召喚してません!
窓から堂々とファウリーの私室に入り込んだレイシェンは、出窓からとんっと床におりたち、気安い口調で声をあげた。
「ファウリー、明日の――」
勉強机に向かっている子供は、べったりと机の天板になついていた。
「……まだ早い時間だっていうのに」
ぼやくと、レイシェンはやれやれと肩をすくめてファウリーの両脇に手を添えて抱き上げ、机とは反対側にある寝台の上に横たえた。
ベッドメイキングなどという言葉を知らない寝台には毛布が丸まって隅においやられているものだから、それを引っつかんでファウリーの上に掛けてやると、レイシェンは肩をすくめてファウリーの机に戻り、小さな椅子に腰を落としてその机を探り出した。
左側の引き出しの一番奥――
二重底になっている板がぱこんと外れた。
手探りで引っ張り出した一冊のノートにはお世辞にも綺麗とは言いがたい文字で「日記」と書かれている。
レイシェンは当然のようにそれを開き、肩肘をついて顎を乗せて無造作に読み始めた。
ファウリーが日記を書き始めたのは小学部に通うようになってからで、レイシェンがその日記の存在に気づいたのはファウリーが九つになった頃のことだ。
ノートはもうすでに三冊になっていて、一冊目は見逃してしまったのが残念でならない。
時折りファウリーの留守に探してはいるのだが、なかなか見つからないのが難点だ。
――どうしてレイシェンは意地悪なんだろう。昔はもっと優しかった気がするのに。
喉の奥がクッと音をさせてしまい、慌てて息を潜めた。
――レイシェンの馬鹿! いつかやっつける。
「相変わらず語彙が少ないなー」
笑いたいのは必死に堪えたが、思わず小さな声は漏れてしまっていた。
――今日もレイシェンに頭を叩かれた! 人を馬鹿って言うほうが馬鹿って知らないレイシェンが馬鹿だと思う。
「じゃあやっぱりファウリーも馬鹿じゃないか」
ぺらりとページをめくり、この二週間程の日記を楽しく拝読していると、ぴたりとレイシェンの手が止まった。
――カロウがもってきてくれた飴すんごく美味しかった。また一緒に遊びにいったらくれるかな。
「餌付けされてるんじゃないよ」
――今日はナーイと遊んだ。カウロも遊ぼうって言ったけど、ナーイ達女の子は男の子と遊ぶのは嫌がる。どうしてだろう。乱暴だって言うけど、カウロもマーカスも優しいのに。カロウはいつもお菓子くれるのに。
「ドニーの名前が無くなったのはいいけど、カロウは少し邪魔だなー……ファウリーは食べ物に弱いのはどうにかならないものかね」
やれやれ。
ぱたりと日記を閉ざし、レイシェンは二段目の引き出しの奥にもう一度日記を収めなおすと、寝台で毛布に抱きつくようにしているファウリーを見た。
つい先日十になったばかりのちびすけ。この辺りでは滅多に見ることもないさらさらとした黒髪と黒灰のような透明な瞳を持っている。
初めてレイシェンがファウリーを見た時、すでにファウリーは四つ程の年齢で、そして隣に暮らすパードルフが困った顔をしてその腕に抱っこして現れたのだ。
「すみません、ガードナーさん。お乳ってでます?」
……パードルフはちょっと変わった男だが、どうやら四歳くらいの子供はすでに乳離れをしているということも知らない様子だった。そして十四歳の少年の母親が乳などでないことも。
あげく常識知らずのパードルフはその子供を「ちょっと見といて下さい」と言ってその後半年近くもの間レイシェンの家に預けっぱなしにしたのだ。
ただしパードルフは召喚魔導師という職種の為にか金払いは良く、その時に皮袋一杯の金貨をおいていったものだから、むしろレイシェンの母親などは憤慨した。
「この子は今日からうちの子だよ!」
と、完全にパードルフを無視して言い放ち、レイシェンも数日もすればそのまま受け入れた。
「名前は?」
問いかけると黒い飴玉のような眼差しをまたたいて、不思議そうに「ふぁう」と言う。
「ファウ?」
「りー」
続いた言葉に「ファウリー?」と確認すれば、こくりとうなずく。
「とー、たまは? とーさま。かーさま?」
外国の子かと思ったが、言葉はきちんと通じるようでほっとした。
不安そうにパードルフを探しているようだったけれど、母は無視して身を屈め「ファウリー、あたしがママだよ。こっちはお兄ちゃんのレイシェン。パパはいつもは遠いとこで仕事しているが、丁度今日の夜は戻って来るよ。お腹はすいたかい?」
母の説明に不安そうに黒い瞳が揺れる。
「にー、ちゃ?」
とにかく、その日からファウリーはレイシェンの家族だった。
艶やかな黒髪の大人しい子供は、はじめのうちこそびくびくとしていたし、何かといえばレイシェンの足にはりついてはにかんでいた。
ものめずらしい姿も手伝って、町の人は遠巻きに見ていたけれどそのうちにファウリーの姿は町に馴染んでいった。
時々意地悪な子供がいてファウリーの髪や瞳の色を嘲るけれど、そうするとファウリーは決まってレイシェンに抱きついて「どうしてファウリーはお兄ちゃんと違う色? お兄ちゃんみたいな綺麗な色なら良かったのにっ」と潤んだ瞳でせつせつと語るのだ。
はじめてできた妹は、まるで壊れ物のように可愛くて仕方が無かった。
「いやぁっ! 久しぶりぃ」
いつものように外で一杯ファウリーを遊ばせて、疲れて眠った彼女を抱っこして自宅に戻ったあの日、満面の笑みで片手をあげて言ったパードルフを殴らなかったのは今も後悔している。
呆気に取られているレイシェンの腕からファウリーを取り上げ、眠っているファウリーの頬にチュッチュと音をさせて口付けたのだ。
ぶちりと血管が切れそうになった。
「寂しかったかい、ファウリー」とパードルフは陽気な口調で言ったが、たたき起こされたファウリーはむにゃむにゃと口を動かし、パードルフを見て「だぁれ?」と尋ね返した。
その時ほど胸がすっとしたことは無い。
パードルフは呆然としてファウリーを見つめ、わざとらしくふるふると首を振った。
「ま、まあいい。今日からは一緒に暮らせるからね! 父さんを説得して連れてきたから、日々の世話はおじいちゃんがしてくれるよ」
「冗談じゃありませんよ!」
母は怒鳴り声をあげ、ファウリーはびくんっと身をすくめた。
「ファウリーはうちの子ですっ」
「そんな訳ないですよ。ファウリーは俺のです――ちょっと預かっていてもらっただけじゃないですか」
不思議そうにパードルフは首をかしげ、ファウリーを抱いたまま歩き始めた。
「ファウリー、帰ったらおじーちゃんに挨拶するんだよ」
「なに? ねぇ、何……? ママっ、おにーちゃんっ、なんなの?」
泣き声をあげるファウリーに、レイシェンは慌てて手を伸ばした。小さな手がレイシェンの手にふれからみ、必死に救いを求めるというのに、パードルフはひょいっと容易くよけて肩をすくめた。
「ファウリーはうちの子だっ」
「レイシェン、ファウリーを可愛がってくれたんだね? ありがとう。でも我儘でおかしなことを言っちゃ駄目だよ」
――違う。おかしなことを言っているのはパードルフだ。
突然来て、傍若無人に子供を置いていった挙句に連れ去ろうとしている。
けれど結局、ファウリーは隣の家に連れ戻された。
養育権というヤツをパードルフは主張し、預けている間の費用もきちんと自分が出していたことを証明したのだ。
幸いなことにパードルフは引っ越したりしなかったから、ファウリーは毎日レイシェンの家を訪れたし、それまでと何も変わっていないかのようにも見えた。
でも、そんなのはまやかしだ。
以前のように一緒に起きたりしない。
共に食事をする回数も激減したし、お風呂にいれてやることもない。
なにより、父親が引き取るのは当然のことなのだとなんとか納得させようとしたのに、パードルフはおかしなことを言ったのだ。
「血のつながらない娘を援助するのはパパだからパパって呼んで」
――血が繋がっていないのにファウリーの所有権――イヤ、養育権を主張した意味が判らない。パードルフは父親ではないのだ。
レイシェンはパードルフが大嫌いになった。
大嫌いでありながら、他人には「尊敬している」と嘯く。当人には笑みを向ける。そうすることで自分の内にまったく別の感情を育て、隠し通していくのは難しいことだった。
突然ファウリーを連れ去られてはたまらない。
もともとパードルフなど隣の家にも暮らしているのかいないのか判らないようなん存在なのだ。警戒などされてファウリーを連れて行かれるくらいなら、いくらでも褒め称えてやる。
ファウリーはその記憶の中にレイシェンと暮らしていた半年あまりなどすでに留めてもいないし、パードルフのことを「ぱぱっ」と言って慕っている。
絶対にファウリーは馬鹿だ。
考えれば考える程腹がたってくる。
レイシェンは机の上の魔導石のランタンを消し、薄暗くなった部屋に浮かぶファウリーの白い寝顔に溜息を吐き出した。
「まったく馬鹿でしょうがない」
ファウリーが馬鹿なのは仕方ない。
帰る家を忘れてしまった愚かなファウリー。
あの時、手を離してしまったから帰ることができなくなってしまったファウリー。
でも、大丈夫。
「あと五年くらいかな。少し長いけど、五年たてばうちに帰れるよ」
だから、大丈夫。
レイシェンは小さく微笑を落とし、眠るファウリーの頭を一度撫でていつものように窓から軽やかに抜け出した。
***
本棚の上で飛びうさぎの格好でそれを眺めていた悪魔はかしかしと耳をかきながら「ぶっ」と鳴いた。
――人間っつうのはおかしなイキモノだよな。
起きている時は怒らせてばかりの癖に、寝ている時はまるきり違う行動をとる。
おかしいながらもこの「人間」てやつを眺めて二年。
悪魔はそれでも一つ気付いたことがある。
「ガキの日記見て喜んでる人間は人間としてまずくねぇ?」
残念なことに、悪魔は悪魔なのでそれ以前の問題でこの青年が色々まずそうなことにはまだ気付いていなかった。