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渡時過行  作者: いせゆも
31/48

九月十九日(木)・3

『栗林さん』の先導により、私たちは道を行く。三年の教室は三階にあるらしいのだけれど、今は一階にいる。二階に上がって、また一階に戻ってからまた二階へ……。人目の付かない場所を選択して移動していくなら、このルートが一番らしい。

「どこの家庭科室も、どうして独特な匂いがするんだろう」

「あ、行喜名さんもそう思う? 部屋の匂いって、中にいる人間とか壁紙の匂いが混ざってできるらしいけど、なんの匂いが混ざれば家庭科室の匂いになるんだろうね」

 道草の極みだ。道中、このメンバーの中では誰も全く関係ないはずの、家庭科室に侵入してみたり。

 私は普通の口調に戻すようにした。皆も同様である。道中、教師とすれ違うことが多々あった。悪事というのはこそこそするからばれるのであって、堂々としていれば逆に疑われないもの。この数時間だけ乗り切ればいいのだから、隠れることなく廊下の真ん中を通ってきた。とは言え、敬語で話す同学年というのも違和感を抱かれても困るから、もしものことを考え、あくまでも「私はあまり見かけない生徒なんですよ」と言い張れるようにと、フランクな言葉遣いにするようにした次第。

「あれじゃないか、多分、洗剤で洗った食器が発してるんだと思う」

「なーんか調理実習の時、家庭科室の食器使うと食欲なくなるんだよなあ。なんだろあれ」

 兄と菅家君のコンビが、私たちの間に入り込んできた。

「…………」

「…………」

 私たちは無言。何も言わない。

「いい加減許して下さい!」

「もう刃向ったりしませんから!」

 私と栗林さんは、もう十分ほど兄と菅家君を無視し続けていたので、もうなにか吹っ切れたのか、謝ってきた。

「まあもういいよね。結構楽しんだっていうか」

「うん。菅家に、もう刃向わせないって約束もできたことだし」

 私たちは、手を合わせて喜びあった。それはもう、仲のいい友達のように。

「……なあ菅家。さっきまでこの二人さ、血みどろな戦いしてたよな?」

「ああ……。俺たちはとばっちりを受けてたはずだ……」

「はて、そんなこともあったっけ」

「もう覚えてないよねえ、行喜名さん」

 絶句する二人。……こうして見ると、兄と菅家君は正反対の性格をしているのに、根っこのところは同じというか。凸と凹で凸凹というやつ。だからこそ馬鹿な付き合いをしているのかもしれない。

「さてさて。次に行こうか。なんでこんな所に来たのかよく分からんし」

 家庭科室に用があるわけでもないので、未練もなくさっさと部屋を出る。仲直りをした瞬間、兄は張り切って前を歩くようになったのは、現金というか。

「ん? 見ねえ新顔だな」

 そして突然廊下に轟く、女性の声。

 前方から、一人の女性が歩いてきた。随分若い。まだ教師になって間もないというくらいか。の割には、初々しさなど微塵も感じさせない。

「どこの不良漫画ですか、ゆず先生」

 即座に兄がそんな女教師に突っ込みを入れる――よりもさらに即座に女教師は兄の額に指を引っかけた。アイアンクロー。よほど握力がなければ破壊力を齎さないその技。喰らった兄は、苦悶の表情を浮かべる。どれほどの力が込められていることやら。

「ぐ、ぐぅ!」

「んー? 俺の名前を言ってみろぉ」

 必死に指を引き剥がそうとするが、アナコンダが首に巻きつくみたいにぎっちりと喰い込んでしまっている。その破壊力たるや。……この人、できる。

「た……かなし……、ゆう、先生です……」

 諦めた兄は、降参の意思を示すため、素直に名前を言った。その言葉を受け取った小鳥遊教員は、満足げな顔で、手をぱんぱんと二回叩いた。

「いやー、一度言ってみたかったんだよなあ。『見ねえ新顔だな』って台詞。あたし、転校生がクラスにきたってことがなかったし。ってか、不良扱いされてたけど所詮お嬢様学校の中での不良だし」

 ふと後ろを見ると、私を隠蔽するために兄が雇ったはずの栗林さんと菅家君は、あろうことか私を盾にして震えていた。

「……ど、うし、たの?」

 ただ事ならぬこの状況。一体、この女教師になにがあるというのだろう。

「こらあ菅家ぁ、栗林ぃ。あたしの姿見て隠れてんじゃねえよ。いくら付き合ってるからと言って、そこまでシンクロしなくてもいいだろ。シンジとアスカかてめえらは」

「何故それを知ってんですか!?」

 女教師の言葉を聞いて、栗林さんは驚き戦慄く。二人が交際をしているのを知っているのはこの学校の中で川西多喜良、一人だけ。そのように認識していたようだ。……それにしてもさっきから漫画や、未来人である私には少々時代を感じても、この当時は割と最近になるアニメネタばかりを。どういう教師なんだ。自称とはいえ、お嬢様学校に通っていたような人間が、このような不真面目な大人に育っていいものなのか。

「学校の外で会ってたの見ちったから。普段喧嘩ばっかりしてる奴らが外でいちゃいちゃしながら腕組んだりして歩いてたら、答えは一つしかねえじゃん。いやあ、青春してるカップルみてると腹立つねえって、思ったけどな」

 菅家君と栗林さんはがたがたと震えながら、絶対に他人に言い触らすなよ……と願う表情をしている。口に出してこの小鳥遊教員に言ってしまえば、『絶対にスイッチを押すなよ』と念を押されるとつい押したくなってしまうあの心理と同じで、この人は躊躇なく学校中で噂にしてしまうだろう。だから、願うばかり。

「安心しろ。別に言いやしねえよ。ただまあ、お前ら三人はよくあたしの授業を妨害しやがるからなあ……あたしの授業中とか騒いだりしたら、どうなってるか分かってるよな?」

 そして二人の思惑を見事に把握している小鳥遊教員。なんという。二人はこくこくと肯くことしかできない。兄だけでなく、この人にまで弱みを握られるとは。このカップルに、安息の時はくるのだろうか。

「障害が多い恋愛、これまた青春。あっはっは」

 そう豪快に笑いながら小鳥遊教員は、美貌がもったいないほど男らしい。

「ま、ようは注意はしろよって言いたいってこった。じゃあな。ばれるなよそこの『転校生』さんよ。あたしは面白そうだから放置しておくけどな」

 ねちっこく人の弱みを握っている人にしては、やけにあっさりと去って行った。

「……転校生」

 小鳥遊教員は、確かにそう言った。

「まさかさあ、行喜名さんのこと、ばれてねえ?」

「あの先生ならどんなことがあっても信じるよ私……」

「本当、謎な人だよなあ。尊敬する」

 項垂れる二人とは裏腹に、アイアンクローをかまされて意気消沈であった兄は、去る小鳥遊教員の背中をいつまでも見送っていた。

「……なんなの、あの人?」

 これまで無言を貫き通してきた私の疑問はそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。

「小鳥遊柚先生。小鳥が遊ぶと書いて小鳥遊。果物のゆずで柚。ただ、ゆず先生と呼ぶとジャギの台詞を言いながら激怒する。さっきみたいに。年齢は不詳だけど、うちの学校が新任という話。授業ではよく漫画やゲームの話しで脱線する。……くせに、教え方は反則なくらい上手い。豆知識とか雑学とか滅茶苦茶知ってて、聴いてるといつの間にか授業に引き込まれてる。今年に入って、国語の成績があまりよくないような奴でも、問題はむしろ難しくなってるぐらいなのに、高得点を取れたりしてる。生徒の中には、小鳥遊先生の尊敬派と恐慌派がいる。俺は尊敬派で、菅家と栗林は恐慌派。そんな感じの先生」

 兄が滔々と説明するのを聞いて、逆に小鳥遊教員は正体不明になった気もする。私と兄を足して、二で割らない。そのくらい、敵に回した時が厄介すぎる。

「私、本気であの先生苦手……。教え方が上手いのは認めるけど、少しでも刃向うと嬉々として全力で対抗してくるし……」

「俺もだ……。川西はよくあのアイアンクローに耐えられるよな……。うちのクラスはほとんどが耐えられないって言うのに」

 あの技はなにも兄だけでなく、誰であろうとも平等にするらしい。私の時代だったら体罰で教育委員会にしょっぴかれているところだ。……いや、この時代でもそうか? でも新任というのが本当なら、春から秋である現在までの半年ぐらい、特に問題視はされてきていないという。マゾが多いのだろうかこの学校、

 ――まあそんな些細なことよりも。

「どうやって私がこの学校の生徒じゃないって気付いたんだろう」

 ばれる可能性も考えなくもなかった。それなのにこうもあっさりと看破されるとなると、いささか拍子抜けというか、気力が抜けるというか。

「さあな。小鳥遊先生のことだから」

「どこで知ったとしても」

「不思議ではないな」

 ……あの先生は、あまり性格が似ているとは思えない三人の考えを、見事に一致させる魅力に満ち溢れておっしゃられる。

 かなりの疑問を残しながら、私たちは道を行く。

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