第23話 蛍雪堂(けいせつどう)1―古書店の地下―
「えっぐしょん!」
「浅葱……大切な本たちが汚れるから、くしゃみやめて」
真赭の猫目が、さらに吊り上がった。
全く悪びれた様子のない、くしゃみの主を睨みつけたのだ。研ぎ澄まされた包丁のような視線に刺された浅葱は、口元を引き攣らせた。
「なんでだよーちゃんと布巾だって巻いてるじゃないかぁー」
所狭しと、ありとあらゆる本がおさめられた倉庫。ここには年代物の本――古代の魔道の力が封印されていたり知識が集約されていたり、所謂『古書』が仕舞い込まれている。しかも、とある人物の秘蔵の古書たちが、ひっそりと隠されていた場ということもあり、かなり貴重なものばかりだ。その量は、国の所有に匹敵するか、若しくはそれを超えているかもしれない。
一介の古書店の地下にあるにしては、あまりにも広大だ。書庫というよりは、巨大な国立図書館とも呼べる大きさはある。
「しかも、すっごく反響したよね」
そんな場所だから、浅葱の豪快なくしゃみは、未だに響きわたっている。蒼は抱えていた本を置き、あいた両手で耳を塞いでみせた。
しかし、まぁ。紙が多く集まっている場所を整頓しているのだから、くしゃみをするなという言葉は、ひどく酷に聞こえなくもない。けれど、余りにも遠慮のない勢いでくしゃみをした浅葱を、本を愛しく思う真赭が責めたくなる気持ちもわかる。
「浅葱のくしゃみ、豪快すぎるんだよ」
「出るものは仕方がないだろぉー」
蒼が助け舟を出さないことを悟ったのか。浅葱は、口に巻いていた布巾を剥ぎ取り、大型の木梯の上にどっかりと腰をおろした。行儀悪く、あぐらをかいて。
浅葱と呼ばれた少女は、太ももあたりの長さの袴を履き、直垂を羽織っている。膝裏までの羽織が地面に触れると、その拍子に、また埃が舞い上がってしまった。浅葱は、再び投げつけられた視線から意識を逸らすように、俯き気味の姿勢になり、眉間を中指で抑えた。
「髪に埃がつくのはどーでもいいけどさぁ。鼻は困るよぉ」
顎あたりまでに長く伸びた前髪。名前と同じ薄い青緑の髪が、頬にかかった。頭の高い位置で団子状に纏められている後ろ髪からは、無造作に遅れ髪が飛び出してもいる。大雑把なまとめ具合に、浅葱の性格がそのまま反映されているようだ。
浅葱の癖のような仕草は、空振ってしまった。その様子を見ていた蒼は、呆れ顔で同じ仕草をしてみせた。
「浅葱ってば、今は眼鏡かけてないのに」
「おっと! そうだった。ボクの大事な、華香札を浄錬するのに使う眼鏡は置いてきたんだったよ。埃まみれになったら大変だもんねぇ」
「浅葱、帰っていいのよ? ね、蒼?」
浅葱は華香札店の娘だ。まだ店主である父親の手伝いという立場ではあるものの、アゥマと香りの焚きしめる調合具合は、なかなかのモノ。実際、異形の者や邪を祓う効果は絶大だ。蒼も心葉堂の軒先に貼る華香札も、必ず彼女の店から購入している。
自分のことを『ボク』と称し、一見がさつな振る舞いで、男物に近い服を好んで着こなす浅葱だが。術の施しは、実に繊細なのだ。
「真赭は蒼にばっかり甘いんだよねぇー」
「蒼に甘いのではなくて、浅葱に厳しいだけ」
「もっ、もっとヤな感じになっちゃったよ……」
背中を丸めて冷や汗を流した浅葱と、ふいっと顔を背けて足元の本を拾い上げた真赭。そして、巨大な本棚の渕に腰掛けて二人を楽しそうに見つめていた蒼の三人は、幼い頃からの付き合いだ。
真赭の祖父母は蒼の祖父である白と幼馴染関係であったし、浅葱の父親は白の弟分のような関係なのだ。
「素晴らしき幼馴染の仲ってやつだね!」
幼馴染同士の微笑ましいやりとりを、笑顔で見守っている蒼に「違うっ!」とお揃いの声が返ってきた。
あまりの勢いのよい調子に、蒼は改めて手にとった本で顔を隠した。いつも通りの二人の反応に、特に言葉は返さない。蒼は、ぐるりと周囲を見渡した。
「それにしても、凄い光景だよね。御伽話しに出てくる、本の世界に迷い込んだみたいだよ」
蒼の言う通り。古書を扱っている店の地下深くにこの書庫はあるのだが、人間が小人に思えてしまう程、巨大な本棚がずらりと並んでいる。
その本棚は、樹のようでもあり、大理石のようでもある。不思議な感触だ。大小の梯がいたる所に備え付けられており、特殊なカラクリで、自動に動くようになっている。
「この書庫は、おばぁ様が白様と同じように、冒険家として世界中を飛び回っていた頃から集めていた本が眠っているから」
「古書の老舗の先代だしねぇ。稀少なものがいっぱいあるんだろ? ボクには本のことは良くわからないけど、しまい込んでいるだけなんて、宝の持ち腐れってやつじゃん?」
浅葱の疑問で、真赭の視線がわずかに鋭くなった。
ここは、心葉堂と同じようにアゥマが流れる道が走っている。理由のひとつとして、気温と湿度を保つため。それともうひとつ、魔道の力を備えた本を制御するためにだ。けれど、心葉堂の溜まりが洞窟風であるのに対して、ここは周りの壁は岩肌そのものではなく本棚と同じ素材で固められている。
書庫の入口には、大きな円卓に飾り付けられた八卦の模様が書かれた板。その中央には、成人男性の肩幅ほどもある、半球の硝子がはめ込まれている。アゥマの使役によって、目当ての本が探せるようになっているのだ。硝子に文字が浮かび上がるのと同時、本棚に並べられている本が光る仕組みだ。
「もう、浅葱ってば」
「だってさぁ。本に興味がないボクにとっても、華香札関係でめっちゃ惹かれる本が一冊くらいありそうじゃん?」
蒼と真赭それに浅葱は、最奥の本棚の最上部にいる。浅葱が座ったままの姿勢で、手近にあった本を一冊拾い上げ、ふぅっと息を吹きかけた。すると、その風にのって、埃の綿毛が飛んでいった。
しかしながら、大分年季が入った埃のようで。本自体にこびりついてしまっているものは、びくともしなかった。その様子に、浅葱の鼻がつままれる。「うへぇ」という声が潰れた。
「仕方がないのよ。おばぁ様自身でさえ、この最下層には、あまり立ち入らなかったし」
「でも、真赭は許されてたんだよね」
「そう。私は体が弱くて、おばぁ様やおじい様、それに両親のように、外の世界に出て書を探す機会が持てなかったから」
古書店は、家族ぐるみで世界を飛び回り、遺跡や他店から書を探しだす。真赭も、そうなりたいと願っていたし、年齢的にも許される年ではある。けれど、生まれつき体が丈夫でないことから、それは叶っていない。それを気にかけていた祖母は、息子夫婦にさえあまり触らせなかったこの場所を、彼女には自由にさせてくれていた。そう、真赭は言う。
けれど、蒼は少し違った考え方をしている。愛しそうに本の表紙を撫でている真赭。彼女は人一倍、本を大切に思っているし、何より、古書に掛かった鍵を読み解くだけではなく内容自体を深く理解することが出来る。古書を希少価値で見るだけではなく、あくまで『本』として向き合う姿勢を、真赭の祖母も買っていたのではないだろうか。
「話には聞いていたけど、すごい場所だよね。本当はおじいも来る予定だったのに。ごめんね」
「こればっかりはどうしようもないわよ。魔道府に呼ばれたのだもの。後日、ご足労頂けるのだし」
「ありがと。それにしても、広いだけじゃなくって、色んな年代のアゥマが喧嘩することなく、共存してるんだもん。やっぱりこの本棚に特殊な仕掛けがあるのかなぁ」
蒼は立ち上がり、本棚に右の掌を当てる。瞼を閉じて、触れ合っている部分に意識を集中させる。すると、暗闇に浮かび上がってきたのは、様々な光の線。その光彩からもれる粒子が、蒼の身体に吸い込まれてくる。一瞬、焼け付くような痛みを感じる。しかし、それを拒絶せず、全て正面から受け止める。ただ迎えるだけではなく、己の中にあるアゥマを踊らせ、優しくまぜる。
すると、しばらくして、熱が波のようにひいていく。一度、ひんやりとした、滝の近くで感じられるような清涼さが、蒼を包む。そうして、今度は、心地よいあたたかさが、胸を熱くしていった。
(心地良い)
薄く瞳をひらくと、周囲にわずかな風が起きていた。その風の流れに、薄い七色の粒子が踊っている。やがて、その色は黄色よりも薄い黄檗色に落ち着いた。
瞳を完全に開き、棚に添えていた手を、胸の前で握る蒼。良質なアゥマに触れたからか、その表情はうっとりとしていた。お気に入りのお茶を飲んだ時のように。
共鳴の名残か。蒼の動きにあわせて、わずかな粒子が舞った。蒼は大きな声で感動を表したかったが、場所が場所だけに必死で堪える。全身が痺れた。この場に足を踏み入れた時から、高揚感に落ち着きをなくしていたが。今のはとんでもなく、芯が震えた。
なんとか、しゃがみこんで肩をすぼめ、
「くぅー」
と声をあげるだけにとどめた。色を薄くしていっていた粒子が、その声に驚いたかのように、ぱちんと、小さな音をたてて姿を消した。
「蒼のアゥマの使いっぷりは、相変わらず綺麗だなぁ。ボク、見とれちゃったよ」
「本当に。蒼ならこの散らかった本の整理も早く済みそう。共鳴力が飛び抜けているし」
声をかけられて。我に返った蒼は、赤くなっていく頬を抑えた。
優しい表情で本を抱き直した真赭はともかく、あぐらを掻いている足を掴み笑顔を浮かべる浅葱の言葉は、恥ずかしさを誘う。からかいが含まれていない分、余計だ。
「真赭はともかく、浅葱は紺君みたいなこと言わないの!」
蒼は少しばかり距離のある浅葱を指差し、赤い顔で抗議の声をあげた。
空気を割く音が聞こえるのではと思えるほどの、俊敏な動きで。出た声は、思いの外大きく。書庫内に蒼の声がこだました。
「ほうほう。紺兄ですか」
「そうだよ、この間だってさ――」
しかし、当の浅葱は一瞬ほうけたあと、猫のような細い目をつくる。それとあわさっての三日月形になっている口元から、明らかに、意地悪な笑い方だとわかる。
とんでもなく意味深な顔を向けられ、蒼はたじろぐ。「なっなに?」と一歩身をひくと、足元の本に、靴があたってしまう。蒼は、真赭に謝りながら、慌てて、それを拾い上げる。顔をあげると、浅葱が、至極嬉しそうな顔で立ち上がり、上着の埃を叩いているところだった。はたと目が合う。
「そっかそっか。仲直りしたんだねぇ、よかったー。この間店に来てくれたときは、ちょっと上の空っぽかったけど」
と、大きく頷かれてしまった。
確かに、先日店を訪ねた時にわだかまりは解けていたが、紅が一緒であったし、紺樹とのやりとりについて詳しくは話していないはずだ。また、白と紺樹の会話も、引っかかっていたから。
いや。そもそも、多忙にしていた浅葱には、例の出来事も伝えていなかった気がするのだが。蒼は混乱していく頭で、必死に考えた。頭を抱えて目を回している蒼。その様子と、いつの間にか並んで立っている真赭と浅葱が楽しげに見つめてくる。
「――っ!! まっまそほ!」
「私は蒼が抱える問題のひとつが解消されたみたいとしか言ってない」
「蒼も水臭いなぁ。いくらボクが華香札の浄錬時期で篭ってたからって。相談くらいしてくれれば良かったのにさぁ。いつも、真赭ばっかり」
「日頃の行い」
真赭に綺麗に微笑まれた浅葱が、ちぇっと短く舌を打った。頭の後ろに両腕を組んで横を向いてしまった浅葱。軽く、本棚にもたれる。けれど、その拗ねが本気でないということは、雰囲気から伝わってくる。
普段なら微笑ましいと感じられるやりとりだが、その中心が自分だということは、非常に居心地が悪かった。再び、蒼はしゃがみこみ耳を押さえた。茶師としての悩みならともかく。紺樹のことで落ち込んでいたことを蒸し返されると、とても、むず痒くなる。
なんとか話を逸らそうと、蒼の頭は必死で回転を試みる。けれど、羞恥のあまり話題が出てこない。結局、たどり着いたのは、普通の言葉だった。
「もう、私のことはいいからさ。片付けしよう!」
「そうね。二人には折角時間を作ってきてもらったのだし」
「やっとだね。先代が亡くなってから、時間もたってるしねぇ。……まぁ、心の問題としては、まだなんだろうけどさ」
歯に衣着せぬ浅葱だが、こればかりは蒼と真赭を気遣ったのだろう。ふと真剣な顔になった。
蒼の両親と真赭の祖母は、同時期に亡くなった。彼らだけではない。クコ皇国の優秀なアゥマ使いが、少なくない数、命の灯火を消した。詳しいことは知られていないが、溜まりの管理者やアゥマ使いが集まる会合の際に起きた事故のせいらしい。らしい、というのは、その状況の詳細が公にされていないから。家族にさえ、だ。
ただ、どこかの脈の暴走が関係しているのでは、という噂があるのみだ。そう、ぼやかされてしまっては、おおっぴらに調査をすることも出来ない。犯人探しをしているようになってしまう。それに、暗にそれ以上は首を突っ込むなと、国に釘を刺されているようなものだ。
それはともかく。心葉堂もそうであったが、それから、脈の状況を魔道府に調べられたり自分たちでも膨大な本を整理したりと時間がかかってしまったのだ。そうして、今日になってようやく、真赭も立ち入ることが出来たのだ。
「おばぁ様から託された『鍵』をやっと使えたわ。魔道府の人たちにも、この場所は秘密だったみたいだし、動けなかったのもあるから」
「国の役人たちも、この上の階層の書庫までしか気がつかなかったんだろう? 間抜けな話だよねぇ」
わざとらしく竦められた浅葱の肩。身内がいるからといって遠慮しないをしないのが浅葱の良いところだ。
とはいえ、真赭にも言い分はあるだろう。蒼は苦笑を浮かべた。
「仕方ないよ。この階の直前まででも、すごく大規模の書庫だもん。私も昔はおじいと一緒に連れて来てもらった記憶があるけど、まさか、また入れてもらえるなんて思ってなかったし」
「あーそれはボクも。っていうか、ボクは初めてだけど。もしかして、思った以上に散らかっていたから、その肉体労働にもってこいだと思ったとか言わないよねぇ」
「それは想像に任せるわ」
本を口元にあて、怪しく微笑んだ真赭。それに本気で怯えた浅葱は置いておいて。魔道府の人間がこの場所を発見出来なかったことには、首を捻ってしまう。人間よりもアゥマを巧みに扱える一族である長官や、稀少能力でもある魔道書を扱える紺樹までいるのに。それとも、彼らほどの使い手ならば、わざわざ踏み入れなくとも有害ではないと判断出来たのだろうか。
蒼は、ぐるりと周囲を見渡す。広くて天井が高い空間は、ひんやりとした空気が漂っている。それにしても、なぜ、書庫の最下部であり最奥であるこの場所だけ、こんなにも荒れているのだろうか。棚から本がはみ出ているだけにとどまらず、床にあたる部分にも積み重ねられている。棚に収まっている本には、覚書の紙が至るところに挟み込まれてもいる。しかも、この一角だけ、どう見ても鍵も仕掛けもない、ただの普通の本棚だ。どうにも、整然と収納されている他の本や、大仕掛の棚とは違いすぎる。
「ねぇ、真赭。ちょっとした疑問なんだけどさ。この場所だけ、こんなに散らかってるのは、なんでだろう」
「それが、私も不思議。おばぁ様が亡くなる数ヶ月前に来た時は、無造作に床に本が散らばってはいなかったわ」
「泥棒がはいったとかじゃん?」
「それはないよ。こんなに厳重な結界がはられてるんだもん」
もちろん、蒼とて、浅葱が本気でそれを口にしたとは思ってはいない。けれど、改めて自分にそう言い聞かせたくなる程の状況だった。
「雑然と置かれているにしては、凄く濃密なアゥマを用いた術で鍵を付けられているよ?」
蒼は、本を一冊、手に取る。それは、普通に開くことは出来る。けれどと、蒼は開いた本の一項に指を滑らせた。
すると、撫でた文字が光を放ち、その形を変えていった。内容が変わったのだ。だが、注いだアゥマと読み解きが足りないのか。文字が変化したのは一部だけで、ちぐはぐな意味になってしまっている。この読み解きをするのも、古書堂の仕事のひとつなのだ。今回、真赭が白に依頼したかったのは、この手強い本たちの鍵解きだった。
蒼の手元をのぞき込み、浅葱は「へー」と感嘆の声をあげた。そんな彼女を睨んだのは真赭。
「今まで何度話したかしら? 古書の能力を」
「えーと、すみません。今、人生で一番古書について知りたいと思ってるボクに、優しくわかりやすく説明して貰えますか?」
幼い頃から語り尽くしてきた筈のことを全く理解していなかった幼馴染に、真赭は盛大な溜息をついた。だだっ広い古書に響きわたるため息。今度は、浅葱が耳を塞いだ。