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渡時過行  作者: いせゆも


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二千四年九月十五日・2

「なんなの? 話って」

 気になった私はまだ濡れている髪をドライヤーで乾かすことすら億劫で、代わりにタオルで入念にポンポンと軽く叩くように拭きながら、父と対面になるように椅子へ座った。

「今日まですっかり忘れていた。これのことを」

 テーブルの上に置かれているジュラルミンケース。銀色のメタリックは、実にそれ自身の頑丈さをアピールする。父も出張の時はこういったトランクを愛用するが、それとはまた別の物のようだった。

「…………?」

 引っ越しをした頃や、家の大掃除をする時によく見かけたような。「何これ?」と問うと父は決まって『防災グッズが入っている』と返したものだ。

「多喜良の遺言書通り、父さんは、二〇〇四年九月十五日に、これを行喜名に渡す」

 ……兄の、遺言。

「そんな。遺言書なんて、あったの?」

 私はそんなものを見たことはない。この世に兄が存在していたことを示すものを残さぬまま、兄はあっさりと死んでしまった。そう思っていた。

「ああ。今までずっと黙っていたし、多喜良が死んだ頃の行喜名は塞ぎこんでたから、知らなくても無理はない。あいつの死後に部屋を整理していたら、机の中の分かりやすい位置に『俺が死んだ時、まずは親父が目を通してくれ。親父以外の人間には、絶対に見せないでくれ。内容も出来る限り話さないでほしい』と表に書かれた封筒があってな。その中に、自分が死んだ際のことを逐一細かく書いてあった」

 これがその遺言状だ、と父は私に、一枚の封筒を見せた。

「行喜名にだって、この内容を見せるわけにはいかない。それが多喜良の遺言だからな」

「うん。それがお兄ちゃんの意思なら」

「……懐かしいな。行喜名の口から、お兄ちゃんなんて言葉が出るなんて」

「そうだっけ?」

「ああ。いつの頃からか、兄としか呼んでなかったじゃないか。現に、さっきも」

 おそらく私は、兄が死んだことが受け入れられなかったのだろう。お兄ちゃんと言うのではなく、兄と表現することで、あまり見知らぬ知人が死んだだけ、と無理やり解釈したに違いない。尤も、これが本当だとしても虚構だとしても、どうでもいいことだけど。

「で、遺言の中にな、クローゼットの奥にあるジェラルミンケースがあるから、二〇〇〇年九月十九日の行喜名に渡してほしい、それまでは中を見ないでほしいとあった。父さんもそれを多喜良の気持ちを曲げてまで中が知りたいわけじゃなかったから、これまで保存してきたわけだ」

 父は私にスーツケース型のジュラルミンケースを手渡した。金属の艶具合は至って良好。かなり良い保存状態だ。手に持ってみると、ずっしりとした手ごたえ。中身が重いのか、これ自体が重いのか。これだけだと判断するのは難しい。

「なんでこんなごっついの」

 生前、まだ学生だった人間の持ち物ではないだろうこんなもの。

「さあな。ただまあ、多喜良はこういうスパイとか大人の持ち物に憧れてたから、バイトをして金が手に入ったから買ってたとしても、別段不思議ではないな。この大きさだと三万ぐらいでお釣りがくるだろうし、一か月もバイトをすれば高校生でも十分買える」

「男の浪漫に大切なお金を使っちゃうから貧乏なデートをするしかなかったんだよ」

 だから公園とかやけに詳しかったのか。なるべく金額は控え目に抑えることができて、なお且つ女の子といい雰囲気を保てる場所を。

「そう言ってやるな。父さんだって、若い頃ならこういうの欲しかったからな。スパイとかに憧れてさ。隠し銃みたいな」

「ていうか、実体験に基づいて想像したでしょお兄ちゃんの心理を」

「ばれちゃったか」

「可愛く言っても駄目」

 まあおそらく、父の推理は間違ってないのだろうけど。買ったきっかけ自体は、多分欲しかったからなのだと思う。

 さて、生前兄は、何をこの私に渡そうとするのだろうか。開けると、そこには……

 私の、つい最近まで着ていた服が入っていた。多少の経年劣化はしているとはいえ、間違いなく、兄が可愛いと言ってくれた、兄が恰好いいと言ってくれた、あの二着。

「懐かしいなこれ。そう言えば、ちょうど今ぐらいの行喜名がやってきたことがあったっけ。そういえばあの行喜名って、どの時代からタイムスリップしてきたんだっけか?」

「たった今してきたところ」

「……そうか。そういうことか」

 父は目を瞑って、静かに息を吐いた。

「多喜良はこの服を着たことがある行喜名に渡したかったんだな。時代を超えた宅配便だ」

 兄が死んだ直後から、昨日までの私がこれを遺品として受け取ったところで、この服にはなんの価値もない。なにせ、チビ私は一回も袖を通していないのだから、全く接点がないのに私の物になってしまう。その矛盾を避けるためには、あの一週間を経験した私、つまり、二〇〇〇年九月十一日、タイムスリップを経験した私でなければ意味がないのだ。

「どうだったか? 我が『川西家』は」

 妙に清々しいような顔をする父。私も釣られて、少しだけ笑う余裕が出た。

「幸せそうな、凄く幸せそうな、ごく普通の家族だった」

 まだ私は母を許してはいない。そうだとしても、やはり私たちは、四人揃ってこその川西家だった。そこには、いらない人間なんていない。一人として、欠けては駄目なのだ。

「そうだな。あの頃は本当に幸せだった。薫はいい妻で、多喜良は頭が良くって模範的な優等生で、行喜名は活発で全然女の子らしくない女の子で」

「もう。今となっては気にしてるんだから」

「ははは、悪い悪い。――けど、それも今や、幻想だと知ってしまったからな、父さんは」

 まだケースの中を探してみる。すると、『ユキへ』と私宛の手紙が入っていた。私への手紙。兄は一体、何を私に伝えたいのだろう。そうドキドキしながら読むと……、

『俺の遺書を読みたいならこの箱の鍵を見つけてこい。

 ヒント:俺が、今これを読んでいるユキを安心して託せる人物』

 ごくあっさりと、それだけが書かれていた。

「…………」

 隅にあった、両方の手のひらを全開にしないと乗っけることができないぐらいの大きさの鍵付き箱を手に取る。ケースをひっくり返しても、鍵らしきものはでてこない。鍵というものは、鍵穴とセットにしないと意味をなさないというのに。

 意地悪多喜良。私は兄の手紙を全力で投げた。紙だからそんなに飛ばないけれど、ひらひらと舞うことで、いつまでも滞空した。

「ん、なんだ? どう書いてあったんだ」

「読んでみて」

 父は私が投げた手紙を拾って読む。

「……なるほど。多喜良らしい」

「落ち着いてる今だから怒って終わりだけど――って言い方も変だけど――もしお父さんが約束を守んなくて、勝手にケースを開けちゃったらどうするつもりだったんだろう……」

「その時はその時だったんだろうな、多喜良のことだから」

 さすがは父。至極冷静に、兄という人物を分析できる。

「さて、謎かけをするくらいなら、当然解けるようにはできてるんだろうな。父さんにはさっぱり、なんのことなのか分からないが」

「私には分かるけど。分かっちゃうけど」

 兄が私を託せる人物。兄からしてみれば私と一緒に居る時は一回しか会っていないはずだけれど、その一回もあれば、私とあの人の関係を推して図るには十分すぎる。

「ねえお父さん。ちょっとだけ、悪い娘になっていい?」

「それが行喜名にためになることなら、父さん悲しいけど、認めないわけにはいかないな」

 父はパソコンの電源を落として、「父さんはもう寝るから、寝てる間に行喜名がどんなことをしても、分からないからな」と言い、自分の部屋へ戻った。

「有難う、お父さん」

 虚空へ向かって、私は呟いた。

 酷くもどかしい。時間が少しでも勿体ない。私は急いで自室に入り、携帯電話を取って、電話帳に登録してある番号を呼び出した。五回のコールの後、がちゃりという音。

『もしもしぃ。水城だけど』

 聞くからにやんちゃそうなこの声は、水城先輩の弟、亮二君。

「あ、亮二君? 私、川西だけど、水城先輩いるかな?」

『ああ、ゆきねえちゃんか。兄貴なら今、風呂入ってんぜ、代わろうか?』

「うん。そうしてくれる?」

『いいぜ。ゆきねえちゃんの頼みだからな』

 年の割にはおませなことを言う。兄弟だというのに、水城先輩とはちっとも似ていない。そんなものなのだろうか。私と兄は、一部が似通っていて、他の大部分が違ったけれど。

『兄貴! ゆきねえちゃんから電話だぜ!』

 受話器から遠いとはいえ、亮二君が水城先輩を呼ぶ声がする。水城家に、保留音を鳴らすなんて機能がついている電話はない。なんと原始的な。

『もしもし』

 すぐにドタバタという足音の後、水城先輩の声が、受話器越しに私の耳へ飛び込んだ。

 ああ、やはり、水城先輩はこの声でなくては。少年のようなあの声変わり前のもよかったけれど、私にとって、水城先輩は私の年上。私を守ってくれる人。低いバスで、私を覆い尽くす。

「大きな水城先輩。お久しぶりです」

『…………? 今日……その……デート、したばかりだろ?』

「いえ、なんでもないです。それよりも、少し聞きたいことがあるんですけれど、ちょっといいですか? 湯冷めとかしません?」

『だ、大丈夫。どうせもう、出るところだったし』

「……一度通話を切りますから、服を着てから掛け直してください」

 嘘ばっかり。私は一方的に電話を切った。普通に入浴していた途中だったのだろう。この受話器の向こうにいる水城先輩が、タオル一枚の姿でいることは想像に難くなかった。風邪なんかでも引かれたら、こちらが罪悪感で押しつぶされてしまう。誤魔化しが下手なのに、どうして私の気を伺おうとするのか。こちらの勝手なのだから、正直に言っても誰も怒りはしないのに。

『もしもし、お待たせ』

 しばらく待つと、ベルが鳴った。出ると、少し息の切れている水城先輩。仕切り直し。

「もしもし。突然ですけれど水城先輩、鍵を持っていませんか?」

『鍵?』

「形は分かりませんが、小さな箱を開ける程度の鍵ですから、当然小さいものだと思います。数年前にある男の人が、水城先輩に渡したって聞いたもので」

『……もしかしたら、これのことかな。多分、これのことだと思う』

 ちゃりんという金属音。おそらくは、水城先輩が愛用している、ネックレスの先に鍵がついているもの。……そういうことか。兄の奴め。いつから仕込んだ。

「その鍵が欲しいんです」

『この鍵を、欲しいのか?』

「必要なんです。今すぐ取りに行きたいぐらいなんですけれど、いいですか?」

 そう。今ではなければならない。この胸の熱さを忘れないうちにしなければ。兄の体温を覚えているうちにしなければ。

『…………』

「水城先輩? その、迷惑ですか?」

『迷惑ではないけど……なんで知ってんの、鍵のことって、思って』

 その疑問はもっともだ。鍵を知っているのはおそらく、水城先輩と、今はもうこの世に存在しない、兄だけなのだから。

「それですか。話すと長くなるし、到底信じられる話ではないので、あまり言いたくないんですけど、それでも水城先輩が知りたいのなら――」

『あ、いい。別に。そこまでして、知りたいわけでも、ないから』

「恩に着ます」

 意味のないことだけれど、受話器越しにお辞儀をした。気持ちの問題。私が訳ありそうに言う時は、本当に深い事情がある時だけだ。水城先輩はそれを分かっている。女としては底の浅い私である。

『構わない。それと……もしよければ、俺の方からそっちに、行くけど。女を夜に、出歩かせられないし』

「え、悪いですよそんなの。私の我儘なんですし。水城先輩である必要はありますけれど、水城先輩が必要なわけではないんです、これ」

 失礼は承知しているが本当のことだ。嫌な女になっているのは自覚している。

『でも、行喜名を――』

 それでも水城先輩は、頑なに私を外出させようとしない。女が夜に出歩くのは危険でやってはいけないことだと思っている。確かにそれは事実だけれど、一刻一秒が勿体ない今の私には、酷くもどかしく感じた。

「ではこうしましょう。水城先輩は鍵を持って、化舌駅のロータリーで待ち合わせということで」

 化舌駅は、私の家と水城先輩の家の中間地点にある。ただ会いに行くだけなら、ちょうどいい場所だ。

『――納得できないけど、分かった』

 むしろ納得できないのはこちらだというのに。私の我儘を全力で叶えようとする水城先輩を止めるための折半案を出さないといけないだなんて。私は携帯の電源ボタンを押して通話を切る。最低限の荷物と財布、鍵付き箱を鞄の中に仕舞って肩に掛けて、部屋を出た。

「お父さん! ちょっと出かけてくるね!」

 返事を待たず、私は夜の街へと飛び出す。

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