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渡時過行  作者: いせゆも


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一九九六年九月十五日(日)・7

「どうだ、泣きやんだか?」

「うん。もう大丈夫」

 どれぐらい泣いていたのだろう。数分かもしれないし、数十分かもしれない。こんな感覚に陥るの、先輩とキスをした時以来だ。ただし、私の身体を抱きしめていたのは、あっちは先輩で、こっちは兄に、の違いはあるとしても。今さらながらだけれど、私よりも年下なんだなあ、兄は。なのに、年上で、身長のある先輩に抱きしめられた時と同じくらい安心できたのはどうしてなんだろう。兄だからなのか、それとも男として包容力があるからなのか。……あれ? この中学生の兄は、彼女が既にいるらしいけれど、まだそこまでモテているわけでもない時期のはずだから……経験ではなくて、本能でしているのか。天性で女たらしの才能を持っているらしい、私の兄は。

「ごめんね。お兄ちゃんの困った顔が見たかったの。このお兄ちゃんなら、ぎゃふんと言わせられるかなあって」

 気がついた時には、昔の口調に戻っていた。今さら兄の前で取り繕ったところで意味がないし、兄もそれについて言及することはない。恥じることなく、私はやや幼めの喋り方をすることにした。少なからず、兄に対してぐらいは。

「はは。悪女だなユキは。男の一人や二人、ぽぽーんと手玉にとってんじゃないのか?」

「どうだと思う?」

「そうだなあ……こんなに可愛い子を放っておく男なんて、高校になったらごもも~と密に群がるカブトムシぐらいいるんだろうなあ。くそ、ちょっとお兄ちゃん嫉妬してきたぞ」

 なんかその言いまわしが、兄といえど高校をちょっとだけ勘違いしている子供なんだなあと思えて、私はふふっと笑ってしまった。お兄ちゃんは口をとがらせて「なんだよ」と一言だけ呟いた。自ら進んで行動しないと基本的にはそもそも出会いがない。それこそ先輩みたいに、私が邪険にしていてもしつこいぐらいに接近してくるぐらいでもしない限り。

「彼氏、いるよ。嫉妬する?」

 自然に、言えた。

「うわ本当にいるのか。ユキの口からそんなことを聴く日がくるなんてなあ。やっぱ高校生になると違うのかねえ」

「そんなことないって。お兄ちゃんなんか、高校生になったら凄く一杯彼女さん作るし」

「すっげえさすが俺。そうすっと、今のうちに金貯めといた方がいいのかねやっぱり。今でさえ、結構金かかんのになあ」

 そういえば、兄はいつも金欠で悩んでいた。その割には、私によくお菓子を買ってくれたり、内緒で買い食いしたりしていた。どうやってやりくりしていのだろう。

「そうだね。やっぱり、男の人はお金持ってるのが一番だから」

「お、悪女っぽい。そうか、早速俺を手玉に取ろうとしてんだな、このデカユキめ」

「痛い痛い、やめてよお兄ちゃ~ん」

「はははは」

「ふふふふ」

 そう言って、私たちは笑いあった。笑いあえた。

「そういえば、結構重要なことなのに、一回も訊いてなかったな。ユキはどこの高校に通ってんだ?」

「それって……教えていいことなのかな。今さらだけど」

 SFはあまり興味が湧かなく、読んだことがなかったから、タイムパラドックスとかそういうネタに関する知識が私はあまりなかった。無事に未来に帰ったら、是非ともそちらの分野にも手を広げよう。読書は苦にならないし。

「う~ん……」

「あ、言いたくないなら別にいいんだ。ちょっとだけ、ユキの学力だとどんなものなのかなあって思っただけだから」

「いや、言う」

 悩んだってしかたがない。もう私は、受け入れるって決めたんだ。今さらどうのこうの言ったってどうしようもない。あのピエロみたいな絵の描かれた本が、そのうちに私を未来へ帰らしてくれる。そう信じよう。

「私の通ってる高校は……菜瀧高校」

 その名を伝えると、兄は飛び上がらんばかりに、……というより、驚きすぎて、椅子から落ちてしまった。

「マジで!? ユキ通うのそこ!?」

「あー……うん」

 お尻を擦りながらも、凄い喜びよう。少しだけ、引く。兄は、私の学力なら地元の高校辺りなんじゃないかって、勝手に思っていたのか。

「すげぇ。ユキが行けるなら、俺も合格するなそれは」

「ちょっと。それどういう意味?」

 これでも、割と必死に勉強して、やっと合格したのだった。それなのに、さも当たり前のように、自分も合格できるように言われると。

「だってユキ、大人しくなったけど、あんまり知的な香りがしねえもん」

 くっくっと笑う。

「これでも、学校ではよくクールって言われてたんだよ」

「そんな童顔でクールって言われてもな……って、過去形か。今はクールでもなんでもないんだな?」

「うん。お兄ちゃんの指摘通り。コンタクトにしたら、意外と童顔で近寄りやすい雰囲気が出たとかなんとか」

 言われたことも、あった。……こっちも過去形だけれど隠しておく。

「コンタクト? ユキって、視力一・五じゃなかったか?」

「いつの話をしてるの。六年も経てば、視力なんかがぐっと落ちるって。まあ今はしてないけれど。おかげであんまり見えない。日常生活には困らない程度ないけれどさ」

「そうなのか……ユキでそんななら、俺もいつか眼鏡とか掛けるのかな」

「どうだろ。よくはなかったみたいだけど、意地でも矯正しなかったみたいだよ」

「不特定ばっかだなあ」

「だってお兄ちゃん、私に弱点を見せないんだもん」

「そりゃそうだ。ユキに、俺の欠点を見せるなんてダサい真似、できるか」

 やっぱり、お兄ちゃんは普通の人とは違う。意地っ張りというのか。

「ふむう。眼鏡ユキか。ちょっと見たい気もするな」

 あ――

「残念。眼鏡なんて、持ってこれてないよ」

 私は声が振るえそうになるのを堪えて、やっとそれを言った。

「くそ、ターミネーターと違って服は移動してきたのに、どうしておまけ的な、付属品はついてこなかったんだよ」

「え? 私の裸が見たかったの? やらしー」

「ば、ちげえって! ユキが眼鏡かけたら、さぞクールで、ビューティーなんだろうなって、思っただけだよこんにゃろ!」

 兄は椅子からダイブして、私を巻き込みながら倒れた。そして私の頭を抑え、こめかみをぐりぐりとする。お兄ちゃんお得意のおしおきだ。

「痛い痛い、やめてやめて謝るから!」

「謝ってすむならタイムスリップなんてしねえ!」

「関係ないってそれ多分!」

 お互い支離滅裂なことを叫びながら暴れまわる。だけど、母や父には注意されないように、可能な限り、小声と、小さな動作で。久しぶりの、頭にダイレクトに伝わる痛み。痛くて、凄く痛くて、涙が滲んだ。そう。頭をぐりぐりされるのが、痛くて。

 兄は、私が眼鏡を掛けるところ、一回も見れないんだ。眼鏡をかけ始めたのは高校から。それ以前の問題として、視力が落ちたのは、回りまわって、兄のせい。サッカーを止めた後、小説を読みふけっていたから。だから兄が死ななければ、私は眼鏡を掛けなくても、よかったかもしれない。もちろん、そんなイブの話をしたからって、だから? の一言で纏められてしまう。けれど、そこにはやはり、言葉にできない『勿体なさ』があった。それこそ機会があれば、兄に私の眼鏡姿を見せてあげたくも、なくはない。

「あ、そうそう。やっぱり俺って、菜瀧に行くの?」

 何を突然閃いたのか、ぐりぐりしていた手をぱっと離して、私にそう訊いてきた。

「うん。菜瀧だよ」

 頭をさすりながら、答える。中学三年生の、しかも冬。受験シーズンの盛りだ。兄が通うことになる高校、菜瀧高校は倍率が高く、予備校に通うつもりはないらしいから、こうして独学で勉強してるんだった。結果としては、危うげなく合格したのだけれど。

「うっおマジか。じゃあ、どれぐらい勉強したの俺? 塾とか行ってないよね?」

「それは……よく分からない……けど、シーズン中は、ずっと勉強してたように思ってる」

「逆に不安になるなそれ。未来の俺はこのユキに『ちゃんと勉強すれば合格する』って聴かされたから、頑張って勉強をする。でもその頑張りがほんの少しだったとしても、未来は変わらないんだから結局は合格する。だけど勉強をすることは事実。頑張りの量が分からないから……結局は……頑張って勉強をして……ん? あれ?」

 パラドックスに陥った兄。盛んに頭にはてなを浮かべている。

「ふふ。横着しようとした罰が当たったんだね」

「まあ、必死に勉強すれば、受かるってことだなきっと」

 前向きに判断する兄。その明るさが、私には眩しい。

「ちくしょう。俺が必死に勉強してるっつのに、ユキは彼氏といちゃいちゃすんのか。いいなあ」

「そんな、いちゃいちゃしてなんて」

 まだキスを数回したぐらいでしかないのに。しかも中身は入ってない。クラスメイトが人目も弁えずにいちゃいちゃしているみたく、人前でも水城先輩とくっつけるほど、私は大胆ではないし、水城先輩も積極的でない。

「ん、もう一つ聴きたいことができたぞ」

 やっとお尻の痛みが引いたのか、椅子に戻る。また足を組んで、偉そうに踏ん反り返るけれど、さっきの慌てようを見てしまった私には、滑稽なものに映った。

「ユキって実際に身体を動かしてサッカーをするの? それとも観戦する的な?」

「どっちかというと……両方かな」

「動かす方も? 男のサッカー部しかないんじゃなかったっけ菜瀧って。少なくても今は」

「うん。だから、男に混じって」

「……俺が思ったより、逞しく育ったみたいだな、ユキ」

 兄の私を見る目が、少し変わったようだった。

「それとさ、家族会議で、とある人に影響を受けたって言ったろ。そのとある人って正直な話、……彼氏だろ?」

「よく、分かったね」

「そりゃそうだろうよ。だって『とある人のせいで少ししかやってない』じゃなくて『とある人のおかげでまた少しはやるようになった』っていう表現をしたんだもんユキ」

「そんなもの、言葉の綾だって」

「いいや違うね。ユキはサッカーを一度止めて、またするきっかけになった人がいる。それが、彼氏だ。なんだか随分、小説とか漫画的な恋愛してるじゃないか?」

「――――」

 驚いた。ただ純粋に。まさか、私の一言で、そこまでずばりと当てるとは。いや、「小説とか漫画的な」は否定させてもらうけれど。

「ユキの彼氏かあ。どんなんだろうな。チビユキも意外とモテてるらしいけど、でも彼氏となるとなあ。お兄ちゃん、ショック」

 …………。今思えば、いろんな男の子にアプローチされていたのか、あれって。今の私ならともかく、どうしてチビ私は男の子に人気があったのだろう? どちらかというと、「あんな男女おとこおんな、別に好きでもなんでもねえよ!」と否定されて傷つくタイプの女の子だったのに。ちなみに現在では、そんなことを言う男は問答無用で鉄拳制裁。

「嫉妬する?」

「すっごくするね。目の前にいたら、『貴様なんぞにユキは五年早い!』って言う」

「この時代にいる彼も八年前で子供だって」

「ほほう。つまりユキと同年代と。圧倒的に年上ならもう子供って言い難いもんな。せいぜいプラスマイナス一ってところか。学校の先輩か後輩?」

 しまった。そこまで読まれてしまうとは。

「うぅん……ユキが恋人と一緒にいる図が想像できない……。チビユキは当然だけど、ユキも大概男嫌いそうな外見してるしなあ。どうやってその彼氏とやらと付き合うようになったんだ?」

「それ、言わなきゃ駄目なこと?」

「俺はユキよりも年下なんだぞ。『お姉ちゃん』に、青春の悩み事をうち明けて何が悪い」

 兄から「お姉ちゃん」と呼ばれると、なんともくすぐったい気持ちになる。これはやはり、年下だろうが、私にとって兄は兄だからかな。

「悩みって言うほど、青春してないじゃない」

「ユキにはそう見えるのか。これでも、俺は俺なりにこの世の迷子なんだけどな……」

 ふっ……としたり顔で黄昏ていて、他人が見ても分かりやすく自分に酔っている兄に苦悩なんてあるもんか。

「で、どうなんだ?」

 冗談を言っているけれど、聴きたいのはどうやら本気みたい。多分。眼はこちらをちらちらと伺っている。

「んー……一週間の間、毎晩少しずつそれを話すっていうのなら別に構わない」

「む、随分じれったい真似をしてくれるな。続きが気になって眠れなくなるじゃないか」

「それが狙い」

「……悪女っぽいなあ」

 あながち冗談でもないところが、私も成長したところだということでここは一つ。

「というか、もう結構な時間だな。もうそろそろ寝ないと朝起きれないんじゃないのか?」

 時刻は午前二時を回った。時間が経つのが早い。会話を楽しいと思ったのは、もうどれだけ長い間感じなかったことなのやら。それこそ、兄が死んで以来かもしれない。

「お恥かしながら、朝弱いのは今も同じなもので」

「なんだ、ユキはやっぱり、いつまで経ってもユキなんだなあ。あ、でも、夜更かしはできるようになったのか」

「それはまあ。勉強とかするのは、夜の方が捗るから」

「俺と同じか。さすがは俺の妹よ」

 私は「お休みなさい」と言って、兄の部屋を出て、自分のベッドに潜りこむ。

 そうか。今は、兄を夢で見る必要なんてない。


・・・

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