その花に込められた意味
国境に近い荒野で、やっと女は男に追いついた。乾いた風が砂埃を舞わせる。まだ息も整わないうちに、女は必死で声を上げた。
「待って!」
男は立ち止まり、しかし女を振り返ることはなくまた歩き出そうとする。息も切れ切れの女はその場に崩れそうになりながら、もう一度声を張り上げた。
「お願いだから、待って!」
再び男は足を止め、ゆっくりと時間をかけてから振り返った。
「もう用はないだろう?」
男はその顔に、冷たい笑みを浮かべていた。女はその残忍とも呼べそうな表情に、声を詰まらせた。
「……どうしても――どうしても、行ってしまうと言うの?」
「ここに留まる意味は無いからな」
「――私にも、もう……」
「だからお仕舞いだと言っただろう?」
将来を誓い合ったはずの相手は、無慈悲な声でそう告げた。その変わり果てた声の温度や表情に、女の胸は締め付けられた。
乾いた風が吹き抜けた。女の髪が舞い上がり、男の外套の裾がはためく。
――いつから。
いつから歯車は狂ってしまったのだろう。
ともに積み重ねてきた研究、日常、夢みたはずの未来。同じ景色を――少なくとも同じ方向を見ていると思っていたのに。どこで噛み合わなくなってしまったのだろう。
思い返してみれば、ほんの小さな違和感はあったのかもしれない。例えばふと昏い目で見つめられた夜。例えば思わずぞっとするような低音で打たれた相づちのような、しかし噛み合っていなかった言葉。例えば――
それが厳密にはいつからだったのかは判然としない。ただ確かに、どこかで少しずつ、見過ごしてしまうようなズレは積み重なっていたのだろう。
研究が進むほどに、その見えない溝は深まった。そう、きっとこの研究が、何かを――例えば彼を――変えてしまった。
優れた技術は利便性を生む。あらゆることを効率化し、文明は発展する。
ただ、あまりに優れすぎた技術は――それがもたらす全能感は、人を変えてしまうのには充分すぎた。きっと――そういうことなのだろう。
「…………」
男は黙って女を見ていたが、やがて冷たい笑みを貼り付けて女との距離を縮めた。そのことを女は意外に思い、向けられる言葉を静かに待った。その目は潤んでいた。それでも必死で涙は流すまいと耐えていた。
「これを」
男は右手を差し出し、次の瞬間にはその指先に一輪の花を生じさせた。奇術の類か。男はたまにそういうことをしていた。そこだけは――変わっていなかった。
しかしその花を見て、女は静かな絶望を覚えた。
――クリュの花。
「要らないのか」
男は楽しそうに言って、冷たい笑みを深める。
「……本当に、あなたは」
絶望と諦めの混ざった、しかし微かに笑っているような顔で、女は花を受け取った。
「――あなたは、変わってしまったのね」
「別に俺は何も変わっていない」
「いいえ。変わってしまったわ、随分と」
研究が危険と判断され、公国により禁じられてから。否、危険と判断されたのは研究そのものではない。男が変容し始めたのを――危険な願望を手にしてしまったのを、見破られたのだ。
実際、研究そのものは、現在進行形で公国を上げて取り組んでいる。
その世界から追放されたのは、女の目の前に立つ男だけだ。
「――あなたは、そんな人じゃなかったはずなのに」
女の哀しげな微笑を、男はせせら笑った。
「知った風な口を利くんだな」
「…………」
「新たな世界が理解されないと言うのなら――こちらの方から切り捨てるまでだ」
男の目に昏い光が宿った。小さな違和感は今や、確信でしかなくなっている。微妙に噛み合わない会話。二人の見ている方向は最早決定的に違ってしまっているのだと、女は理解した。
「……この花が、答え?」
必死で涙を堪えながら、受け取った紫色の花を――クリュの花を男の目の高さに掲げる。男は答える代わりに口の端を持ち上げた。
「……そう。何も知らずにこの花を持ち出したわけじゃないのね」
最後の僅かな希望も打ち砕かれた。ただの凛とした紫の花としてではなく、その花の持つ意味まで意図して差し出したのだとすれば、それは充分すぎるほど残酷な現実を伴うメッセージだった。
「もういいだろう。全ては過去のことだ。そして俺は――新たな世界を実現する。俺のための、な」
女はもう何も言えなかった。言ったところで届かないことを理解していた。
やがて男は背を向けた。そして振り返ることなく歩いて行った。
乾いた風が砂埃を舞わせる。女はその場に崩れるように座り込んだ。右手に持ったクリュの花に、それまで耐えていた涙がぽたぽたと落ちる。
ともにしていた日々が走馬灯のように駆け巡り、その記憶はやがて翳り始める。もっと早く気付いていれば、否、気付いたところで――結末は変わらなかったのだろう。
どのくらいそうしていただろう。
女はやがて、静かに立ち上がった。そして乾いた風に向け、クリュの花を放った。
――永遠の別れ。
その花言葉を持つ紫色の花は、感情のない風に運ばれて行った。
「――さようなら」
もうどこにも姿の見えない男に向けて、女は静かに呟いた。そして、自分の帰るべき街へ向き直った。




