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渡時過行  作者: いせゆも
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二千四年九月十五日・1

 ふっ。風が私の額を撫でる。

 腕枕から顔を上げる。意識ははっきりとしている。

「…………」

 目を瞑る。深呼吸。一回、二回、三回、四回……、

 背後にある、余裕を持てるようにと五分は進めている壁掛け時計を見る。全くゆとりももたず、焦ることもせず、石部金吉、常に同じペースでコッチコッチと秒針を弾く音が、静かな私の部屋、やけに壮大に響く。お仕事御苦労と、雇い主である私は彼の働きぶりを確かめるべく、短針と長針のコンビネーションを確認をする。その二つは、八時五分の時を示していた。

 液体が額を伝う。拭ってみると、それは明らかに汗であった。暑い。部屋に熱気が籠っている。窓を開けて、新鮮な風を室内に送り込む。すると、私の中で燻っていた気持ちが、少しずつ冷やされてきた。私は自分の身体を見下げる。着ている服はタイムスリップする前と同じ、水城先輩とのデートのために選んだ服。まさか身体まで向こうの世界へ飛んだ訳でもあるまい。精神だけ向こうに行った後で肉体を構築とか、せいぜいそんなところか。

 机に寂しげに放置されていた携帯電話。こうやって一介の高校生女子が携帯を持てるような時代。たった数年前からしても、それは遠い未来の話であった。なのに、私は確かに携帯を保持している。特に何か目的があるわけでもなく、手慰みにそれを弄る。

 ふと思いついて時報に掛ける。一、一、七。発信ボタン。

『午後、八時、丁度をお知らせします』

 ピ・ピ・ピ・ポーン……。

 なんとなく、兄と私の別れを告げることを連想させる、物悲しい音が私の部屋にこだまする。私はいつまでもそれを聴いていた。

 帰ってきた。帰ってこれた。感想は、それだけだった。夢を見ているのと、なんら変わらなかった。ただ夢と違うのは、未だこの手には兄の残した体温が、確かに残っているということ。

 コンコン。私が正気を取り戻したのは、扉がノックした音が、自然に耳に入ったからだ。この時間、いや、この家にいる人間で、私の部屋をノックできる人間は一人しかいない。

「風呂、空いたぞ」

 ああ、父が入浴している最中に、私はタイムスリップしたんだっけ。感覚的には数時間前に入ったばかりなのだけれど、髪を触ってみると、少しだけ脂っぽい。現実には、二千四年九月十九日の朝、シャワーを軽く浴びたのが最後だ。

「分かった」

 私はまだぼおっとした頭を少しだけ動かしながら、洗面用具を用意する。Tシャツにホットパンツ。今年の秋はまだ暖かいから、こんなラフな恰好でも平気。箪笥の中は当然のことながら、私の服でいっぱいだった。兄が見たら色々な意味で卒倒しそうな派手目な服まで。私も、気が付いたら女になっていたものだ。

 お風呂に入ろうとリビングを横切る。椅子に座ってパソコンをいじりながらバラエティー番組を見ている父は、まだ髪が濡れている。私の記憶通りの父。猫背。やや白髪が多い。肌艶も悪い。しかしそんなことがどうでもよくなるぐらい、随分と草臥れている。家族の大黒柱として頑張っている、ついさっきまでの父とはまるで違う。若いと思っていたけれど、こうして見ると、随分と普通の中年男性だ。けれどこの父こそ、本当の意味での私の父だ。最後に残った、私の唯一の家族。

「ねえお父さん。お父さんって、お兄ちゃんのことを育てたことを後悔してる?」

「なんだ突然?」

 タイピングしている手を止め、父は私の目を見た。

「ちょっとそういう内容の小説を読んで、考えさせられて。で、どうなの?」

「難しい質問だなそれは。そうだなあ。……後悔は、してない」

「へえ? あの人と、あの人の息子なのに」

 私は主語とする名前を一切省いて言った。いくら向こうの世界で少しは区切りがついたと言っても、一昔前の青春ものの漫画であちがちな、男と男が殴り合いの喧嘩をした翌日、道端で会ってもいつもと変わらず笑いあう……というわけにもいかない。私の中でこのことの整理が付くのは、あと何年、何十年もかかるだろう。

「それは……まあ、ショックではあったが、でも父さんは、血の繋がってない息子を育てた過去を疎ましく思ったことはない。よくできた子供だったしな」

 その言葉には嘘偽りはないだろう。もしあったとしたら、こんなにリラックスしながら語れるものか。よかった。父は兄のことを、憎んでいなかった。

『本能。ドミノって、最初の一つを倒しちゃうと、全部パタパターって倒れていくだろ?それと同じ。カッコウの雛がピーピー鳴きながら口を開けられちゃうと、どうしようとも育てちゃうんだって。それが、動物としての本能』

 ふと、兄の説明が蘇る。モズは本能という呪いが、自分の子供《モズの雛》でない他人の子供《カッコウの雛》を育てさせる。この本能さえなければ、モズはカッコウの子供を育てる義務なんてなくなる。それどころか、大事な我が子を殺しさえしたのだから、殺してやることもできるし、そんなことをしなくても、育児放棄すれば勝手にカッコウの雛は死んでくれる。

「もし、お父さんが兄の生きているうちに実の息子じゃないって分かったら……育てることを、止めてたの?」

 私の問いに父は、「当然だろう。俺の大事な息子なんだからな」と、当然の如く答えた。

 ――父は、理性を持った人間として、一人の『子供』を愛した。

 血は繋がっていなかろうがなんだろうが、それは……実の親子と呼べるのではないのだろうか。世界でただ一本でしかない繋がりなのではないか。

「あ。……行喜名。今日は二〇〇四年の、九月十五日だったよな?」

「そうだけど」

 父はびくっと大きく震えた。カレンダーを驚きながら見ている

「そうか。なら、風呂から出たら、少し話がある」

「……?」

 妙に含みのある言い方をする。なんなら今話せばいいのにと思ったけれど、私の考えが分かっているかのようにまたパソコンに集中して、『今忙しいから話しかけるな』というオーラを出していた。テレビを点けっぱなしなのに、そんなオーラが意味あるものか。けれど父には父の考えがあるのだろうし、私は特別言及することもなく、脱衣所に入った。


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