幕間 テオドールの日常〜護衛の休日
「明日は休みか……。テオって休みの日は何してるの?」
ある平日のことだった。
学校帰りのレイラ様が書き物机で宿題をしている時、お茶を出した俺を見てそう言った。
「休日……」
そう思い悩む俺にレイラ様は慌てて言った。
「ちょっと待って、テオ。あなた休みの日ある?」
「依頼がない日は休んでますので」
「休んでるって、この部屋で待機してるよね?休日じゃないじゃない」
そう言われても、休日というのがよくわからない。
曖昧に笑う俺を見たレイラ様は少し呆れた顔をしていた。
「明日は占いの方に行くから、テオは休みを取っていいわよ」
「いえ、別に休みなど……」
「たまには休みなさい。ちゃんと休むのよ!何してたか聞くからね!」
そう言われて、少し戸惑った。休みを取れと言われても、何をしていいのかわからない。
◆
薄暗いうちに、目が覚めた。
体に染み付いた習慣というのは、そう簡単には抜けないものらしい。影としての生活を送っていた頃、朝は誰よりも早く起き、体を仕上げておくのが当たり前だった。
今日は休みだと頭ではわかっていても、体は勝手に布団を撥ね除け、着替えを始めている。
「……今日は、休みだったな」
誰もいない部屋で、そう呟いた。呟いてから、少し可笑しくなる。何をしていいのかわからない自分に、苦笑いが漏れた。
結局、体を動かさずにはいられず、外に出る。
影だった頃は公爵家の敷地内に使用人の住居があり、そこに住んでいたがレイラ様の護衛に配置転換された後、実家に戻って暮らしている。
実家の周囲を走り、庭で軽く型稽古をこなす。休んでいるはずなのに、体が"休む"ということを知らない。そのことに気づいて、また苦笑いが漏れた。
型を終えた後、しばらく塀の外を眺めた。朝日が昇り始め、通りに人影が増えていく。誰もが自分の予定を持って歩いている中、自分だけが何をすればいいのかわからず立ち尽くしている。それが、少し滑稽に思えた。
これまで、命令や任務のない時間というものを、まともに過ごしたことがなかったのだと、改めて気づかされる。護衛としての仕事も、ある意味では任務の延長のようなものだ。完全に何も予定のない一日というのは、思えば人生で初めてかもしれない。
「……とりあえず、街に出るか」
誰に言うでもなく呟き、家に入る。
◆
朝食を済ませ、なんとなく街に出た。
目的地は特に決めていない。ただ歩く、というだけの行為が、こんなにも落ち着かないものだとは知らなかった。
しばらく歩いていると、甘い匂いが漂ってくる屋台が目に入った。焼き菓子を売っているらしい。特に食べたいと思っていたわけではないのに、気づけば足が止まっていた。
「一つ、もらえるか」
店主から受け取った焼き菓子を、道端でひと口かじる。
甘い。
思っていたよりもずっと、口の中に広がる甘さが心地よかった。
思えば、影としての生活の中で、甘いものをゆっくり味わうような時間はなかった。任務の合間に糖分を補給することはあっても、それは味わうというより、体を動かすための燃料でしかなかった。
自分がこんなに、甘いものを食べて心が動くとは知らなかった。
すぐに食べ終え、迷って、結局二つ目も買ってしまう。
◆
古書店の前を通りかかった時も、同じように足が止まった。
興味を引かれる背表紙があったわけではない。ただ、店先に積まれた本の匂いが、なんとなく懐かしく感じられた。
中に入り、店主に断って棚を眺める。植物図鑑、古い地図、詩集。どれも仕事には全く関係のない本だ。関係のないものをただ眺めるという時間は、今までなかったように思う。
影としての教育では、諸国の言語や一般教養も叩き込まれた。だがそれは、任務のための知識であって、興味の赴くままに何かを学ぶという経験ではなかった。
目の前に並ぶ本を、ただ「面白そうだから」という理由だけで手に取っていいのだと気づくのに、少し時間がかかった。
試しに一冊、詩集を手に取ってみる。パラパラとめくってみたが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。それでも、意味もなく本を眺めているというこの時間自体が、悪くないと思えた。
結局、何も買わずに店を出た。それでも、しばらく本の匂いの余韻が鼻に残っていた。
◆
通りを歩いていると、リボン専門の小さな店が目についた。
覗いてみると、色とりどりのリボンが並んでいる。降霊術の仕事場で、レイラ様がよく使っている黒いベールを思い出した。
ふと、これに似た色合いのレースのリボンが目に留まる。
「これを一つ」
気づけば、そう口にしていた。
店員が「贈り物ですか?」と尋ねてくる。とっさに答えに詰まった。
「……いえ、その」
「よろしければ、包装いたしましょうか」
結局、頷いてしまう。誰への贈り物とも言えないまま、包装だけは丁寧にしてもらった。
包んでもらいながら、我に返る。何のために買ったのか、自分でもよくわからない。休みの日に、仕事関係のことを考えているなんて、休みになっていない。
そう思いながらも、リボンの包みをそっと懐にしまう手つきは、存外に慎重だった。
◆
気づけば、日はすっかり傾いていた。
どこか別の場所に行こうか、まだ迷っていたはずなのに、足は自然と、ホテルの方角へと向いていた。
誰に指示されたわけでもない。休みなのだから、どこへ行っても構わないはずだ。それなのに、結局、いつもの場所に戻ってきてしまう。
「……休日なのに、な」
ホテルの明かりを遠くに見ながら、思わず笑ってしまった。
影としての生活では、任務のない時間そのものが存在しなかった。だからだろうか。何もない自由な時間を持て余した結果、結局は自分の"定位置"に戻ってきてしまう。
中に入るつもりはなかった。ただ、その灯りが見える場所まで来ると、なぜか安心してしまう自分がいる。誰かに命じられたわけでもないのに、自然とここに足が向く。それは、これまでの人生になかった感覚だった。
それが、少しだけ可笑しくて、同時に、悪くない気もした。
◆
翌日。
「休みの日は何をしていたの?」
俺が淹れた紅茶を飲みながら、レイラ様がそう聞いてきた。
「特に何も。街をぶらついていました」
「へえ、楽しかった?」
そう言われて、懐からリボンの包みを取り出す。
「これを」
「何これ?」
「その、ベールの色に合いそうだったので」
レイラ様は少し驚いた顔をして、それから包みを開け、リボンをためつすがめつ眺めた。
「へぇ……綺麗なリボンね」
そう言って、レイラ様は小さく笑った。
「休みの日まで、仕事のことを考えてたわけ?」
「たまたま、目についただけです」
「ふうん」
からかうような視線を向けられ、少しだけ居心地が悪くなる。誤魔化すように視線を逸らすと、レイラ様は満足そうにリボンを髪に当ててみせた。
「今度から、こういうのも自分で選んでみようかしら」
「……そうですね」
休み方は、まだよくわからない。それでも、こういう休日も、悪くないのかもしれないと、そう思った。




