4 エスペリアの自然
花冠作りを満喫した華神族の姫君たちは、やがて立ち上がると遠くに見える森を指差した。
「オディル、メリザンド、向こうに見える森が、魔深の森とやらか?」
「先ほど、宮殿でお話していましたね?」
オディルとメリザンドも立ち上がりつつ顔を見合わせてから、頷いた。
「……はい。奇術大国であるプレアスティア帝国との国境に繋がる森ですが、あらゆるものを迷わせると言われています。無事に森を抜けた者はいないとか、入る度に地形が変わるとか、そういう噂もありますよ」
「魔物の討伐部隊の精鋭が森に入ることもありますが……彼らは特殊な訓練を受けていますし、特別な力を持つ複数の術士や戦士たちが団結することでどうにか安全を確保しているのです。ですから、私たちにとっては危険な場所です」
大人たちの説明を、姫君たちは静かな表情で受け取る。
「森のほんの入り口は、明るくて木陰もあって、実はわたしは子供の頃、少しだけそこで遊んだこともあるんですけどね」
オディルはふと、幼い頃の記憶を辿りながら口にした。ちょうど今日のように、花冠を作った日のことだった。それはオディルにとって初めてのソルスペスの花冠で、エクトルの優しい笑顔と共に仕舞われている記憶だ。花冠を作り終えたあと、森の入り口でエクトルが剣術の稽古をしているのを見ていた。あの頃から既にエクトルは、風のように軽やかに、剣に見立てた木の枝を操っていた。
「……オディル?」
知らず知らず視線を遠くに投げていたオディルを、サクラが不思議そうに見上げる。
「あ、すみません。えっと、ともかくお二人を森にお連れすることはできません。危険な目に遭わせることは許されませんからね」
「うむ。森にも興味はあるが……迷惑は掛けられぬな。しかし、森の向こうにある帝国とは、どのようにやり取りをするのだ? プレアスティア帝国とやらとは、敵対しているわけでもないのだろう?」
サクラは妙に達観した様子でそんなことを言う。それにはメリザンドが答えた。
「プレアスティアとの交易は空路で行われます。森の地形は安定しませんが、上空にまでは、その歪みのようなものは干渉しないのです」
「まあ。宮殿から見える飛行艇は、この森の上も飛んでいくのですね」
感心したようにモモが言って、魔深の森へと目を向ける。それからその視線を上げた。今は飛行艇の姿はなかった。
「……あ」
そこでモモが悲しそうな声を上げた。好奇心のままに目線を上げた拍子に、花冠が落ちてしまったのだ。
「大丈夫だ、モモ。ほら、壊れてない」
落ちた花冠をサクラがゆったりと拾い上げ、再びモモの頭上に載せる。
「……ありがとうございます、お姉さま。お花は痛くなかったでしょうか」
「大丈夫だ」
「……よかったです」
息を吐いてから、モモは花冠にそっと触れる。
「サクラちゃんもモモちゃんも、本当にお花が大好きなんですね」
オディルの言葉に、当然だという風に二人は頷いた。
「いにしえより、花の神と花々は、互いに祝福しあって存在していたのだ。妾たちもその末裔だからな」
サクラが言うと、モモも誇りを湛えた笑みを浮かべる。そんな二人を、オディルとメリザンドはどこか畏敬の念を抱いて見ていた。
再び風が吹き抜け、休息の野に咲き乱れるソルスペスを揺らす。
「――そろそろお茶にしますか?」
懐中時計で時刻を確認し、メリザンドが傍らに置いたバスケットを開ける。
「ふふ、ちょうど少し喉が渇いたと思っていました」
「妾もだ」
姫君たちは再びその場に座る。メリザンドはバスケットから取り出した金属のボトルから、カップに冷たい紅茶を注いだ。ボトルは保温と保冷の機能を持っている。
「お昼には少し早いですが……こちらはマルの実のジャムのサンドウィッチです」
メリザンドは手際よく支度を調えていく。オディルが手伝う隙もない。あっという間に、マットの上に軽食が用意された。
「マルの実のジャム、こちらで知って大好物になりました」
モモは濃い桃色のジャムを巻き込んだサンドウィッチに、きらきらした目を向けた。
「そう言えば、海の向こうにはマルの実はないんでしたね。ふふ、エスペリアではどちらかと言うと庶民的なものですけど……」
「このジャムは今年のコンテストで優勝した者から献上された逸品ですからね。庶民的でありながら、格別です」
ふふ、とメリザンドも微笑む。
「わたくしはそうした、民に根ざしたものが好きです……いただきます」
心から嬉しそうに言うと、モモはサンドウィッチに手を伸ばし、一口囓る。それから目を閉じてじっくりと味わった。
「妾は外で飲む冷たい紅茶が好きだ。このように温度を保つ器は珍しい」
サクラは紅茶で喉を潤してから、メリザンドの傍らに置かれたボトルをしげしげと眺める。メリザンドは再び、ふふ、と微笑んだ。
「公国が誇る技術です。このボトルの中にある間、中身は注いだときの温度を保つのです。冷めもしませんし、温もりもしません」
「……ですが」
ふいにモモが口を開いた。
「真夏になっても、科学技術と魔術のお陰で厳しい暑さではない、というのが不思議でなりません。わたくしには、ほんの少しだけ……」
小さな姫君はそこでわずかに言葉を探し、
「……自然というものに逆らっている、ようにも見えます」
風に紛れるような、それでいて凛々しさを含んだ声で言った。サクラは少しだけ困ったような顔で双子の妹を見た。
「…………」
オディルとメリザンドは目を見合わせる。二人はエスペリア公国から出たことがない。幼い頃から、こうした環境を当たり前のものとして育ってきた。技術の進歩を当然のように享受し、魔術や占術にも自然に触れる。
エスペリア公国にも季節は巡る。それは例えば花々や風の感触、夜の長さなどによって感じられる。ただ確かに、過酷な気温や天気はない。正確には、科学や魔術で干渉することで、人にとって快適に感じられるように抑えられているのだ。
「なるほど……わたしたちはこれを自然なことだと思ってましたけど」
オディルはカップを両手に持ったまま、わずかに目を見開いていた。メリザンドも何度か頷きながら、
「お二人の知る自然とは、異なっているのかもしれませんね」
しみじみとした様子でそう言った。
「あ、ごめんなさい、エスペリア公国の技術を冒涜するつもりではなかったのですが……」
「ふふ。モモ、郷に入っては郷に従えと言う」
サクラはモモにそう言ってから、誰にも聞き取れない声で悲しそうに何事かを小さく呟いた。
――何かを得れば、何かを失うものだ。
「? お姉さま、何か?」
小さく動いた気配を察知したモモが、サクラに向けて首を傾げたが、
「ふふ、何でもない。マルの実のジャムは香りも良いな」
「……あ、マルの実をジャムにするのは、一番香りが強くなる時期ですからね。その恵みを閉じ込めるんです」
気を取り直したように、オディルが説明する。マルの実が熟すのは冬の終わりから春の初めだ。この献上品のジャムは、春に行われた今年のコンテストに出品されたものだった。
「うむ。技術や魔術が気候に干渉しても――植物は自然の理に沿って巡っている」
「はい、お姉さま」
モモは静かに頷くと、またサンドウィッチを囓った。
「ふふ、確かに――自然の恵みの味、です」
「うむ」
オディルとメリザンドは、この一見して幼い、しかし自分たちよりも遥かに老成しているような姫君たちを、再び畏敬の念を込めて見やった。
それからそれぞれ、遠く離れた二人の故郷に思いを馳せた。
澄んだ空が四人を見下ろしている。オディルはその空を見上げて、ふとこんなことを思った。
――もし、科学技術も魔術も、そのどちらもが干渉していなければ、この空は違った色に見えるのかしら? それとも、この色と変わらないのかしら?




