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あの日と同じ色の空  作者: 天澤榧乃
プロローグ
1/5

その花に込められた意味

 国境に近い荒野で、やっと女は男に追いついた。乾いた風が砂埃を舞わせる。まだ息も整わないうちに、女は必死で声を上げた。

「待って!」


 男は立ち止まり、しかし女を振り返ることはなくまた歩き出そうとする。息も切れ切れの女はその場に崩れそうになりながら、もう一度声を張り上げた。

「お願いだから、待って!」


 再び男は足を止め、ゆっくりと時間をかけてから振り返った。

「もう用はないだろう?」

 男はその顔に、冷たい笑みを浮かべていた。女はその残忍とも呼べそうな表情に、声を詰まらせた。

「……どうしても――どうしても、行ってしまうと言うの?」

「ここに留まる意味は無いからな」

「――私にも、もう……」

「だからお仕舞いだと言っただろう?」


 将来を誓い合ったはずの相手は、無慈悲な声でそう告げた。その変わり果てた声の温度や表情に、女の胸は締め付けられた。

 乾いた風が吹き抜けた。女の髪が舞い上がり、男の外套の裾がはためく。


 ――いつから。

 いつから歯車は狂ってしまったのだろう。

 ともに積み重ねてきた研究、日常、夢みたはずの未来。同じ景色を――少なくとも同じ方向を見ていると思っていたのに。どこで噛み合わなくなってしまったのだろう。


 思い返してみれば、ほんの小さな違和感はあったのかもしれない。例えばふと昏(くら)い目で見つめられた夜。例えば思わずぞっとするような低音で打たれた相づちのような、しかし噛み合っていなかった言葉。例えば――


 それが厳密にはいつからだったのかは判然としない。ただ確かに、どこかで少しずつ、見過ごしてしまうようなズレは積み重なっていたのだろう。

 研究が進むほどに、その見えない溝は深まった。そう、きっとこの研究が、何かを――例えば彼を――変えてしまった。


 優れた技術は利便性を生む。あらゆることを効率化し、文明は発展する。

 ただ、あまりに優れすぎた技術は――それがもたらす全能感は、人を変えてしまうのには充分すぎた。きっと――そういうことなのだろう。


「…………」

 男は黙って女を見ていたが、やがて冷たい笑みを貼り付けて女との距離を縮めた。そのことを女は意外に思い、向けられる言葉を静かに待った。その目は潤んでいた。それでも必死で涙は流すまいと耐えていた。

「これを」


 男は右手を差し出し、次の瞬間にはその指先に一輪の花を生じさせた。奇術の類か。男はたまにそういうことをしていた。そこだけは――変わっていなかった。

 しかしその花を見て、女は静かな絶望を覚えた。


 ――クリュの花。


「要らないのか」

 男は楽しそうに言って、冷たい笑みを深める。

「……本当に、あなたは」

 絶望と諦めの混ざった、しかし微かに笑っているような顔で、女は花を受け取った。

「――あなたは、変わってしまったのね」

「別に俺は何も変わっていない」

「いいえ。変わってしまったわ、随分と」


 研究が危険と判断され、公国により禁じられてから。否、危険と判断されたのは研究そのものではない。男が変容し始めたのを――危険な願望を手にしてしまったのを、見破られたのだ。

 実際、研究そのものは、現在進行形で公国を上げて取り組んでいる。


 その世界から追放されたのは、女の目の前に立つ男だけだ。


「――あなたは、そんな人じゃなかったはずなのに」

 女の哀しげな微笑を、男はせせら笑った。

「知った風な口を利くんだな」

「…………」

「新たな世界が理解されないと言うのなら――こちらの方から切り捨てるまでだ」


 男の目に昏い光が宿った。小さな違和感は今や、確信でしかなくなっている。微妙に噛み合わない会話。二人の見ている方向は最早決定的に違ってしまっているのだと、女は理解した。


「……この花が、答え?」

 必死で涙を堪えながら、受け取った紫色の花を――クリュの花を男の目の高さに掲げる。男は答える代わりに口の端を持ち上げた。

「……そう。何も知らずにこの花を持ち出したわけじゃないのね」


 最後の僅かな希望も打ち砕かれた。ただの凛とした紫の花としてではなく、その花の持つ意味まで意図して差し出したのだとすれば、それは充分すぎるほど残酷な現実を伴うメッセージだった。


「もういいだろう。全ては過去のことだ。そして俺は――新たな世界を実現する。俺のための、な」

 女はもう何も言えなかった。言ったところで届かないことを理解していた。

 やがて男は背を向けた。そして振り返ることなく歩いて行った。


 乾いた風が砂埃を舞わせる。女はその場に崩れるように座り込んだ。右手に持ったクリュの花に、それまで耐えていた涙がぽたぽたと落ちる。

 ともにしていた日々が走馬灯のように駆け巡り、その記憶はやがて翳り始める。もっと早く気付いていれば、否、気付いたところで――結末は変わらなかったのだろう。



 どのくらいそうしていただろう。

 女はやがて、静かに立ち上がった。そして乾いた風に向け、クリュの花を放った。


 ――永遠の別れ。


 その花言葉を持つ紫色の花は、感情のない風に運ばれて行った。

「――さようなら」

 もうどこにも姿の見えない男に向けて、女は静かに呟いた。そして、自分の帰るべき街へ向き直った。

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