背中。
「――へっくしょん!!」
健二郎のくしゃみが盛大に、大海原に響き渡る。
過ぎゆく季節は真冬。
肌を突き刺すような寒風が、健二郎を襲っていた。
「海沿いは冷えるな〜」
特に海沿いは、一段にもまして風が強いのだ。
健二郎は凍える身体を擦りながらも、釣りに没頭するのであった。
そんなさなか、しばらく経つと、
(ん? なんや急に背中が温かいな……?)
ふと気になった健二郎が振り返ると、その背に持たれながら書物を読み耽る望月恭徳の姿があった。
「おっ! なんや! どないしたん?」
「ちょっと疲れたんで休憩です」
恭徳がその書物から目も上げずに答えた。
「おいおい、勝手に俺を休憩所代わりにすな!」
「まあ、いいじゃないですか。別に減るもんじゃないし」
相変わらずの生意気さ。
健二郎は文句を言おうとしたが、時間の無駄だと思い止めることにした。
(それに何だかんだ居てもらった方が、背中は温いしな)
健二郎はうんうん。と一人で納得すると、再び釣りに没頭し始めたのだった。
***
「ふわぁ〜」
中々、当たりが来ない健二郎は大きな欠伸をした。
背中では、相変わらず読書に没頭する恭徳。
健二郎は竿から目を離すと、背中の恭徳に目を向けた。
柔らかそうな恭徳の髪が風でなびく。
すると健二郎は、恭徳の頭に手を伸ばすと、わしゃわしゃと撫で始めた。
「ん? 何ですか? 急に」
ようやく恭徳が書物から目を上げると、少し迷惑そうに健二郎を見た。
「んー、なんか癖やな〜、俺ずっとちび達にこうしてたけん」
「健二郎さん家って、何人家族でしたけ?」
「おとんとおかん。そんで兄貴の四人家族や」
「…………健二郎さんが一番、下じゃないですか」
(何を言っているのだろうこの人は)
そんなしらっとした目で健二郎を見つめる恭徳。
「せやけど、従兄弟がぎょうさんおってな〜、上に八人と下に餓鬼が十二人。俺と兄貴含めたら……全員で二十二人やな!」
「二十二人も!? 凄い大家族ですね」
予想外の数に、驚きで目を丸くする恭徳。
「しかも全員、男兄弟なんよ! 一番下の餓鬼なんかは、まだやっとこさ歩き始めたばかりでな〜」
「だから健二郎さん、面倒見が良いんですね」
「おう、まあな! 特に真ん中の餓鬼共なんかは、お前みたいに生意気な奴らばかりや」
「一言余計ですね」
***
会話も途切れ、再び沈黙が続く。
その時、グゥ〜グゥ〜と健二郎のお腹が空腹を訴え出した。
「あぁ〜、腹減ったなぁ……」
「あ、何か食べます?」
そう言って恭徳は防寒着の袖の下から、笹に包まれた謎の物体を取り出した。
「なんや……それ?」
「おにぎりです」
それはまるで煎餅の如く、ぺしゃんこに潰れたおにぎりだった――
「おい。それ……いつのや?」
「さあ、でも匂いを嗅いだ限りでは、まだ大丈夫だと思いますよ」
子犬のように可愛い顔をした恭徳だが、実は三代目一の大雑把なのである。
「俺は遠慮しとくわ……」
「そうですか」
そう言って再び、袖の下に戻す。
(戻すんかい……!!)
健二郎は心の中でツッコミを入れるのだった。
***
「ところで、さっきから何読んどるのや?」
健二郎は先程から恭徳が没頭している書物が気になるようだった。
「"Unfair World"です」
「アン……フェ……? なんやそれ?」
よくよく見たら、それは異国の文字がずらりと書き記してある書物だった。
「"アンフェアワールド"。物語ですね。天から見守る七人の神々が、闇から抜け出そうとする三人の女性を救い出そうとするのです。ですが、その内の一人は残念ながら――」
「ああ、もうええわ。難しい話は、よー分からん」
説明する恭徳の言葉を遮り、興味を失くしたように再び竿に目を向ける健二郎。
「今、どこも難しい所なんて、なかったですけど」
そんな健二郎に恭徳は失笑した。
「そんなことはええねん。そげん事より、なんで異国の書物なんか読めるんや?」
健二郎が最も気になっていた疑問を投げかけた。
「ああ、これは父の影響です。父は昔、異国に留学したことがあるらしく、僕も幼き頃から兄姉と共に、教育されてきました」
そこで健二郎は再び竿から目を離すと、恭徳の顔をじっと見つめて言った。
「もしかして今更やけど、お前んとこって、金持ちか?」
「金持ちかは知りませんが、暮らしぶりに不自由はなかったですね」
「ああ、お坊っちゃん育ちっちゅうわけやな。通りで生意気――」
「何ですか?」
「いや、何でも」
恭徳の顔を見て、思わず口を噤んだ健二郎であった。
「ですが、そんな父だったからこそ、世間の過酷さは誰よりも知っていた。だからこそ、僕が侍になることも強く反対したんだと思います」
恭徳はそう言いながら腰の刀、「暁」に触れた。
「だけど、今ではそんな両親に感謝しています」
そう言う恭徳の表情は、故郷の家族の顔を思い浮かべているかのようであった。
そんな恭徳の横顔は一枚の絵になりそうな美しさであった。
「そんで、どないなるのや?」
「えっ?」
「その物語。最後はどないなるのや?」
そんな恭徳の横顔を見ていた健二郎が、唐突にそんなことを聞いてきたのだった。
(さっきは興味をなくしていたのに)
少々怪訝に思いながらも、恭徳は説明し始めた。
「結果、生き別れた二人の姉妹は助かって、森の中で再会を果たします。二人は再び生きる希望を見つけることが出来たのです。そんな感じですね」
「ええ話やな。で、お前は?」
「えっ?」
またも唐突な質問に戸惑う恭徳。
「お前は夢を叶えられたんか?」
「ええ、勿論。三代目侍として、今、こうして――」
その時突然、健二郎が立ち上がった為、ゴロンと恭徳は思わず体勢を崩し倒れ込んでしまった。
しかし、健二郎はそんな恭徳を見下ろして怒鳴りつけた。
「ちゃうやろ! お前の夢はもっとその先にある筈や!! ほんとは朱雀になりたいんちゃうか?」
「それは……そうですけど……」
元々恭徳は朱雀に憧れて侍を目指したのだ。
勿論、その夢は今でも変わってはいなかった。それでも、
「ですが……朱雀は侍の中でも、強豪と呼ばれる地位の方々が集う最強の侍一味です。そんな所に僕なんかが……僕は三代目侍に入れただけでも奇跡です……」
自信なさげに言う恭徳に対して、健二郎が言った。
「なんや。やってみもせんで、諦めるんか? "お前の覚悟はそんなもんやったんか?"」
その時、健二郎の言葉があの日の父と重なった――
『お前の覚悟はそんなものだったのか?』
三代目侍に入る決心が付かずに逃げ出したあの日も、父から言われたのだった。
(そうか。三代目侍に入ってから少しいい気になっていたけど……あの日から僕は何一つ進歩していないじゃないか)
恭徳は立ち上がると、健二郎の目を見て強く言った。
「健二郎さん。ありがとうございます! お陰で僕、目が覚めました! 朱雀になるという夢。この先もずっと諦めません!」
「おう。そうか」
健二郎はふっと口端を上げた。
「せやけど、こんな事言った後に言うのも何やけどな。もし朱雀に入ったとしても――」
健二郎が恭徳の肩にぽんと手を置くと、
「ずっと、俺のそばにおってや」
(――!?)
「いや! そういう意味じゃなくて、此処は冷えるからな!お前がおったら温くて丁度ええねん! 」
「ふーん」
慌てて誤魔化す健二郎に、恭徳は意味深な笑みを浮かべた。
(今、一瞬尻尾のようなものが見えた気がしたけんど、気のせいか?)
勿論、尻尾が見えたのは健二郎の見間違いであるが、もし恭徳に尾があったならば千切れんばかりに尻尾を振って喜びを表していたであろう。
そのくらい、恭徳は健二郎の言葉を嬉しく感じていたのだった。
「そういえば、健二郎さん」
「ん? なんや?」
「さっきから、竿引いてますけど」
「ああっ! 阿呆っ! そういうことはもっと早う言わんか!」
慌てて健二郎は竿に戻った。
「ああっ〜! ほらぁ! 逃げられてしもうたやんけ〜! あれは絶対、大物やったぞ……」
頭を抱える健二郎。
(健二郎さん。そういうのを"逃がした魚は大きい"って言うんですよ)
全く本当に困った人だ、健二郎さんは。
恭徳は苦笑しながら、健二郎を見つめる。
(だからこそ、放っておけないんです。大丈夫、今は健二郎さんの側にいますから)
そして恭徳はそっと呟いた。
(僕は健二郎さんの為なら、犬にだってなります)




