九月二十日(金)・3
「疲れた?」
「うん……」
少年がへとへとになるまで、私は私の持てる技を伝授した。今はまだ危うい状況だが、練習に練習を重ねれば、数年後には必ずできるようになっていることを私は知っている。この少年のまめさは私がよく知っている。そして、弱点は一つだけ抱える。そうしないと、少年が好きになる女の子が、少年にサッカーで勝てなくなってしまうから。
少年の家まで歩いて五分ほど。その気になればすぐに帰れる。だから私は、少年とちょっとした雑談を、先日と同様にベンチに座りながらすることにした。前回と同様、私はドクターペッパーを買って。少年にはアンバサを与えた。未来の世界の、私の彼氏である水城先輩が好きなんだよね、アンバサ。少年はドクターペッパーだけならまだしも、アンバサまで飲んだことがないと言うからちょうどいい。……もしかして、あの人がアンバサを好きなのって、これが理由なのかも。
「……ねえ少年。君って、好きな女の子って、いる?」
まさか師匠が女性だったなんて。てっきり男性なのかと思っていた。あれだけ熱心だったのだから、下手をすると、初恋の女性がその師匠さんだっていう可能性も、無きにしも非ず……。
「……え?」
この暗い夜道に、新たな太陽が産まれてしまった。
嗚呼、初心だなあ。私の微妙な不安など全て吹き飛んだ上で微笑ましくなってしまうあたり、少年を弄ぶ大人のお姉さんな気持ちがよく分かってしまう。そりゃこんな可愛いらしいものを見せられては、翻弄したくもなる。
考えてみれば、少年と雑談をするのは初めてか。最初に出会った時から、私と少年は、サッカーの技に関する話しかしていない。
「い、ない、って、そん、なの」
「ほほう? その様子だと、気になる子とかいるな~?」
「いな、いん、だ、って……」
本当に苦しそうに言う少年に、私は胸を打たれるほど可哀そうになってしまった。この話題はよしてあげよう。せめてもの情けだ。
「でも少年は、大きくなったら恰好良くなるよ。私が保証する。だから、私ぐらいの年になったら恋人ができそうだね」
できそうだねもなにも、それは事実となるのだが、まあ言い切っても変なのでやめておく。私は未来人なのであって、予知能力者ではない。……あ、よく考えると、ナチュラルに褒め言葉が出てる。未来の世界にいる恋人には直接言えないのに、直接は関係のない少年には言えるのか。つくづく、私は私の基準が分からない。
「師匠は、彼氏とか、いるの?」
「んー、彼氏かあ」
私は、未来の世界にいる、私の彼氏を頭に思い浮かべる。……その時に。どうしてか私の脳裏には、兄の笑顔が通り過ぎた。
「いるよ。君みたいに恰好いい人が、ね」
気づいては駄目。私が『好き』なのは、水城先輩だけなのだから。
「……師匠って、何歳なの?」
これまた意外な質問が飛んできた。
「君は、私ことは何歳ぐらいに見えてる?」
「……高校生ぐらい?」
おお上出来。私を高校生に見てくれるとは。……ただ単純に、感覚が分かってないだけのような気もするけれど。少年の年頃だと、一歳年上がとても大きいし。
「私って大人に見える?」
私がそう言うと、「何言ってんの? 当たり前じゃん」とでも言いたげな少年の瞳。
「大人かあ……。あと数年もしたら、私も立派な大人の仲間入りなんだけれど……」
だというのに、私はいつまで経っても母に振り回されている。こんな調子では、本当に大人になれるのか。果てしないほど、疑問が残る。
「少年は人生の悩みとかってある?」
「……ない、けど」
「そうか。うん、悩みのない人生、送ってるもんね」
いや、なにもこの少年や私の彼氏を侮辱していうわけではなくて、どちらかというと羨ましいとか、そういった感情。
「私は悩みまくり。今も、どうしようかずっと悩んでる」
「……俺でよければ、相談に、乗ってあげる」
「お、そういう言葉、どこで覚えたのかな? 一丁前に大人ぶって」
子供は、大人が思っている以上に大人、か。
「じゃあ折角だし乗ってもらおうかな」
私がいたって真面目な顔をすると、それが伝染したのか少年も神妙な顔つきになる。
「私ね、もうすぐ、君にサッカーを教えることができなくなるんだ」
「……え?」
「私のお母さんはね、浮気をしたの。浮気って分かるかな、お父さん以外の男の人のことを好きになっちゃったってことなんだけれど。だから、もうお父さんはお母さんのことを好きでもなんでもなくなっちゃったの。だから離婚しちゃった。で、私はお父さんに付いていくから。もうあまり、この街には居られないの」
明日にはもういなくなってしまう……と言ってもいいだろうが、今はこのぐらいの、曖昧な言い方で留めておくことにした。
「君ってさ、弟いる?」
知っているけれど、一応疑問形にしておく。
「うん」
「もし弟が困ってたら。君は助けてあげる?」
「……うん。助ける」
返事まで微妙な間。ああ、なんというか、典型的な男の兄弟って感じだったっけ水城兄弟。今は八年前だから、確か弟君は……四歳。生意気盛りといったところだろうか。そりゃ、素直に肯定することもできまい。私の手前、嘘も方便。
「私にもね、お兄ちゃんがいたの。もう、何年も前に死んじゃったけどね。死って、不思議なんだよね。この世界から一人だけ人間がいなくなるってだけなのに、場合によっては全く関係ない他人の人生まで変化させちゃうんだから」
「…………」
身内が死んだりしたことがなければ、この年齢じゃ分からないものか。少年は何も言わないでいる。
「お兄ちゃんが生きていれば、私はもっとサッカーを好きで居続けたのに。お兄ちゃんのせいで私は一時期、サッカーが嫌いだったの」
「……俺みたいに?」
「それとはちょっと違うかな。君は活躍できないから嫌いになりかけたんでしょ? 私はそれとは違う。好きだったのに、その気持ちは心の奥深くに押さえつけたの。……まあ、とある人のおかげで、私はまた好きになれたんだけれどね」
まるで水城先輩を全肯定するかのような表現をしてしまった私は、つい照れてしまう。
「…………」
少年は何やら、まじまじと私の顔を凝視した。
「何?」
「あ、いや、なんでも……」
そんなはずはないだろうが、私は深く追求しないでおいた。