バレンタイン・クッキー
ルディエラが朝の鍛錬である走り込みから帰宅すると、森の中に建てられたこぢんまりとした屋敷は甘い香りに包まれていた。
「パンケーキ?」
朝はできれはしっかりとしたものを食べたいルディエラが鼻をひくつかせて言えば、走り込みに付き合っていたセイムはルディエラに濡れタオルを差出しながら、ああっと小さく口にした。
「今日はバレンタインだから、何か作るって言っていたっけ」
マーティアは毎年この日にはチョコレートに関係した菓子を作ってくれる。ルディエラはぱっと喜色に口元を綻ばせた。
「やった、今日は何かな」
我さきに厨房へと行きそうなルディエラに、セイムは噴き出した。
「なに?」
「バレンタインですよ?」
「うん?」
「どうして貰う方にいくかな」
首筋の汗を拭ったルディエラからタオルを受け取り、当然のようにセイムはルディエラの顔に残っている土汚れを丁寧に拭った。
「そろそろ、誰かにあげてみては?」
ぎゅっと顔を拭いながら、セイムが笑みを深めて言う言葉に、ルディエラは暫く無言であったが、やがて悩むようにうなずいた。
「……そうか。そうだね」
「おや。誰かにあげる気になりました?」
「セイムにあげる」
あっさりといいながらすいっと厨房へと進路をとるルディエラに、今度はセイムが面食らったように動きを止めた。
「せめて三倍返しね」
セイムの驚きなど知らぬ気にひらひらと手を振る主に、セイムはふぅっと息をついて応えた。
「ちゃんと、ルディ様の三倍以上の気持ちを返しますよ」
「楽しみー」
あまり心の籠っていない言葉を言いながら、ルディエラはぱたぱたと厨房に入り込み、カカオのパウンドケーキを焼いているマーティアに「マーティア、手伝っていい?」と菓子作りに参加した。
***
「これならルディ様向きです」
と、マーティアから勧められたのはクッキーであった。チョコチップをふんだんに使った、柔らかくしっとりとしたクッキーだ。マーティアが得意とするもので、彼女いわく一番簡単だというのだが、ルディには到底そうは思われない。
それでもなんとか一刻程の時間を使って作り上げた代物は、なんとかチョコクッキーらしい形を形成し、味もそこそこ――
「ちょっとしっとりしすぎじゃない? 生?」
「そういうものなんですよ。すこし時間がたてばなじみます。大丈夫、はじめてにしては上出来です」
マーティアの太鼓判を受けて、ルディエラは嬉しくなって口元を緩めた。
途中からセイムに作ってもらった包み紙の中にクッキーを五枚ずつ入れていく。そうしてできた包みの一つを、ルディエラはじっと見つめた。
「これは自分の分」
一番はじめに自分の分を確保して、それから誰に贈ろうかと思案する。
まずは、当初の予定通りセイムに一つ。マーティアにも当然。
「……クイン兄様と、うーん……」
残った包みは五つ。
一つは迷うことなく長兄の名前が浮かんだ。厳しくても、やっぱり大好きな兄だ。そうすると、当然頭に浮かぶのは次兄だが、現在少しばかり思うところがあってバゼルについては排除した。次、ティナン――これも不可。
私怨だとか何だとか、まぁ好きにとっていただいて構わない。
ティナン兄さまにはあげない。
「ちぃ兄にはあげよう。勉強見てもらっているし」
うん。
で、残りは三つ。
「ふくちょーと、あ、んー……クロレル副長にもあげようかな? で、そしたら必然的にフィルドさんで――」
そこで包みは終わってしまった。
「もうちょっと作ればよかったかな」
「俺の分、他に回していいですよ」
うーんと悩んでいるルディエラに、セイムはマーティアが作ったパウンドケーキを切り分けながら笑う。
「私の分も」
マーティアまでがそんなことを言う。
「駄目だよ。二人の分は大事だし」
「また近いうちに作ってください。五枚なんて言わずに、いっぱい。そのときに駄目だって言われても食べるから」
セイムは言いながら、パウンドケーキの端を薄く切ってこちらの口元に向けてくれる。何か言いかけた口がパウンドケーキでもう一度閉ざされて、うやむやのうちに二人の分のクッキーは保留のクッキーになった。
午後、クイン兄さま充てのクッキーは――騎士団隊舎に行くまでの自分のおやつとなりはてた。
そもそも、ほら。
クイン兄様の自宅はちょっと離れているし、どうしたって今日届けられないのだから。セイム達に作る時にまた改めて用意すればいいと思うんだよ。
そんなことを思いながら、ちぃ兄さまのクッキーも同じく自分の腹の中。ついでに途中でたちよった灰色狼のカムのおやつにもなった。
ちょっと喉が渇いてしまうけど、味は本当に悪くない。
このままでは他の分も食べてしまいそうだひやひやしているところで、ばったりと――一番であってはいけない人と顔を合わせてしまった。
「うわっ、殿下っ」
のけぞるように言ってしまったのは、相手が低木の影から背後を気にするようにざっと現れたからで、相手もこちらがいるとは思っていなかったのか「うわぁっ」とのけぞった。
「何しているんですか、リルシェイラ殿下」
いや、なにしているのかは判っている。
またしても脱走しているのに違いない。
今頃は第二王子殿下の子守部隊こと第二騎士団の方々が大騒ぎしていることだろう。いや、リルシェイラ殿下が抜け出したり逃げ出したりするのは毎度のことだから、大騒ぎなんてしていないかもしれないけれど。
第二騎士団のアラスター隊長が不憫だ。
その素敵な肉体美を思い出しつつアラスター隊長の不幸にむせびなけば、リルシェイラ殿下は肩をすくめた。
「アイギルじゃないか」
「アイギルじゃないですけどね」
何度か訂正はしているが、リルシェイラ殿下は気にしない。アイギルはあくまでも親戚のおばさんの嫁ぎ先の苗字であって、ただの偽名である。今となってはルディ・アイギルではないのだけれど、相変わらずこちらでは「ルディ・アイギル」が根強くて、だれもルディエラの本名を呼んでくれたりしないのだった。
「何? 何かもってる? 差し入れ?」
抱えているバスケットを目ざとく示し、瞳をきらきらと輝かせる。そう、なぜ一番あってはいけないかといえば、リルシェイラ殿下は菓子好きだから。今までも何度か菓子をからめてリルシェイラ殿下とはちょっと揉めたり揉めなかったりしている。
「……クッキーです」
「ありがとう!」
「もぉっ。殿下にもって来た訳じゃないですよっ」
「そんなこと言わないでよ。ぼく達友達じゃないか」
そう言いながら、実に悲しそうな眼差しを向けてくる。
その、麗しくも切なそうな表情にうっと呻いて、ふーとため息を吐き出した。
「一つだけですからね」
はい、あと四つ。
ベイゼル副長には絶対にあげるとして、あー、どうしよう。
クロレル副長にあげちゃうと必然的にフィルドさんにあげることになっちゃうし、でもそうすると残りは一つ。
アラスター隊長?
第三騎士団の方がずっとお世話になっているのにも関わらず、第二騎士団の人たちにばかりってどうなるさ。
あああ、駄目だコレ。
やっぱりもっと作るべきだったし、なんかちょっと面倒くさくなってきた。
自分で食べよう。
あっさりとそう結論を導き出し……それでもベイゼル副長にはせめてと思い、その足を厩の裏手に向けたら、当然のようにそこでベイゼルに遭遇した。
「またさぼってるし」
「さぼってねーし。っていうか、なに? おまえさんこそ何してるの?」
自称さぼっていない第二騎士団副長ベイゼルは、一番大きな楡の木に寄りかかってあふりとあくびを一つ。
どこからどう見てもさぼっているが、追及したところでいつも通りかわされるだけだろう。やれやれ、本当に困った人だなぁと思いつつ、バスケットの中からクッキーの入った袋を一つつまみ出した。
「はい、副長」
「おっ。これはアレか? バレンタインの」
「チョコクッキーですよ。お礼は三倍以上でお願いします」
きっちりとそこは念を押す。
言ってから、しまったと思い出した。
リルシェイラ殿下に「バレンタインの贈り物」だと言うのを忘れた! お返しの要求もし忘れたっ。
これでは来月ちっとも楽しみにできないっ。
ずーんっと落ち込んでいると、ベイゼルは包みを軽く振るようにして中の音を確かめると、微妙な――なんだか口元を引きつらせるような表情を浮かべて苦笑した。
「ありがとさん。ま、しゃーないな。お返しはそこそこ期待しときなさいな」
まったく期待できない相手であったというのに、意外な返答をもらってしまった。へへへっと笑って「じゃ、また来ますねー」とスキップ交じりにその場を離れると、その背を追うように「勉強しろよー」といやな台詞がおいかけてきた。
……途端になんだか微妙な気持ちになってしまった。
持ち込んだ残りの包みからクッキーを取り出し、さくさくと食べてすべての証拠隠滅を図ろうとしていると、ふいに背後からぐわしっと頭をわしづかみにされた。
少しも警戒していなかった為に本当に突然だ。
あまりのことにそのまま振りかぶって足蹴りしようとすれば、相手は思い切りとびすさる。
「おい」
怒りさえ含まれる声音に、思わず本日二度目の台詞を口にした。
「殿下!?」
そこにいたのは、第三王子殿下キリシュエータ――ルディエラに自らの剣を下賜した将来の主だ。
「危ないじゃないですか」
「危ないのはお前だ。いくら気配を殺して近づいたとはいっても、反射で攻撃してくるとは思わなかった」
攻撃するに決まっているじゃないか。
胸中でそんなことを思いはしても、もちろん相手に告げたりはしない。
クッキーの食べかけを片手に持ったままという間抜けな状態のまま、ルディエラは慌てて頭を下げた。
「すみませんでした」
「まぁいい。そんなことより、お前はいったいこんなところで何をしているんだ?」
そう、以前ならともかく。今はこんな場所をうろうろとしているのはあまりよろしくない。引きつった笑いで「ちょっと差し入れです」と肩をすくめた。
「差し入れ?」
「ほら、今日はバレンタインじゃないですか」
にっこりと笑って言えば、キリシュエータ殿下は軽く目を見張り、なぜか視線をさまよわせた。
「そう、そうだな」
「はい」
じゃあこれで、とぺこりと頭を下げれば――キリシュエータは平たんな表情で目を細めた。
「おい」
「はい?」
「それだけか?」
「それだけ?」
「……バレンタインで、差し入れに来たんだよな?」
「ああ。なんか配るの面倒くさくなっちゃって。結局自分で食べちゃいました」
未だ片手に掲げたままの半分になった食べかけのクッキーを手にはははと笑えば、キリシュエータは「はぁぁぁぁぁ」とわざとらしい程の長息を吐き出し「何しているんだお前は」とぼやいた。
「だって、誰にあげて誰にあげないとかってなると色々と面倒くさくなっちゃって。それに思いのほか美味しくできたから、自分で食べはじめたら止まらなくて」
もう一度空笑いではははといえば、キリシュエータはすっとルディエラの手首をつかみ、そのまま――ルディエラの手に残されたクッキーに唇を寄せた。
やわらかな唇が、ルディエラの指先ごとクッキーを口に含み、かしゅりとそれをかみ砕く。
そのわずかな振動と、濡れた舌先がルディエラの指先に触れた。
「確かに、うまいな」
「……」
クッキーの小さな欠片すら逃さぬように、ぺろりと自らの唇を舌先で舐めとって笑うキリシュエータの姿に、ルディエラは硬直した。
「え、と……あのっ」
「こんなところで油売ってないで、勉強しろよ? 結局はなんとか補欠で入れたようだが、お前、本当にぎりぎりだったんだからな。入隊式までもうちょっとがんばれ」
まるで何でもないことのように言われ、ルディエラは赤くなった自分を叱責し、かみつくように唇を尖らせた。
「判ってますってばっ」
――その日、上機嫌なキリシュエータであったが、リルシェイラがちゃっかりルディエラからクッキーを受け取った事実に「なんでだっ」と不機嫌になり、それ以上に完全に妹に無視されてしまったティナンはルディエラの形見まがいの三つ編みになっている髪を胸にむせび泣くのだった。