表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

29/29

第二十八話

「この状況が、僕の術中なんだよ」


 黒泥人形が、カレンの前に立ちはだかる。


 大きな胴。


 太い腕。


 火属性魔力を弾く、土色の障壁。


 ノクスは最初から、カレンだけを相手にするつもりで準備していた。


 火属性の風紀委員長。


 真正面から戦えば厄介な相手。


 だから、他の出場者を退けた。


 だから、火にだけ強いゴーレムを用意した。


 そのことに、カレンはとっくに気づいていた。


「規則を守っていれば勝てるとでも思ったのかい?」


 ノクスの声が、演武場に響く。


「正義って、弱いんだな」


 その言葉を聞いた瞬間。


 カレンの表情が消えた。


 怒鳴らない。


 叫ばない。


 反論もしない。


 ただ、ノクスを見ていた。


 エルネは黒い本を抱えたまま、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


(先生)


『はい』


(何か、変)


『カレン・ヴァーミリオンの魔力反応が変化しています』


(変化?)


『外部放出量が低下。内部循環量が上昇』


(……それ、どういうこと?)


『不明です。ただし、危険な変化です』


 エルネは黒い本を抱きしめた。


 怖い。


 ノクスでも、黒泥人形でもない。


 これから何かしようとしているカレンが、怖かった。


 生徒会席では、セレスティア・ロウ・アステリアが目を細めていた。


「……あら」


 隣で、マルク・ペンドルトンが慌てて顔を上げる。


「会長?」


「珍しいものが見られそうね」


「何が始まるんです!?」


 セレスティアは演武場を見たまま、楽しそうに微笑んだ。


「風紀委員長の本性」


「本性!?」


 カレンは、手にしていた杖を見た。


 次の瞬間、それを床へ放った。


 からん、と乾いた音が響く。


 魔術師が、杖を捨てた。


 観客席がざわつく。


 ノクスが眉を上げた。


「おやおや。ギブアップかい?」


 カレンは答えない。


 制服の襟元へ手をかける。


 きっちり留められていた上着の留め具を、一つ外す。


 首元が緩む。


 袖口の留め具を外す。


 片方。


 もう片方。


 まくり上げた袖の下に、鍛え上げられ引き締まった腕が現れた。


 その腕の内側で、火属性魔力が脈打っている。


 カレンは両足を肩幅に開いた。


 背筋を伸ばす。


 目を閉じる。


 そして。


 スゥーーーーーーーーーーー……


 深く、息を吸った。


 次の瞬間、カレンの魔力が跳ね上がった。


 炎は外へ出ない。


 火球もない。


 火線もない。


 その代わり、火はカレンの内側を走った。


 腕へ。


 肩へ。


 背中へ。


 腰へ。


 脚へ。


 足裏へ。


 火が血のように巡り、骨の奥で爆ぜる。


 幻傷演武場の床に、赤い光が一瞬だけ走った。


 セレスティアが微笑む。


「始まるわよ」


 カレンが目を開いた。


 その瞳に、冷静な風紀委員長の色はほとんど残っていない。


 けれど、ただの暴走でもなかった。


 怒りに飲み込まれた目ではない。


 怒りを握った目だった。


 カレンの口元が、わずかに吊り上がる。


喧火上等ハードラック・ダンス


 その声は低かった。


 次の瞬間、カレンの姿が消えた。


 爆発音。


 いや、踏み込みだった。


 足裏で火が爆ぜ、床を蹴り、彼女の体を前へ撃ち出した。


 黒泥人形が反応する。


 太い腕を上げる。


 遅い。


 さっきまで壁のように見えた腕が、今はただの鈍い塊にしか見えない。


 カレンは、その内側へ踏み込んでいた。


 拳に炎はない。


 炎は外へ出ていない。


 火は、彼女の中で燃えている。


 右拳が、黒泥人形の胴を打った。


 火属性障壁が反応する。


 土色の光が浮かぶ。


 だが、遅い。


 それは炎を弾くための壁だ。


 火を防ぐための障壁だ。


 カレンの拳は、炎ではなかった。


 火で押し上げられた、ただの拳だった。


 どん、と。


 黒泥人形の巨体が、後ろへ滑った。


 観客席がどよめく。


 ノクスの笑みが、わずかに固まった。


「な……」


 生徒会席で、マルクが顔を引きつらせた。


「な、何ですか、あれは……身体強化ですか?」


「似ているけれど、もっと乱暴ね」


 セレスティアは楽しそうに言った。


「普通、肉体が持たないはずですが……」


「そうね。私もそう思う」


「思うんですか!?」


 セレスティアは涼しい顔で頷いた。


「理屈じゃないのよ、彼女は」


「風紀委員長ですよね!?」


「ええ。だから普段は、理屈で自分を縛っているの」


 黒泥人形が態勢を立て直そうとする。


「でも、ああなると止まらない。全てを殴り壊すまでは」


 カレンはもう次の踏み込みに入っていた。


 黒泥人形の腕が振るわれる。


 カレンは避けない。


 潜る。


 踏み込む。


 左足の裏で火が爆ぜた。


 床を蹴る力が、腰へ流れる。


 腰の回転が、背中を押す。


 背中の火が、肩を回す。


 高速の拳が、幾度と黒泥人形の脇腹を打った。


「オラオラオラオラオラオラァ!」


 泥の表面が波打つ。


 内側の鉱石片が、砕ける音を立てる。


「馬鹿な……!」


 ノクスが声を上げた。


「黒泥人形は火属性への耐性を――」


「ああ?」


 カレンが振り返る。


「耐性なんざ関係ねェんだよ」


 右肘。


 左拳。


 膝。


 蹴り。


 黒泥人形の巨体が、殴られるたびに揺れる。


 火は一度も、ゴーレムを焼いていない。


 それなのに、黒泥人形は壊れていく。


 火属性障壁は何度も反応する。


 だが、意味がない。


 炎を弾いても、拳は止まらない。


 火を滑らせても、膝は止まらない。


 火属性対策を積んだ黒泥人形は、火で強化されたカレンの打撃を受けるたび、少しずつ形を失っていった。


 エルネは呆然と見ていた。


(先生。カレン先輩、火を撃ってない)


『はい。火属性魔力を体外攻撃ではなく、身体強化に転用しています』


(そんなこと、できるの?)


『危険です。筋肉、関節、神経系への負荷が大きい。通常は推奨されません』


(じゃあ、なんで)


『それでも、今の状況では合理的です』


(合理的?)


『火が通らない相手に、火を通す必要がなくなりました』


 黒泥人形が、両腕を広げる。


 カレンを押し潰そうとする構え。


 ノクスが叫ぶ。


「潰せ!」


 黒泥人形の腕が、左右から迫る。


 カレンはその場で低く沈んだ。


 息を吐く。


 火が、足裏に集まる。


「ッすぞコラァ!」


 爆ぜた。


 カレンの体が、黒泥人形の懐へ跳ね上がる。


 肩からぶつかる。


 ただの体当たり。


 ただし、足裏の火。


 腰の回転。


 背中を巡る熱。


 全身を通った火属性魔力が、その一撃を砲撃のような衝撃に変えた。


 黒泥人形の胴体に、深い亀裂が走る。


 胸部の土色の魔法陣が明滅した。


「やめろ、離れろ!」


 ノクスの声が裏返る。


 カレンは離れなかった。


 右拳を引く。


 拳に炎はない。


 だが、その奥で火が唸っていた。


「ご自慢のお人形さん(ゴーレム)も、これでしめぇだなァ?」


 拳が撃ち込まれた。


 ばきん、と。


 黒泥人形の胸部にあった魔法陣が砕ける。


 黒い泥が形を失う。


 腕が崩れ、胴が割れ、足が床へ溶けるように沈む。


 黒泥人形ブラック・マッドは、火に焼かれたのではない。


 殴り壊された。


 演武場が静まり返る。


 ノクスは一歩、後ずさった。


 その顔に、初めて恐怖が浮かんでいた。


「ま、待て。試合は、もう――」


「もう?」


 カレンが首を鳴らした。


 ぱき、と小さな音がした。


 軽く腕を回す。


()()()()だろ?」


 ノクスが杖を構えようとする。


 だが、遅かった。


 カレンの姿がまた消える。


 足裏で火が爆ぜた。


 次の瞬間、彼女はノクスの目の前にいた。


「アタシの前で正義について謳ってくれたな?」


 凶悪な笑みがこぼれ、拳が握られる。


 ノクスの顔が引きつる。


「ま、待っ――」


「聞かねェ」


 炎は出ていない。


 ただ、その拳の奥で、火が唸っていた。


「筋を通せねぇ奴に、守る規則(ルール)はねぇよ」


 拳が、ノクスの顔面に叩き込まれた。


 幻傷結界が、強く光る。


 衝撃が白い輪となって広がった。


 ノクスの体が、軽々と吹き飛ぶ。


 演武場の床を越えた。


 境界線を越えた。


 幻傷演武場ミラージュ・アリーナの外縁まで一直線に飛び、結界壁へ叩きつけられる。


 ばしん、と鈍い音。


 ノクスはそのまま床へ落ちた。


 動かない。


 失神していた。


 失禁もしていた。


 数秒、誰も声を出せなかった。


 進行役の教師が、ようやく手元の制御盤を見た。


「場外、ならびに戦闘不能判定」


 さらに、少し間が空く。


「第五ブロック勝者、カレン・ヴァーミリオン!」


 歓声はすぐには上がらなかった。


 誰もが、今見たものを理解するのに時間がかかったからだ。


 火を撃たない火属性術師。


 火を己に巡らせ、火力を上げ、火に強いゴーレムを殴り壊した風紀委員長。


 カレン・ヴァーミリオンは、ノクスから目を切った。


 それから、ふっと息を吐く。


 肩に残っていた火が消えた。


 目の奥の荒い光も、少しだけ薄れる。


 カレンは乱れた襟元を直し、袖を戻した。


 床に転がっていた杖を拾う。


 そして、いつもの丁寧な声で言った。


「……失礼」


 静まり返った演武場に、その声が落ちる。


「少々、言葉が乱れました」


 観客席のどこかで、誰かが小さく呟いた。


「乱れたの、言葉だけか……?」


 その一言をきっかけに、幻傷演武場に大きなどよめきが広がった。


 エルネは黒い本を抱えたまま、ぽつりと呟く。


(先生)


『はい』


(風紀委員長って、何だっけ)


『再定義が必要かもしれません』


 生徒会席で、セレスティアが小さく笑った。


「ね?」


 マルクは頭を抱えていた。


「ね、じゃないんですよ、会長……」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ