ご主人様、朝からしょうもないです
西園寺もち丸は、朝に弱い。
どれくらい弱いかというと、目覚まし時計を三つ並べ、スマートフォンのアラームを五分刻みに設定し、それでもなお布団の中で「これは夢の続きでは?」と現実そのものを疑いはじめるくらいには弱い。
その日も、もち丸は布団の中で丸まっていた。
名前に偽りなし、というべきか。掛け布団の中央にできた丸いふくらみは、もはや人間というより、冬眠に失敗した謎の生き物である。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の床を細く照らしている。
小鳥の声。
遠くを走る車の音。
そして、廊下から近づいてくる、規則正しい足音。
こん、こん、こん。
「もち丸様。朝でございます」
部屋の扉の向こうから、涼やかな声がした。
冷泉真白。
西園寺家に仕えるメイドである。
長い黒髪をきっちりまとめ、無駄のない所作で家事をこなし、常に落ち着き払った表情を崩さない。端的に言えば、クールビューティーなメイドさんだった。
端的に言わなければ、もち丸の語彙ではこうなる。
お顔がいい。
声がいい。
立っているだけで部屋の空気が整う。
人類が仕事をする理由の八割くらいは、真白さんに「お疲れ様です」と言われるために存在している。
なお、本人にそう伝えると、だいたい無表情で「そうですか。では働いてください」と返される。
「もち丸様」
扉の外で、真白の声がもう一度した。
「起きていらっしゃいますか」
布団の中から、もぞり、と声が返る。
「起きてます」
「では、扉を開けても?」
「心の準備がまだです」
「朝食の準備はできています」
「胃の準備もまだです」
「本日の予定は九時からオンライン会議です」
「社会の準備がまだです」
数秒の沈黙。
扉の向こうで、真白が小さく息を吐いた気配がした。
「では、社会のほうに少々お待ちいただきましょうか」
「できるの?」
「できません」
「ですよね」
扉が静かに開いた。
入ってきた真白は、今日も完璧だった。
白と黒のクラシカルなメイド服。余計な装飾は少ないが、清潔感と品がある。背筋はまっすぐで、表情は涼しい。朝の光を受けた横顔は、まるで絵画のようだった。
もち丸は布団から顔だけを出した。
丸い顔に、寝癖がぴょこんと立っている。
真白はベッドの横に立ち、手に持ったトレイをサイドテーブルへ置いた。そこには水の入ったグラスと、白い小皿に乗った一粒の梅干しがある。
「本日の起床補助でございます」
「梅干し?」
「はい。酸味によって覚醒を促します」
「もっと優しい起こし方はないんですか」
「ございます」
「おお」
「起きてください、と優しく申し上げる方法です」
「それはもうやったよね」
「はい。効果がありませんでした」
真白は淡々と言って、小皿をもち丸の顔の前に差し出した。
「さあ」
「真白さん、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんでしょう」
「人はなぜ朝に起きなければならないのでしょう」
「夜に寝たからでは?」
「哲学を一撃で終わらせないで」
もち丸はしばらく梅干しを見つめた。
梅干しもまた、もち丸を見つめ返している気がした。
赤く、しわしわで、小さい。
朝の世界に対する覚悟そのものみたいな見た目をしている。
「真白さん」
「はい」
「これを食べたら、僕は本当に起きてしまうのでは?」
「それが目的です」
「でも、起きた先にあるのは仕事ですよ」
「そうですね」
「仕事ですよ?」
「二回言っても変わりません」
もち丸は布団を少しだけ持ち上げた。
「真白さんも入ります?」
「入りません」
「即答」
「当然です」
「布団、あったかいですよ」
「存じております」
「おお、経験者の発言」
「毎朝、もち丸様を回収しておりますので」
「僕は洗濯物かなにか?」
「洗濯物は起こさなくても乾きます」
「僕のほうが手間がかかるってこと?」
「はい」
「はいって言われた」
真白は小皿を置き、水のグラスを手に取った。
「まずは水をどうぞ」
「真白さんが飲ませてくれるなら」
「甘えないでください」
「甘えたい年頃なんです」
「二十代後半は年頃ではなく、習慣です」
「言葉のナイフが鋭い」
もち丸は渋々、布団から右手を出した。
グラスを受け取り、一口飲む。
冷たい水が喉を通って、ようやく意識が現実に戻りはじめた。
「……生き返った」
「おはようございます」
「おはようございます、真白さん」
「はい」
「今日もお顔がいいですね」
「ありがとうございます。では、起きてください」
「お顔がいい人に仕事を促されると、仕事って尊いんですね」
「現実逃避の語彙だけは豊富ですね」
真白はカーテンを開けた。
朝日が一気に部屋へ入ってくる。
もち丸は「まぶしっ」と言って布団にもぐった。
「もち丸様」
「太陽が強すぎる」
「相手は恒星ですので」
「勝てない」
「勝たなくて結構です。起きてください」
「太陽に負けた男として、今日は休んでもいいですか」
「休む理由が壮大すぎます」
真白はベッドの足元へ回り、掛け布団の端をつまんだ。
もち丸の目が泳ぐ。
「真白さん?」
「最終手段です」
「話し合いで解決しませんか」
「しました」
「してないよ。僕、まだ議題を提出してない」
「議題は却下されました」
「早い」
次の瞬間、掛け布団がふわりと持ち上がった。
「ああああああ!」
もち丸はベッドの上で丸くなった。
布団という城壁を失った彼は、朝の外気にさらされる哀れなもちである。
「寒い! 世界が冷たい!」
「五月です」
「心の季節は真冬です!」
「では心に上着を着せてください」
「詩的に厳しい!」
真白は畳んだ布団を手早く整え、ベッドの端に座り込んだもち丸を見下ろした。
もち丸はパジャマ姿のまま、ぼんやりと真白を見上げる。
「真白さん」
「はい」
「朝からお綺麗ですね」
「その褒め言葉で二度寝の許可は出ません」
「ばれている」
「毎朝のことですので」
「でも、毎朝お綺麗なのも事実ですよね」
真白の手が一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
表情は変わらない。声も変わらない。
けれど、もち丸にはわかった。
真白さんは、褒められると少しだけ処理が遅くなる。
それは発見だった。
西園寺もち丸、人生における数少ない重大な研究成果である。
「……ありがとうございます」
「いま、ちょっと照れました?」
「照れておりません」
「でも間がありました」
「呼吸です」
「呼吸なら仕方ない」
「はい。仕方ありません」
真白は平然とそう言って、クローゼットから着替えを取り出した。
「本日は白いシャツと紺のジャケットでよろしいですか」
「真白さんが選んだなら、それで」
「会議ですので、上半身だけ整えれば画面上は問題ありません」
「下はパジャマでも?」
「品性の問題があります」
「画面に映らない品性とは」
「見えないところでこそ、人の品格は問われます」
「名言っぽい」
「なので着替えてください」
「急に現実」
もち丸はのろのろと立ち上がった。
丸い体型のわりに、妙に素直な動きだった。文句は多いが、真白の言うことは最終的に聞く。それが西園寺もち丸という男である。
真白は部屋を出るため、扉のほうへ向かった。
「五分後に朝食でございます」
「真白さん」
「はい」
「五分で人は社会人になれるんでしょうか」
「なれます」
「断言」
「なっていただきます」
「強制進化だ」
真白は扉の前で振り返った。
朝の光を背にした姿は、やはり美しかった。冷たそうで、けれどどこか優しい。完璧に見えるのに、ほんの少しだけ人間らしい間がある。
もち丸は、そういう真白が好きだった。
もちろん、本人に真面目に言う勇気はない。
だから今日も、しょうもない言葉に変換する。
「真白さん」
「今度はなんですか」
「僕、今日も真白さんのおかげで起きられました」
「それは何よりです」
「つまり真白さんは、僕にとって朝日ですね」
「先ほど太陽に負けたとおっしゃっていましたが」
「真白さんなら負けてもいいかなって」
「では、敗者らしく速やかに着替えてください」
「はい」
扉が閉まる。
部屋にひとり残されたもち丸は、シャツを手に取った。
窓の外はよく晴れている。
仕事はある。
会議もある。
やらなければならないことは、山ほどある。
けれど、朝食の席には真白がいて、きっとまた淡々とした声で「こぼさないでください」と言うのだろう。
それだけで、まあ、今日も起きてやってもいいかと思える。
もち丸は着替えながら、小さくつぶやいた。
「……真白さん、今日も顔がいいなあ」
その声が聞こえたわけでもないだろうに。
廊下の向こうから、真白の声が飛んできた。
「聞こえています」
「地獄耳!」
「五分後です」
「はい!」
西園寺もち丸と、冷泉真白。
クールビューティーなメイドさんと、しょうもないご主人様。
今日も二人の一日は、だいたいこんな感じで始まる。




