九月十六日(月)・1
「ほら、ユキ。朝だぞ。起きなさい。クジラの九時三十分だ」
「ん、んん……」
やけに懐かしいフレーズ。たしか、幼稚園の先生がよく言っていたような。兄と私は同じ保育士さんに担任されたから、少しだけ話題が共通できる。これはその一つだ。たまにこうして私を子供扱いをする時、馬鹿にするように言うのだった。
私の目を、朝の日差しから守っていてくれた毛布が、何者かの手によって引き剥がされた。眼前に広がるは、ただただ白い光ばかり。
「…………! ユ、ユキ! まさか昨日、俺の部屋に着た時は――!」
「……ん~?」
誰かが、驚きの声を上げる。私は寝ぼけた目で、私の安眠を妨害工作を働いた人物を視認する。兄。
「……どうして」
兄は死んだはず。それなのに、何故私の目の前にいて、私を起こしてくれて――
「って、そうだったそうだった……」
タイムスリップしたのだった。大切なことなのに、寝起き直後はこれだから。本当、私は朝には極端に弱い。まだ数秒で気がついたから、これでもマシな方なのだ。普段なら、十分ぐらいは眠気モードに突入したまま。
「ちゃんと服はピシリと湯葉のように締めなさい! 女の子なんだから! 以上!」
兄は慌てながら、私の部屋のドアをビッタンと閉じた。心なしか、ちらっと見えた兄の横顔は、赤かったように思えた。
「……なんだろ」
どうして顔が赤かったのだろう。と、湯葉のようにぴしりとはどんな状態なのだろう、の二つの疑問があった。どうせこの霧がかかった状態の頭で考えようと、碌な答えにたどり着けない。無駄なことは早々に切り上げて、私は着替えることにした。枕元に私の着替えが置いてある。昨晩のうちに洗濯しておき、乾いたものだ。おそらく、早起きした母が置いておいてくれたのだろう。少しピンクかかっている白のシャツに、七分丈のジーパン姿。青いブラジャーに、それとお揃いのショーツ。前日と同じ服が綺麗に畳まれてある。着替えがないため、今日はこれを着まわさないといけないか。
どことなく兄の匂いの残滓がある、深い水色をしているパジャマのボタンをはずす。手つきが覚束なく、一つのボタンをはずすのに七秒は掛かってしまう。ようやく全部外し終えたと思ったら、今度はブラが待っている。付け初めてもう四年(まだ四年……)経つそれを、慣れた手つきで装着する。
「……あ」
ホックを留めた辺りで、兄が赤くなっていた理由が分かった。
洗濯したものの中に下着が入っていたということは、昨日の深夜、兄の部屋を来訪した時には、私は下着を着けていなかったことの証明だということで。兄からしてみれば、私が胸を反らしたりして、図らずも胸が強調されていた時、この薄手の生地の一枚向こうには、私の――が存在しているわけことに気づいてしまったというわけだ。いかにも中学生らしい理論。怒るどころか、むしろ微笑ましい。
それにしても、それぐらいで赤くなるとは兄も初心なことよのう、などと悪代官のように思った。チビ私は兄の生きている間、ブラジャーなんてものをつけることはなかったし、体型も子供そのものだったから、チビ私を『女』として意識したことなんてないはず。なのに、胸は膨らんで少し大人っぽい下着をしているのを見て、私を本格的に『女』として見てしまったのかもしれない。チビ私と対比した時の私は、少なくとも色気では負けないわけで。
「……ん、あれ」
でも確か、その状態で兄に抱きしめられたような。包み込むような抱擁だったから、兄の胸板に私の胸が触れていた可能性も。
かあっと、顔が熱くなる。
なんだ、やはり私も恥ずかしいんじゃん。……気にしないでおこう。
「おはよう、ユキ」
「おはよう、お兄ちゃん」
とても爽やかな、目覚めも吹き飛ぶような笑顔。私の下着を見て狼狽した男子中学生と同一人物とは到底思えない。『俺はユキを起こしに行かなかった。ましてや、ユキの下着なんて見ようはずがない』と、兄の中ではそのように結論付けられたようだ。私もそこはつっつかないようにしておく。
「ゆきなは大きくなっても起きるのは苦手なのねえ。お母さんがいくら起こしても、全く起きなかったのよ」
「ああ……まあ、それは、まあ」
寝起きに母の顔を見るぐらいなら、父に裸を見られた方がマシだ。
「習慣なんて、そう簡単に変わるものじゃないし」
嘘だと自覚していながらも、私はそう言った。
「それじゃ、さっさと食って出かけるか」
母はダイニングテーブルの上にお皿を置いていく。皿の上には、トースト・ベーコンエッグが載せられていた。カップにはコンソメスープ。我が家は手軽だということで、朝食は洋食派だ。それは未来になって、私と父の二人だけの家族になっても変わらない。
「……? お兄ちゃんは先に食べなかったの?」
あの頃の習慣を記憶から掘り起こす。私はこの通り起きるのが遅いから、遅い朝食になるのが常。平日は寝坊ギリギリまで粘ったせいで、ご飯を掻きこんで食べるのが普通だったぐらいだ。平日でそれなのだから、休日はもっと遅い。家族揃って朝食を食べる、なんてことはできなかった。私の起きるのが遅いから。私を抜いた三人で朝食を済ませるのが、当時の習慣だった。
「一人で食べるご飯ってのも味気ないだろ。ユキが起きるまで我慢したんだよ」
「それはそれは」
遅寝早起きが基本の兄だから、結構な時間我慢させてしまっただろうに。私は謝った。
「それよりも、おとうさんに謝っておきなさい、ゆきな。一緒に食べたがってたのに、結局同席できなかったんだから」
「本当、親父って一人で食べる姿は、家族に冷たくあしらわれる中年って感じだよな」
「だから、おかあさんがおとうさんと一緒に食べたんじゃない」
どうやら、私が起きる前に、三人の間で存外いろんなことがあったようで。確かに父が一人で食べる姿は、リストラされ、家族に言うに言いだせず、それでも妻はお弁当を作ってくれ、仕方なく公園で食べる姿そのものだ(兄はそこまで言っていないなんてことは気にしない)。だからこそ、私は父が家にいる時は、なるべく嫌な顔をせずに一緒に食べるようにしている。我ながら親孝行な娘だとは自負している。私の年頃だと、父を不潔扱いするのは普通みたいだし。
BGM代わりに点けているテレビから、ニュースが流れる。
『先日未明発生した脱線事故の影響により――』
アナウンサーは、沈痛な面持ちで事故の惨状を伝える。ここからは遠く離れた県で起きた、かなりの被害を出した事故。死者は百名を超える、近頃でも最大規模だ。生き残った、五歳ぐらいの少女が運び出されるシーンを流している。しかし数日もすれば、当事者以外としてみればもう風化してしまうもの。次々にコーナーが変わり、空気も一転、バラエティーのコーナーになる。この秋から新番組として放映されるドラマの番宣だ。
「……うわ、懐かし」
見てはいなかったけれど、大人ぶっているクラスメイトがよく話題にしていたことは覚えている。
「そうだよな。俺は最新どころか未来のドラマでも、ユキにとっては過去も過去、エリマキトカゲぐらい大過去なんだよな」
「お兄ちゃんって、エリマキトカゲが人気になった頃よりも、後の産まれだよね……?」
「おかあさんが、たきらを産んだ頃ではあったけど、どうだったかしらねえ」
どうして生前の物で例えようとしたのだろう兄は。考えないでおく。
「そういえば、小学校にどう連絡しよう」
チビ私の配慮なんか今まで全くしてなかったけれど、小学生で無断欠席をするのはまずい気がする。中学を超えて、高校にでもなれば無断で休んでも心は痛まないのだけれど。
「それならおかあさんが連絡しておいたわ。四十度を超す熱が出たから、一週間ぐらいはお休みしますって」
ああ、これがあの、クラスメイトにやけに心配された理由だったのか。原因は母か。まさか、こんな軽い口調で重苦しいことを言ったのではあるまいな、と心配になる。
兄と二人でやや遅い朝食を食べ、私たちは、出かける準備をする。……とは言うものの、私の持ち物なんてない。外出するのに必要な品物は軒並み未来の世界だし、貴重品の類もなし。大した準備もなく、玄関で兄を待つ。兄は兄で準備があるらしい。
「ゆきな。これを持って行きなさい」
待っている間に、母が私の前に現れた。革製の財布を持っている。それを私に手渡した。
「これで好きなお洋服を買いなさい」
母から貰った財布を見ると……一万円札が、十枚ほど。
「多すぎるって」
こんな金額、一度に持つには一介の女子高生に対して荷が重すぎる。
「いいのよ。おとうさんの貯金なんだから。昨日おとうさん、全力で支援するって言ったでしょう? だから好きなだけ使いなさい。おとうさんのへそくりなんだから」
「それって、使っていいの……?」
「そのお金でゆきなが可愛く着飾れるなら、その方がお父さん喜ぶわ」
そんなものなのだろうか。どれにしろ、未来の世界に戻ったら、バイトとかして返そう。さすがに罪悪感が強い。けれど、買わないわけにはいかないのも事実なわけで。女の服は、金額が相応に掛かるものだし。
しばらくして、兄が部屋から出てきた。
「それじゃ、行くか。はいこれ」
兄はまだ新しい、ぴかぴかとした靴を、玄関にポコンと置いた。
「いいの新品の履いちゃって?」
新しい物を本人よりも先に使われるのって、結構嫌な気分がするものだけど。
「俺の履きならしの靴を履くよりはいいだろ」
「別にそれでも構わないのに」
「『お兄ちゃんの靴を履いたせいで私の足が臭くなった!』とか言われたら立ち直れない」
「あー」
遠慮せず、新品の靴を履くことにした。サイズは兄自身の成長を見越してかやや大きかったけれど、別段文句はない。言う権利もない。安物でいいから、自分に合ったサイズの靴を買うまでの間だ。兄は先に外へ出て、履きなれないから踵を合わせるのに手間取っている私を待つ。私もなるべく早く済ませて、兄の隣に並んだ。
「ごめんね、待たせちゃった」
「…………」
「何?」
兄の目から一筋の水が。
「まさか、恋人よりも先にユキからこの言葉を聴けるなんて……感動だ」
「喜ぶようなこと?」
「ああ」
成長したこの身になって思えば、兄は重度のシスコンだったんだなと。恋人に言われるより、妹に言われた方が嬉しいとは。
「金、受け取ったか?」
「うん。こんな大金、初めて自分の手で持った」
「俺が預かろうか」
「子供扱いしないでよ。私の方が年上なんだから」
「いやあ、ユキっていうと、なんか物をなくすイメージがあって。ほら、二年ぐらい前にさ……って、チビユキから見て二年前なんだけど、お使いを頼まれてスーパー行ったら、千円札落としちゃったとかで、大泣きで帰ってきたことがあっただろ」
そんなことがあったような、なかったような。チビ私ならやりそうなことだけれど、兄の創作と言われても納得してしまうような、曖昧なライン。
肩掛けバッグを持った兄は、実に身軽そうだ。バッグもペタンとしていて、一体何が入っているのか。以前、水城先輩から聴かれたことだけど、男からしてみれば、女がトイレとかに行く時に逐一ポーチを持ち歩くのが不思議で仕方ないらしい。けれど、女としてみても、男がどういう物を持って歩くのかは興味がある。
「ん、このバッグ? 何も入ってねえよ」
「そうなんだ」
私の目線だけで言いたいことが分かられてしまった。悔しいので、素っ気ない反応をする。それが拗ねていることの証明だったとしても。
「ユキは、顔に出やすいからなあ」
「私、学校ではどっちかって言うと『何考えてんのかわかんない』って評判されるような女なんだけど」
これが『兄』という人物なのかそれとも存在なのか。ずばずばと言い当てられてしまう。
道には子供が親と一緒にごくごく普通に出歩いている。小学生ぐらいの女の子が元気に自転車で走り回っている今日が休日なのは、どうやら本当のようだ。祭日だとはいえ、大型の休みでもないのに本来なら平日のこの曜日に歩くのは、なんとも独特な空気を感じ取るものだ。本当に休んでいいのか、大人たちは休日も平日も関係なく働いているのに、とか。サラリーマンならそれは休みなのだろうけれど、接客業なら休日こそ書き入れ時なのだから、より一層感じる。
「なんか背徳感があるなあ。ちゃんと休みの日だっていうのに」
同じことを兄も思っていたようだ。私はこの時代だと、通えるべき学校が存在しないのに対し、兄は通う学校がある。私よりも一段は上の快感を味わっているのかもしれない。
「街に出ると言っても、どこにしようか」
駅のホームで、乗換案内を見ながら私たちは唸る。買い物をするという目的こそあったものの、じゃあ何所で買おうかということまで、全く考えていなかった。仕方なく、今この場で相談しあう。この近辺、発達した街はいたるところにある。何所によく行くかでその人物の性格が分かってしまうほどだ。私と水城先輩は、どちらかというと若者よりも大人向けの場所へ脚を運ぶことが多い。水城先輩が私に合わせた結果だ。
「お兄ちゃんの感性に任せるよ。『デート』なんだから」
兄は私の一言を聞いて、
「そうか。デートは男の甲斐性の見せどころだからな」
ニヤリと笑いながら、それだけを言った。
「そういうこと」