九月十九日(木)・4
「ここが、俺たちの教室、三年D組」
兄の先導のもとにたどり着くは、日ごろから使っているという教室であった。
夏ももう終わり。午後四時ともなれば、昼では白い太陽からの日差しは、僅かながら黄色味を帯びる。机に光が反射し、鈍い茶色が緑の床と不協和音を出していた。
……ふうん。ここにいる兄は、私の知りえない兄なんだ。皮肉なことに、兄が死んだ後になって、兄の一面を見ることになるなんて。
「多喜良君の席はどこ?」
「ああ、俺の席は一番後ろの、一番窓際」
私は兄の指差した席へ座ってみる。
「ここに、――が座ってるんだ……」
ここで兄は普段、どんな顔をして授業を受けているのだろう。真面目に受けているのかもしれない。寝ているのかもしれない。隣の友達や女子とお話でもしているのかもしれない。教師に注意をされても読書を強行しているかもしれない。どれもこれも、生で見ることがなければ、口頭で説明されても意味がないことだ。
所詮は学校の所有物ではあるが……私は、兄の席へ座ってみた。机の上には落書きがされている。私はそれを指でなぞってみた。兄の字だ。特に中身もないような、下らないもの。それなのに、兄の息吹を感じる。生々しい。今すぐそこに本物が存在するというのに、兄の残り香を追い求めてしまうのは、兄が死んでからの私の無意識化での癖かもしれない。特別意識したことはなかったけれど、この時代にきてから気付かされた。
「…………」
「どうしたの? お――」
お兄ちゃん。そう言おうとした。私としたことが。菅家君と栗林さんの手前、兄のことは名前で呼ぼうと決めたはずなのに、それを忘れてしまうほど今の兄、そしてこの世界は――なんだかとても儚くて。実はこの世界は、兄が黄泉に私を招待したのではないか。そう思ってしまうような雰囲気が、この黄昏時の教室は満たされていた。
「んー……私たちはお邪魔虫みたいだから、隣の教室ででも待ってる。用が済んだら声を掛けて」
「あ? なんだなんだ?」
空気を読んだのか、栗林さんは菅家君を引きつれて教室を出て行った。
「余計な気、使わせちゃったかな」
「気にすんな。栗林は栗林でいちゃつきたいだけだから。菅家は気づいてないっぽいけど」
「そう。じゃあ折角二人が作ってくれた時間なんだから、有効活用しなきゃね」
兄は教卓に座った。一際高い所に座った兄は、足をぶらぶらさせている。妙に子供みたいだ。というかまあ、中学生なのだから当たり前か。……兄はまだ、中学生。それなのに、私以上に大人びたことを言えているのか。その年齢ぐらいだと、自分はもう立派に大人で、子供ではないと思ってしまうもの。それこそが子供の考えだと知らないままに。なのに兄は自分が子供であることを自覚している。子供であるが故、自分のできることを模索している。そういう意味では、着実に大人への一歩を踏み出している。未だ階段の存在すら暗中模索な私よりも、ずっと。
「お兄ちゃんは中学校生活の三年間、楽しかった?」
「おう。まあまだ半年はあるけど。すっげえ楽しかったよ。クラスの半分くらいとは仲良くなった。その中でも、菅家とか栗林みたいな馬鹿とも友達になれたのは正解だったな。三年間も一緒のクラスになりゃ、接点が全くない方が少ないだろうけど。修学旅行で馬鹿やったり、裁可祭――ああ、この中学でやる文化祭みたいなやつのことなんだけど――出展する絵が似顔絵だったんだけど、俺と菅家でお互いに下手な絵を描いたり。野球のグローブみたいな色の肌をしてたなあれ。体育祭でデッドヒートしたりさ。あとは、真冬にプールに侵入してみたり。知ってるか? 真冬のプールって、すげえ汚いんだぜ。どれもこれも、いい思い出だよ」
思い出を語る兄の純粋な笑顔は……私には、正視をすることができなかった。
私の中学三年間は泥沼だった。兄が死んだことによるショック。母の浮気のせいでねじ曲がった私の価値観。友達を作らず、本当の意味での恋人も作らず。クラスメイトは、ただそこで同じ空気を吸うだけの存在。誰とも仲良くせず、誰とも交わろうとはしなかった。そんな三年間に、いい思い出なんてあろうはずがない。高校だって、最初のうちはそうだったのだ。水城先輩と出会うまでは。もしあの人に出会っていなければ、私は今頃、ここに存在している私がぶん殴りたくなるようなイブの私になっていたことだろう。
「ふうん。……お兄ちゃんって、栗林さんのこと、好きなの?」
三年間も一緒にいた仲なのに、自分の知らないところでいつの間にか結ばれていたといことに、嫉妬するどころか心から祝福できるなんて……私には、到底信じられない価値観。
「んー、今だから言うけど……」
腕を組んで、たっぷり一分長考して、「恋愛感情は、実は、ない」と、そう言い切った。
「……『実は』を枕にする意味はあるの?」
「大ありなんだなそれが」
頭を掻きながら、恥かしそうに言う。
「どうして栗林と菅家が付き合ったのか、なんとなく想像はつくんだよ。頑なに言おうとはしなかったけど。あ、俺だから言えなかったのか」
「どんな理由?」
「多分栗林は、俺のことが好きだった」
「へえ。自分で言っちゃうんだ?」
「俺さ、栗林から告白された。知っての通りあんな性格だから、告白とも言えない告白だったけど、とにかく告白っぽいことをされた。……だけど俺は、断った」
微妙に甘酸っぱい中学生の青春。それがまさに三人の間で繰り広げられていたとは。そんなこと、過去から今の私に至るまで、全く知りようがないことだ。兄は私がどんな中学時代を送ったかが分からないのと同じように。私は、川西多喜良という一人の男を、全然知らないことに気が付く。所詮人間なんて、それが肉親であろうが、他人を知っているようで知らないものなのだ。
「へえ……栗林さんが告ったんだ」
「こ、こく?」
「え? 告るは告る……」
「……もしかして、告白する、の略か?」
「言うでしょ? 普通に」
「言わねえって。なんだそのみょうちくりんな略し方。しかも略す必要ねえじゃん、もともと短いんだし」
うわ、最近できた言葉なんだ、これって。
まあこんなやりとりをしたおかげか、兄は少しだけ、空気が和らいだみたい。
「なんか俺って、女が誰を好きなのか分かっちゃうんだよな。男が誰を好きなのかとか、俺自身に好意が向いてる時とかはそれも鈍るんだけど。栗林の場合、俺じゃなくて菅家を好きになり始めた時、明らかにその感じ方が変わった。その時だ。栗林が、俺のことを好きだったんだなって気づいたのは」
「もし栗林さんが『好きです、付き合って下さい』みたいな、直球で分かりやすい告白をしたら、お兄ちゃんはどうしてたの?」
「断ってたさ」
間髪いれない答えだった。
「告白というものは、好きですと相手に意図を伝えられたら返事をするのが礼儀だろ。場合によっては返事はなくてもいいってこともあるだろうが、基本はそれだ。で、俺はちゃんと礼儀は払う。大体だな、」
兄は教室の前を飾る黒板……の向こう側にいるであろう栗林さんと菅家君を、透視の力があるのだろうかと疑いたくなるぐらい、穏やかな表情で笑いながら見つめる。
「俺と菅家が馬鹿やって、栗林が真面目な性格をしながらも俺たちの馬鹿に巻き込まれて、栗林はちょっとだけ俺のことを好きなんだけど言いだせなくて、関係を壊すのが怖くて、俺は期待に応えてくれなくて――そんな微妙な距離感だったからこそ、俺たちは仲良くやれたんだよ。それを壊すぐらいなら、俺は現状維持を望んだ。他人には分からないかもしれないっていうか、俺が第三者だったら『はあ? なに言ってんのお前?』ってなるけど」
「……そんなものかな」
「まあその結果として、失恋した栗林を慰めた菅家に愛情が向いたんだろうさ。栗林を振った身として、菅家と栗林が付き合うのを反対する権利も義務も、俺は持たないよ」
とは言え、その栗林さんも、兄の愛情は捨てきることができなかったようで。
ここからは流石の兄も気付いていない部分だ。私は月曜日を思い出す。喫茶店で初めて栗林さんと会ったあの時。兄と一緒に喫茶店でお茶をしていた、栗林さんにとっては『自分の知らない女』である私を、まるで恋敵のように睨んでいた。それが証拠。
好きだった人が、別の異性と付き合いだした。これに嫉妬をしないというのは、よほどその好きだった人を嫌っていなければできないことだ。ましてや兄は、栗林さんのことを歯牙にもかけなかった。なのに、私みたいな女とはあっさりと付き合いだした。『私とこの女のなにが違う? どうして川西君は、よりにもよって私に見せつける?』そう栗林さんは思っただろう。所詮は私の想像の世界とはいえ、大きくは間違っていないはずだ。
もし栗林さんの立場に私が立っていたらどうなっているのだろう。例えば水城先輩が過去に好きな人と密会した。それはもちろん、嫉妬する。いや、そんな生半可な感情ではないだろう。恨む。呪う。根にもつ。屈辱。遺恨を抱く。悪意を抱く。敵意を抱く。殺意を抱く。そのぐらいだ。そして隠そうとする努力だってしない。それを考えれば、栗林さんのなんと気丈なことか。私に敵意を向けただけで、さっきみたいに息を合わせてくれたりもする。私よりも年下なのに、かくも強いものなのか。それとも、私が弱いだけなのか。
「ま、所詮は過去形だけどな、過去形。今は本当に菅家のことが好きだろうし。二人の男を好きになるなんて、普通じゃないだろ」
「――――」
「どうしたユキ?」
そうだ。それが普通の価値観。基本的に人間は、男と女が一組となって結婚をする。古今東西、どこの国や文化を見ても、結婚というシステムは少なからず存在する。一夫多妻制や一妻多夫制の文化もあるけれど、それはあくまでもごく少数で、やはり男と女が一人ずつ、が基本だ。だというのに、二人の男を同時に好きになる私は。
「なんだユキ。もしかして、二股かけてたりするのか?」
「さあ。どうだと思う?」
「ユキは俺のことを変態とか言ってイメージが崩れてるみたいだけど……それ以上に俺は、ユキを軽蔑するな」
いつになく兄は、まなじりを決して私の顔を見つめる。どれだけ私の本心を見切っていることなのやら。
「ふふ。じゃあ、軽蔑していいよ」
兄の眼力と、夕焼けの赤がおりなすコンビネーションにやられ……私は、どこかが狂ってしまった。私は、私のやろうとしていることが分からない。
「…………」
「あ、言っておくけど、私の付き合ってる人は確かに一人だから。好きになっているつもりはないけれど」
「好きでもないのに付き合っているのか?」
兄に隠し事はできない。したところで、いつかはばれる。兄と戦って、勝った試しがないのだ、私は。
「……まあお兄ちゃんにだから言うけど、こっちの世界に来てから、少しだけ恋愛感情が芽生え始めている自覚はある」
私は、同じ男を同時に好きになる。今この場で、私は水城先輩に恋愛感情が芽生え始めているということは、それはつまり――私は、それ以上のことは考えないようにした。
「俺に言ってどうする。その彼氏君にでも言ってやったらどうなんだ」
「というか私は、人を好きになる時は、必ず二人好きになるから。昔からね」
「そうなのか?」
さすがに兄もそれは初耳だし、気づいてもいなかったのか、純粋な疑問の声を上げた。
「うん。チビ私の時代からそう。下手すると産まれた時からなんじゃないかな。誰か男の子を好きになると、別の男の子も好きになる。どちらかを嫌いになると、もう片方も嫌いになる。絶対に連動するの」
「それが、付き合ってるのに好きではないことの理由?」
「だってそうしないと、お母さんみたいに、別の人も好きになっちゃうもん」
兄に隠したところで、無駄。だから私は、告発する。
「――そういうことか。ユキがお袋を恨んでた理由が、よくわかったよ」




