話ですけど、終わらせてあげるためのものなのかなって俺、思ったんです。銃を撃つとき、人は人でなくなるって成塚さんは言ってましたけど、そうじゃなかったんです。人であるから、人としてその引き金を引くべきなんだって」
成塚さんは静かに微笑んだ。見た目よりたくさんの表情を持っている人だ。
「たった数日の間に君は私よりも多くのことを学んでいるようだな。君はきっとこの世界に必要な人間になれる」
そんなことないですよ。そう言おうとしたけど言葉にならなかった。不覚にもそう思ってしまったのだ。俺は偉大な人間じゃない。どこまでも矮小な一人の人間だ。でもそれが花開く時がいつかやって来る。空になった手にその種を握りしめるかのように俺は彼の言葉を思い出す。
ああ、分かってるさ。繋げるよ。引きこもり。
「それともう一つ。上で待つ雨宮君によくやったと伝えておいてくれ」
「……それはできませんよ。自分の口から伝えてください」
それもそうだなと笑ってから成塚さんは立ち上がった。無くなった腕の事もあり心配になった俺をよそにゆっくりとではあるがまっすぐに歩くと二本目の煙草を吸い始める秋津さんの下へと行った。
「秋津、何を呑気に煙草なんて吸っているんだ」
「最後の一本だ。それくらい吸わせろ。まともじゃねぇのもこれで終わるんだからな」
「ダメだ。私に吸わせろ」
秋津さんはその目を大きく開いて口をへの字に曲げていた。まさに驚いていた。
「最後の一本だってのが聞こえなかったか?だいいちお前煙草なんて」
「もらうぞ」
秋津さんの言葉をよそに指の間にある煙草をぶんどると煙を吸って大きく吐き出す。
「……クソまずいな。なんでこんなもの吸ってる」
「ごちゃごちゃ文句言うくらいなら返しやがれクソ女」
「断る」
少しずつ穏やかに崩れていく緊張と諦観に満ちた空気を引っ掻くようにそれがバリケードの向こう側からうめき声とともにやってくる。間違いない。黒い両目だ。
俺が立ち上がった時にはみんなも立ち上がり、その手に武器を携えていた。
成塚さんは煙を吐いた後で闇を睨みつけて力強く言う。
「全員覚悟を決めろ。これが最後だ」
お久しぶりです。上野です。後半になるにつれて投降ペースが鈍足になってしまい大変申し訳ないです。
実はこのお話、後二話で完結します。
長いお話を書いたのはこれが初めての経験です。すごく大変なのは大変なんですが何より終わるのがこんなに嫌だとは思ってもみませんでした。
最終話も書き始めた時からすでに決まっていて、今のところ当初の予定とも変わりありません。何話で終わるかも後半になるにつれて分かってきてはいました。
書くものも決まっている。だけども終えられない。終わらせたくない。ずっとそんな感じでした。
自分の中でも次の課題はあれど、自分が書いた登場人物に愛着が湧いて物語を終わらせなければずっといてくれるんじゃないかなぁとか思ってました。前を見ろだの先へ進めだの言わせといてそりゃないよなぁ。
なので覚悟を決めてみんなでゴールしたいと思います。次回は詳しい日程は言えない状況ですが待たせないくらいの感じで投稿します。残り短いですが是非ともよろしくお願いします。
百一話にリンク載せてる暁のデスペラードもよろしくね。




