その伍―桜の約束―
衣笠龍二――彼に秘められた過去とは?
「――痛ッ!!」
右目に突き刺さるような激痛が走る。
握っていた竹刀が手から滑り落ちた。右目を押さえ倒れ込む僕を、硬い地面が迎える。
奥の方から失念の篭った溜息。
誰なのかは確認せずとも分かっている。
激痛に目が上手く開かない。思わず涙が零れそうになるが、ぐっと堪えた。
ここで泣いたら、本当に負けを認めることになるからだ。
「ふっ……」
頭上から失笑の声。
ぼやける視界の先で捉えたものは、そんな僕を見下ろす"兄"の姿だった。
「全く、勝負にもならんな」
再び奥から聞こえてくる低音。"あの人"の声だ。
「行くぞ、龍一」
その声に兄はすぐさま背を向け、歩き出していく。
悔しい。このまま行かせてたまるか。
僕は上体だけ起こすと、その背中に向かって叫んだ。
「兄上!! 目を狙うとは卑怯です!」
その言葉に、ぴたりと歩みを止める兄。そして振り返ると、僕の傍まで寄ってきた。
「弱い奴ほど、そうやって醜く言い訳するものだ」
そう言って僕を見下す冷ややかな目。
「勝つ事が全てだ。どんな手段を使ってでもな……」
僕の首元に竹刀を近づける。
「いいか。今、これが真剣だったならば、お前は確実に死んでいる」
兄の言葉に何も言い返せない自分がもどかしい。
「敗者には救いさえもない……」
「龍一! 何をしている! 負け犬に構っている時間などないぞ!」
再び奥から苛立ちの篭った低音が響いた。
「はい、父上……」
兄は返事をすると、今度こそ踵を返し立ち去って行く。
僕はそんな父と兄の背中を見送ることしか出来なかった。
***
僕の故郷「龍雲院」は、「市原虎の尾」を初めとする国内に複数ある侍国家の一つだ。その中でも此処は、他所とは一切の交流を受け付けない、言わば鎖国状態にあった。
そして、この故郷がやっている事といえば、身内での熾烈な地位争いだった。まさに"井の中の蛙"といえる。
その中でも僕の一族である衣笠家は、上位に君臨する名の知れた武家だった。
先祖より代々築き上げてきた誇りと地位を守り続け、父の代まで受け継がれてきたのだ。
僕はそんな父の二番目の男児として誕生した。
厳格な父は侍として剣術や学問を幼き頃から僕と、二つ歳の離れた兄に教育していた。
しかし剣術も学問も兄は飛び抜けて優秀で、僕はそんな兄といつも比べられていた。
父の修行は厳しく出来の悪い僕は、いつもこっぴどく叱られていた。
「お前の年の頃には、龍一は出来ていたのに、お前は何故駄目なんだ!」
それが父の口癖だった。
修行に耐えきれずに僕が泣こうものなら、すぐさま父の拳が飛んでくる。
「男が泣くんじゃない!!」
父の前では泣くことも弱音を吐くことも許されなかったのだ。
幼き頃よりそう教育されてきた僕は、いつしか感情を抑えながら生きていくようになっていた。
だがそんな僕にもただ一つだけ、心の拠り所があったのだ。
***
修行を終えて裏庭の井戸で顔を洗った後も、僕は必死に泣くまいと目を擦り続けていた。
「龍二」
包み込まれるような優しい声。
すぐに誰だか気付いた僕は、声のした方を振り向いた。
「母上!」
縁側に腰掛け優しい眼差しを向けている母の姿。
すぐさま僕は母の元へ駆け寄り、その腕の中に飛び込もうとした。が、その手前で急に立ち止まる。
今、母のその大きな腹の中には、新しい命が宿っているのだった。
甘えたいが、行ってもいいのだろうか?
迷い佇んでいる僕を、母がそっと手招きした。
僕は母の隣に並んで腰掛ける。僕の頭を母の手が優しく撫でた。
もしも僕が犬ならば、はち切れんばかりに尻尾を振っていただろう。それ程までに嬉しかったのである。
「お父さんには秘密よ」
そう言って人差し指を唇に当て、悪戯な笑みを浮かべる母。
何せ「甘えは許さん」が口癖の父のことだ。見つかればこっぴどく叱られるに違いない。
それでも今はそんなことは気にもならない程、心が満たされていた。
「龍二。修行は辛い?」
「……うん」
周りに父や兄の姿がないのを確認して、僕はそっと頷く。
「お父さんは、どうしても貴方と龍一を比べてしまう節があるようだけど……」
母は若干困ったように微笑むと、僕の顔を見て言った。
「けれども、龍一と貴方は違う。貴方は貴方よ」
母の口調は優しい。だがその言葉には力があった。
「龍二。貴方は貴方らしく、生きていけばいいのよ……」
母の言葉は、僕を地獄の底から救い上げてくれる蜘蛛の糸のようだった。
「あっ……これも、お父さんには秘密よ……?」
またも人差し指を当て微笑む母。
二人だけの秘密。それが何だか嬉しくもあった。
その時、冷たくなってきた風が吹き抜けて庭の樹が揺れる。もうすっかり秋の風だ。
この庭の樹。今は葉も全て落ちて殺風景な姿を晒しているが、春になるとそれは美しい満開の桜の花を咲かせるのだった。
しばらく庭の樹を見つめていた母が、不意に口を開く。
「龍二……来年の春になったら、また此処で一緒に桜を見ましょうね」
「うん」
僕は宙に浮かぶ足を前後に動かしながら、こくんと頷く。
「お父さん、龍一、龍二、私。そして、ここに居るお腹の子の五人で……」
「あ、うん……」
一瞬表情が曇る。正直母と二人で見たかった。それに父や兄と一緒に居るのは気が進まなかったのだ。
そんな様子に、母が僕の顔をそっと覗き込んで優しく言った。
「龍二? お母さんにとってはね、お父さんと龍一。そして貴方とお腹の子。皆大切な家族なの……だから、約束してくれるかな?」
「うん!」
今度ははっきりと大きな声で頷いた。例え二人きりでなくても、母と一緒ならば、何でも良かったのだ。
それを見た母は、花が咲いたように満面の笑みを浮かべる。
僕が一番大好きな、母の表情だった。そしてどうやら、僕の笑顔は母とよく似ているらしかった。
僕も同じように、ニカッと笑うと右手の小指を上げて言った。
「約束だよ!」
「約束ね」
母の細くて白い綺麗な小指が、僕の小指に絡ませてきた。
そして固く小指と小指を結び合ったのだった。
***
唯一の心の救い。それが母だった。
しかし、身体の弱かった母は床に伏していることが多く、特に半年前より腹に子を宿してからは、その期間が多くなった。
母が床に伏している間は、極力接することを禁じられていた。
なのでたまに体調の良い日に、縁側に出て外の風に当たっている母を見ると、僕はすぐさま駆け寄っていくのだった。
落ち込んでいる僕を、母はいつも優しく受け止めてくれた。
母に優しく頭を撫でられると、どんなに辛い時も僕の心は満たされていった。
だからどんなに厳しい修行だろうと、乗り越えていけたのだ。
***
秋は逃げるように過ぎていき、代わりに冬を連れてきた。
そして年が明けて、まもなくのことだ。忘れもしないあの日がやって来たのだった。
何十時間にも渡って聞こえてくるのは母の苦しむ声。
それは思わず耳を塞ぎたくなる程に悲痛なものだった。
母の部屋からは助産師や女の使用人達が、忙しなく出入りしている。
僕はそんな中、別室でただ待ち続けることしか出来なかった。
同じ部屋にいる父は先程から腕を組み微動だにしない。
兄に至ってはこの状況に一切動じることなく本など開いている。
母が苦しんでいる時に、この人達はなんと冷酷なものかと思った程だ。
僕は膝の上の拳を握り締め、母のいる部屋をじっと見つめた。
そして母の叫び声が止んだ――代わりに聞こえてきたのは、けたたましく泣き叫ぶ赤子の声だった。
(――!?)
考えるよりも先に、体が勝手に動いていた。
僕は使用人達が止めるのも構わず、母の部屋へ飛び込んで行った。
「――母上!!」
以前にも増して衰弱している様子の母。大きかったお腹は萎んでいて、代わりにその腕に抱かれているものは、必死に自分の存在を知らしめるかのように泣いている。
僕はゆっくり母の元へ近寄って跪くと、その腕の中の赤子を見た。
「妹よ……」
「妹……」
母は弱々しく微笑むと、ゆっくりと赤子を渡してきた。僕は震える手で赤子を受け取る。
「ちっちゃいな……」
不意に言葉が零れた。
それは顔中をくしゃくしゃにさせながら必死に声を上げていた。
ちょっとしたことでも壊れてしまいそうな小さな身体で、しっかりと生きていた。
なんと言えばいいか分からずに、じっと赤子を見つめながら抱く僕の手に、母の右手が包み込むようにそっと触れる。
「龍二……この子を……守ってあげてね……」
弱々しい声。それでも僕の耳にははっきりと届いた。
僕は返事を返そうと母を見た――しかし、その前に僕の腕に抱かれていた赤子がふっと取り上げられたのだ。
「女か……"今度こそ"よくやったな……」
振り向けば背後には、父が赤子を抱いて立っていたのだった。
だが、いつも不機嫌そうな仏頂面ではなく、何処か穏やかな表情をしている。父のそんな表情を見たのは初めてだった。
「…………旦那様……どうか……子供達のこと……よろしく……頼みますね……」
母は父を見つめながら力なく呟いた。
――その直後、僕の手を包み込んでいた母の手が力なく落ちた。
「おい! どうした!? 大丈夫か! おい!」
慌てて母の元へ駆け寄る父。
赤子の泣き声に混ざり、辺りは騒然となる。
突然のことに頭の整理が追いつかない僕。それでも目の前の母にしがみついて必死に叫んだ。
「母上? 母上! 母上!! 母上ー!!」
***
それ以来、母は眠っていることが多くなった。
たまに目覚めても激しく咳込むだけで、その苦しさに耐えきれずにまた意識を失う。そんなことが何日も繰り返された。
襖越しに聞こえるヒューヒューと苦しげな呼吸と咳込む声を、僕はただ聞いていることしか出来ない。すぐ手の届く場所にいるのに何も出来ない。己の非力さを思い知らされた。
父と医者、そして一部の使用人以外は母の部屋に入ることは禁じられている。母に極力負担をかけさせない為だ。
それでも僕は毎日のように襖の前で見守り続けていた。
母からの応答はない。
それでもいい。襖越しだろうが、少しでも母のそばにいたかった。
そんなある日のことだった――
「龍二……そこに……いるの……?」
いつものように母の部屋の前に立っていると、襖越しに途切れ途切れ聞こえる母の声。
「母上!?」
僕は言いつけも忘れて襖を開けると、母の元へ駆け寄った。
「母上! 僕は、僕はここにいます!」
そう言って母の手をしっかりと握り締める。
話すことも食べることもままならなかった母の手は細く、骨と皮だけになっていた。
母はゆっくりと目を開けた。
その目は虚ろで焦点が定まっていない。
それでも絞り出すように唇を震わせた。
「龍二……しっ……かり…………強く……生きて…………」
そして静かに目を閉じた。
まるで蝋燭の灯が消えるように。
上下していた胸の鼓動がぴたりと止んだ。
「――母上ェェ!!」
僕は母にしがみついた。
その声に飛び込んできた使用人達に、僕はすぐさま母と引き離された。
それでも使用人の腕の中でもがきながら必死に母の名を呼び続けた。
だけど非力な僕は抵抗する術もなく、部屋を出されたのだった。
***
安らかな母の寝顔。
血の気を失った肌を除けば、ただ眠っているだけに見える。
僕はそんな母の顔をただじっと見つめていた。見つめ続けた。
呼びかければ今にも、いつも見せる優しい眼差しで微笑んでくれそうだった――
母の通夜も葬式も、ただ情景が流れていくだけのように感じた。
まるで僕だけ時間が止まったかのように。
涙は一度も流さなかった。
父の手前ということもあったが、何よりこれが現実だということを理解出来なかったのだ。
まるでずっと悪夢の中にいるかのように。
僕は終始俯いたままだった。両膝に置いた握り拳は僅かに震えていた――
忌明け後、周りは元の日常へと戻っていった。
だけど僕の時間はあの日で止まっている。まるで凍てついた氷のように。
寝て覚めて、食物を口に運び、ただ機械的に体を動かす。
感情などそこには存在せず、生きた屍のような日々を過ごしていた――
永遠にも感じられた長い冬はいつの間にか過ぎ去っていき、暖かい春の風を運んできた。
その日は兄の八つの祝儀。父は兄と妹を連れて神社へと出掛けて行った。
当然、兄の祝いなどに興味のない僕は居残りだった。
何をする訳でもなく、ただ一人で屋敷内を徘徊している内に、母の部屋の前に来ていた。
未だにこの部屋の奥では、母が眠っているように感じられた。
その時、僕は不意に庭へと目を向けた。
何度も母と腰掛けた縁側――
だが僕が見ていたのは、その先にある樹だ。
何を思ってか僕はその樹に向かって、ゆっくりと歩いて行った。
それは風に煽られて、ひらひらと花びらの雨を降らせている。満開の桜の樹だった。
そう。あの日、母と約束した桜の樹――
僕は樹の前に立つと見上げた。
それはとても美しかった。美しくて悲しかった。
その時、僕の時間が動き始めた――
そうだ。本当はわかっているんだ。
母はもうこの世に居ない。もう二度と会えないんだ。
「なんで……どうして……どうして……」
どうして母は、今この場に居ないのだろう。
あの時、父と兄と居ることを拒んだから?
だったら、父と兄と一緒でもいい。母の言う通り五人でもいいから。
だから、だから、お願いだから、帰ってきてよ。
どうして、どうして、どうして。どうして僕を置いて行ったの?
あの時言ったのに。約束したのに――
「約束したじゃないかーッ!!」
思わず桜の樹に向かって叫んでいた。
「 母上のッ、母上の嘘つき!!」
叫びながら、今まで押さえ込んでいた感情が爆発したように、嗚咽が漏れる。
その時僕の頭の中で、母の優しい声が響いた。
『泣いてもいいのよ。疲れ果てて眠ってしまうくらい、泣きなさい……』
そう言って母は腕の中で、好きなだけ泣かせてくれた。
父や兄の前では一切涙を見せなかった僕が、ただ唯一泣ける場所。
そうだ。母の前だけは泣いてもいいんだ。
そして此処は、母と過ごした場所。
母が大好きだった場所だから。
――だから、もう我慢しなくてもいいよね?
「うわぁぁあああん!!」
泣いた。泣き続けた。
何度拭っても涙は滝のように、とめどなく溢れ出てくる。
僕は声を上げて泣き続けた。
風に煽られてひらひらと舞い散る桜の花びら。それはまるで母の涙のように。
ただただ美しかった。
龍二が六つの時だった――
最愛の母を失った龍二。
ここから龍二の人生は大きく変わっていくのだった――




