第1話 目覚め
『第一話 目覚め』
その夜、深海の底を揺るがす震動が走った。
駿河湾の深層で積み重なっていた静けさが、一気に崩れる。
スマホのアラートがけたたましく鳴り響き、海洋学部2年生──山崎は布団の中で身を起こした。
画面に表示された「緊急地震速報」の文字を視界が捉えるより早く、縦揺れがアパートを突き上げた。
山崎は反射的にベッドの下へ滑り込んだ。
軋む天井を見つめる数十秒が、ひどく長く感じられた。
揺れが収まった後も、山崎は暗闇の中で動けなかった。
高台の方角を見据え、何度もスニーカーに手を伸ばしかけては、その都度、余震の地鳴りに体がすくむ。
結局、外へ踏み出す一歩は出なかった。
そのまま朝まで、彼は狭いベッドの下で、点滅するスマホの画面だけを凝視して過ごした。
夜通しSNSのタイムラインを更新しながら、山崎は何度もAIアプリを立ち上げた。
しかし、質問を打ち込んでも「通信エラー」の文字が返ってくるだけだった。
いつもなら即座に言葉を返す画面が沈黙している。液晶の光が、ひび割れた部屋の床を白く照らしていた。
SNSは夜明け前の被災状況を断片的に伝え続けていた。
津波アラートの赤い帯が画面上部で明滅していたが、幸いにも防波堤を越える波は観測されていない。
遠方の両親から届いた着信履歴をタップする。状況を伝えるとスピーカーの向こうから怒声が響いた。
海の近くに住みながら、津波アラート後にも避難しなかったことを叱責する声。
だが、通話中にテレビが報じた「避難勧告でパニックになった群衆が転倒し、怪我人が出た」というニュース速報を伝えると、受話器の向こうは静かになった。
外が明るくなる頃、テレビの画面はヘリコプターからの空撮映像に切り替わっていた。
近くの登呂遺跡では地層が隆起し、茶色い断層が牙のように露出している。
キャスターが、駿河湾を通る海底ケーブルの断線と、それに伴う大規模な通信障害を報じた。山崎の手元で、SNSのタイムラインが再びフリーズする。
被災状況を淡々と伝え続けるナレーションを背景に、山崎はスクロールしていた指を止めた。
清水の浜辺に、巨大な影が横たわっている写真。
撮影者から距離があるため遠景だが、それは紛れもなく、座礁したクジラだった。
すでに海上保安庁の黄色い規制線が張られている。その巨体の、ちょうど腹部。
そこに、目を疑うような大穴が空いていた。
円形に近い形にくり抜かれた穴。まるで、肉塊ごと何かに“抉り取られた”ような損壊だった。
画像を最大まで拡大すると、白衣を着た長髪の人物が、その大穴の縁にしゃがみ込んでいる姿が不鮮明に映し出された。
『シャチの仕業だろう』というリポストが、またたく間に拡散されていく。
シャチがホホジロザメを襲い、栄養価の高い肝臓だけを捕食して去る事例──大学の講義で習った知識が頭をよぎる。
再度クジラの画像に戻った時、山崎は眉間にシワを寄せる。
山崎は素早い手つきでクジラの腹部をピンチアウトし、歪な大穴をスクリーンショットに収めた。
そのままAIアプリを立ち上げ、解析フォームにその画像を貼り付ける。
「この噛み跡の主は──」
問いを打ち込み、送信アイコンをタップした。
しかし、画面中央でローディングの円が虚しく回り出す。
やがてアプリの画面全体が白くフリーズし、「応答していません」の文字が無機質に浮かび上がった。
山崎は何度も更新をタップするが、AIが山崎の問に答える事は無かった。
視線をテレビへ移し、チャンネルを切り替えても、ニュースは余震の回数とライフラインの復旧情報しか流さない。
沈黙した部屋に、突然、電子音が鳴り響いた。
着信画面に表示された名前は、親のものではなかった。
『鳥井教授』
山崎は小さく息を呑み、通話ボタンを押した。
「……こんな時にどうしたんですか、教授」




