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真白さんの趣味

 午後三時。


 西園寺家のリビングには、たいへん穏やかな空気が流れていた。


 窓から差し込む光はやわらかく、テーブルの上には淹れたての紅茶と、真白さんが焼いたらしい小さなクッキーが並んでいる。


 その向かいで、西園寺もち丸は、たいへん深刻そうな顔をしていた。


「真白さん」


「はい」


「真白さんの御趣味を教えてください」


 冷泉真白は、ティーポットを置いた手を止めた。


 美しい黒髪が、肩口でさらりと揺れる。


「急にどうされましたか」


「いえ。ご主人として、メイドさんのことをもっと知るべきだと思いまして」


「そのご立派な発想を、仕事にも向けていただけると助かります」


「仕事は逃げませんから」


「締切は逃げます」


「逃げ足が速いですね、締切」


「追う側の足が遅いだけです」


 真白さんは淡々と言って、もち丸の前にカップを置いた。


 カップの中で、琥珀色の紅茶が静かに揺れている。


 もち丸はそれを見つめながら、ふむ、と頷いた。


「なるほど。紅茶ですか」


「何がですか」


「真白さんの御趣味です。紅茶」


「違います」


「違うんですか。こんなにお上手なのに」


「仕事です」


「仕事でこの完成度……。では、掃除」


「仕事です」


「料理」


「仕事です」


「洗濯」


「仕事です」


「ご主人の健康管理」


「仕事です」


「ご主人の生態観察」


「趣味です」


「今、混ざりましたね」


「はい」


 真白さんは、何ひとつ表情を変えずに答えた。


 もち丸はカップを持ったまま固まった。


「真白さん。御趣味が、ご主人の生態観察なんですか」


「正確には、ご主人様がどのような理屈で仕事から逃げようとするのかを記録することです」


「学術的ですね」


「はい。日々、新発見があります」


「僕は未知の生物だったんですか」


「少なくとも、常識的な社会人の分類からは外れています」


「ひどい」


「褒めています」


「どこに褒める要素が」


「観察対象として飽きません」


「虫かごの中のカブトムシみたいな褒められ方」


 もち丸はしょんぼりと肩を落とした。


 真白さんはその様子を見て、少しだけ目を細める。


「ちなみに、昨日の記録です」


「記録があるんですか」


「はい。午後一時十三分。ご主人様は『仕事を始めるためには、まず仕事を始める気持ちを整える必要がある』と発言」


「名言ですね」


「午後一時二十一分。気持ちを整えるために、プリンを食べ始めました」


「糖分は脳に必要ですから」


「午後一時三十八分。糖分を摂取したことで眠気が来たため、仮眠を開始」


「脳を休ませることも必要です」


「午後四時五十二分。起床後、『今日はもう夕方だから、明日の朝から本気を出す』と宣言」


「未来志向ですね」


「午後五時十分。明日の朝に備えて、ゲームを開始」


「準備運動です」


「午後八時四十四分。ゲームで負けたため、『心が折れたので今日は休む』と業務終了」


「メンタルケアです」


「以上が、昨日のご主人様の生態です」


 真白さんは、すらすらと読み上げるように言った。


 もち丸は両手で顔を覆った。


「やめてください。自分の一日を客観視すると、思ったよりひどい」


「主観では問題ないと思っていたのですか」


「主観だと、もっとドラマチックでした」


「どのあたりが」


「苦悩する天才が、世界と戦っていました」


「実際には、締切と戦わずにプリンを食べていました」


「現実って残酷ですね」


「現実逃避をしている方が言うと、説得力があります」


 真白さんは紅茶をひと口飲んだ。


 その所作は相変わらず綺麗で、もち丸は思わずじっと見つめてしまう。


「真白さん」


「はい」


「趣味がご主人の観察ということは」


「はい」


「僕のこと、けっこう見ているんですね」


「仕事上、目を離すと危険ですので」


「危険物扱い」


「放置すると、仕事が自然消滅したような顔をなさるので」


「自然の摂理です」


「人工的な怠慢です」


 もち丸はぐぬぬ、と唸った。


 しかし、すぐに何かを思いついたように顔を上げる。


「でも真白さん」


「はい」


「それだけ僕を観察しているということは、僕への関心が高いということでは?」


「はい」


「はい?」


「関心は高いです」


 あまりにもあっさり肯定されて、もち丸は逆に固まった。


 真白さんは涼しい顔のまま続ける。


「ご主人様は、予測不能な行動を取られますから」


「真白さん、今の言い方だと、僕のことを珍獣として好きみたいですよ」


「珍しいことは否定しません」


「好きは?」


「管理対象としては大切にしています」


「愛情が書類棚にしまわれている」


「必要な時に取り出せます」


「今、取り出してください」


「勤務時間中です」


「勤務時間外なら?」


「勤務時間外に、ご主人様の管理はしたくありません」


「真白さんの御趣味なのに!」


「趣味と私生活は別です」


「趣味って私生活側じゃないんですか」


「ご主人様の場合、観察しないと被害が出ます」


「被害」


「主に、未処理の書類と、机の上の菓子くずです」


 もち丸は、そっと視線を逸らした。


 真白さんはそれを見逃さない。


「ちなみに、今日も袖口にクッキーの欠片が付いています」


「これは保存食です」


「袖で保存しないでください」


 真白さんはハンカチを取り出すと、もち丸の袖口をそっと払った。


 その仕草があまりに自然で、もち丸は急におとなしくなる。


「……真白さん」


「はい」


「もしかして、僕の面倒を見るの、嫌いじゃないんですか」


 真白さんの手が、ほんの少し止まった。


 窓の外で、風が庭木を揺らす。


 沈黙は短かった。


 けれどもち丸には、なぜか少し長く感じられた。


「嫌いでしたら、ここにはおりません」


 真白さんはそれだけ言って、またいつもの顔に戻った。


 もち丸は、ぱちぱちと瞬きをする。


 それから、にへら、と頬をゆるめた。


「真白さん」


「はい」


「今の、かなりデレでは?」


「業務上の説明です」


「いえ、デレです」


「違います」


「真白さんのデレを観測しました。これは僕の趣味記録に残します」


「ご主人様の趣味は何ですか」


「真白さんのデレ観察です」


「不許可です」


「趣味に許可制があるんですか」


「あります。今できました」


「横暴です」


「管理です」


 真白さんはそう言って、もち丸の前に書類の束を置いた。


 厚みのある、たいへん現実的な束だった。


 もち丸の顔から、すっと笑みが消える。


「真白さん」


「はい」


「これは何でしょうか」


「本日の仕事です」


「午後三時の穏やかなティータイムでは?」


「はい。紅茶を飲みながら進める仕事です」


「優雅な地獄」


「紅茶付きですので、比較的優雅です」


 もち丸は書類を見つめた。


 そして、ゆっくりと真白さんを見上げる。


「真白さん」


「はい」


「もし僕がこの仕事を終わらせたら、真白さんの本当の趣味を教えてくれますか」


 真白さんは少しだけ考えた。


 それから、静かに頷く。


「よろしいですよ」


「本当ですか」


「はい」


「約束ですよ」


「はい。終わりましたら」


 その言葉を聞いた瞬間、もち丸の目に小さな炎が灯った。


 彼はペンを握り、書類へ向かう。


「見ていてください、真白さん。僕はやる時はやる男です」


「知っています」


「え」


「やる時は、ですけれど」


「そこを強調しないで」


 それから一時間。


 珍しく、もち丸は逃げなかった。


 途中で三回ほど天井を見上げ、二回ほどクッキーに手を伸ばし、一回だけ「書類も寝かせると味が出るのでは」と言いかけたが、真白さんの視線で黙った。


 そして、ようやく最後の一枚に判を押す。


「終わりました!」


「確認します」


 真白さんは書類を手に取り、丁寧に目を通した。


 しばらくして、こくりと頷く。


「問題ありません。お疲れさまでした」


「では、真白さんの本当の御趣味を」


 もち丸は身を乗り出した。


 真白さんは、少しだけ視線を横へ向ける。


 そして、いつもよりほんの少し小さな声で言った。


「読書です」


「読書」


「はい」


「どんな本を読むんですか」


「料理、紅茶、家政、所作、庭園管理、礼法、それから……」


「それから?」


「少しだけ、小説を」


「小説!」


 もち丸の顔がぱっと明るくなる。


「意外です。真白さんも物語を読むんですね」


「私を何だと思っているのですか」


「完璧メイド型決戦兵器」


「失礼ですね」


「褒めています」


「褒め方が下手です」


 真白さんは淡々と言いながらも、少しだけ頬をそらした。


「で、どんな小説を読むんですか。恋愛ですか。冒険ですか。推理ですか」


「秘密です」


「ええー」


「趣味ですので」


「そこは教えてくださいよ」


「ご主人様が一週間、仕事から逃げなければ考えます」


「条件が重い」


「趣味とは、簡単に踏み込ませないものです」


 もち丸は腕を組み、真剣な顔で頷いた。


「なるほど。真白さんの御趣味は読書。そして、僕の観察」


「後者は研究です」


「研究対象として、僕はどうですか」


「手間がかかります」


「悪い評価」


「ですが」


 真白さんは、空になったカップを片づけながら言った。


「退屈はしません」


 もち丸は、また固まった。


 それから、じわじわと口元をゆるめる。


「真白さん」


「はい」


「それはかなり、デレでは?」


「研究結果です」


「真白さんの研究結果、甘いですね」


「では、明日は少し厳しめに観察します」


「すみませんでした」


 午後の光の中、真白さんは静かに紅茶を片づける。


 もち丸は終わった書類を前に、少しだけ誇らしげに胸を張った。


 真白さんの本棚にどんな小説が並んでいるのか。


 その秘密を知るためには、一週間、仕事から逃げないこと。


 もち丸にとって、それは山より高く、海より深い試練だった。


 けれど。


「真白さん」


「はい」


「僕、明日もがんばります」


「はい。期待しています」


「真白さんの期待、御褒美ですね」


「では、明日の分の書類も増やしておきます」


「期待が急に重い」


 こうして西園寺もち丸は、真白さんの趣味を少しだけ知った。


 そして真白さんは、今日もまた一つ、新しい記録を残す。


『ご主人様は、褒めると少しだけ働く』


 研究は、まだまだ続くらしい。

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