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外へ。(2/2)

 ママさんは、汗みずくになりながらやっとの思いでタンスを元あった場所へ戻し終え、いったいどうしてこんなものを動かせたんだ、こういうのを何の馬鹿力だったかと首を捻ってみたが、押し入れから来る饐えた臭いに当てられ最悪な気分に、この上、頭痛の種を増やしたくもない。汚れた布団も押し入れの中も、除菌スプレーをしとどに滴るほど浴びせかけたが、窓の外は夕立でも来るのか、にわかに黒い雲が茜色の空を覆い始めて、さっそくポツポツ落ちてきているのでは、ベランダに干すわけにもいかない。とりあえず、本降りになるまで窓は開けたままで、部屋の空気だけでも入れ換えたかった。


 目をかけてないと何するか分かったもんじゃないと、ママさんは隣の部屋で膝を抱えて座る彼を忌々しく見やった。リビングのテレビは、昨日借りてきたDVDを映している。怒りと不安に悩み通しですっかり存在を忘れていたが、夜が明けてもう一度同僚の男と話して、ようやく頭が冷めてきた。隣の子どもに見られたからといって、父親は出張で家を空けているらしく、上の兄貴はこっちが何を言ってもろくに人の目も見て話せない引きこもり同然の能無しのようだし、勝手に人の家に上がり込んだ妹も、あの兄貴なればこそのとんでもない子どもだが、あれだけ脅したのだから、もう寄りつきはしまい。ただ、早晩ここは引っ越した方が安全だろうから目立たぬ準備は始めようと意見もまとまると、瞼の上まで迫ってきているように思えた我が身の破滅を鼻で笑える余裕もできた。久しぶりの休みの午後をどう過ごそうかと考えたところで、玄関に放りっぱなしだったレンタルショップの袋に目が留まり、そう言えば一泊二日で借りたのだから、今日中に見ないといけないのかよと気づいた。DVDをセットして、丸一日閉じ込められて少しは懲りただろうと彼を呼ぼうとしたが、タンスをどかすのに手間取ってるうち、久しぶりに電源を入れたテレビから鼓膜が破れるかと思う大音量が飛び出した。慌ててボリュームを絞ったが、画面にはこの番組で少しは売れたのだろうが最近は鳴かず飛ばずでテレビでも見なくなった若手の俳優が、腕を振り上げるや全身スーツを着た妙な姿に変わり、部屋のぬいぐるみとは似ても似つかぬ気持ちの悪い怪物をボコボコにしている。腰の変身ベルトを見ると、男が買ってきたものとはデザインが異なるようで、似たようなジャケットの中から適当に選んだのが失敗だった。まあ見た目は違ったところで大して変わりはないだろうし、「おまえのために借りてやったんだからこっち来て見な」と、押し入れから彼を引っ張り出したが、彼の体から布団から押し入れそのものから押し寄せてくる悪臭に鼻が曲がりそうだ。あまりの惨状にどんだけ迷惑かければ気が済む糞ガキと再び我を失いそうになったが、男の電話で、この上は更に子どもに手を挙げて余計な騒ぎを起こさないほうがいいと念を押されているので、寸前で堪えた。全くこんなもののどこが面白いのかまるでわからないが、どうせすぐに見終わるだろうと高を括っていると再び、変身! と言い出して何だよ終わったんじゃねえのかよとメニュー画面を見ると、DVDには四回分が入っているらしく、あと三べんも変身するのかこいつはと暗澹たる気持ちになる。先に風呂入れと彼を急かしたが、画面に見入ったきり頑として動かないので、好きにしろとさじを投げ、湯だけ張っておくかと風呂場に向かった。隣の部屋と壁を接する風呂場に入ると、またぞろ何やら騒がしい物音が震動のように伝わってきて、隣の兄妹にも、ほとほとうんざりする。連中の親父が帰ってきたら改めて怒鳴り込んでやりたいが、それまでここにいるものか。


 ママさんが去り際、背中に吹きかけた除菌スプレーが、彼のTシャツを冷たく濡らす。開けた窓から吹き込む風で肌は粟立ち、汚れきった体はスプレーの芳香が加わって、えも言われぬにおいを放っていたが、彼はさして気にもならなかった。今しがた、三回目の変身! が聴くともなしに彼の耳を通り過ぎていった。ママさんは彼の背後で、はじめこそこいつ演技棒読みじゃんとかショボいCGだななどと茶々を入れていたが、つと立ち上がって風呂場に消えると、「ああガスつけるの忘れてんじゃねえよ、水風呂張ってバカみてえ」と苛立った声を響かせた。戻ってきてからは黙りこくったまま、食卓机に足を乗せて缶ビールを空けはじめている。合間に柿の種を頬張っているらしい、噛み砕く音はテレビと張り合うようだ。


 彼はテレビに夢中な風を装っていたが、その実ほとんど身が入らなかった。画面に映っているベルトが、手元のおもちゃと別物なことはすぐにわかったが、ベルトの持ち主が変身して戦う場面はものの数分で終わってしまい、その後は何が起こっているのかよくわからない難しそうで退屈な映像が続くばかりでは、次第に興味も薄れていった。おのずと、彼の視線は網戸の向こうのベランダへ移った。ズボンのポケットに手を入れ、少女のブラウスの一部に触れる。襖が開いた瞬間、ママさんに取り上げられないよう隠していた。汚れが染みついてヌルヌルになっているが構わず、素早く手のひらに収める。ポケットに入れている間に、ひょっとして羽根に変わっていたらと思ったが、そんなことは起こるはずもないと諦めきった気持ちが告げている。少女は、あれほどにそうありたいと願っているのに、どうしてテレビのように変わることができないんだろう。彼女が彼女の望むままのものになるには、何が足りないのか。「お、多分もうすぐライダーなるよな。ああ、やっと終わってくれる。長かったわ」ママさんの声は疎ましく、テレビの中ではベルトを巻いて今にも変身ポーズを取るようだ。彼は、少女が天使について語っていた言葉をしきりに思い出そうとする。──天使は空から下りてくる。翼を持って。苦しんでいる人を助けるために。その翼が欲しければ、少女は何と言っていたか。感情の高まりに任せて聞き流してしまった自分に腹が立つ。そう、翼が、欲しければ──飛び越える。何を? 彼の見つめるテレビの中で、ちょうど今、ヒーローが現れる。

 

 変身!

 

 窓の外を何かがよぎった、と思う間もなく、ベランダの手すりに衝突して、重い音を残して、落ちていき、またたく間に下方へ消えた。テレビでは戦いが始まっていたが、彼の目は窓に釘付けで身動きも取れない。ママさんが先に立った。


「なに今の? なんかぶつかった?」


 ベランダに出ようと網戸を開ける。彼はママさんの足にしがみついてでも引き留めなきゃと思ったが、手遅れだった。ママさんは恐る恐る手すりに近づく。白色の手すりに、鮮やかな朱の模様が浮いている。はじめ鳥が翼を伸ばしたようにも見えたが、ママさんは奇妙なほど冷静にそうじゃないと理解する。手すりに届けとばかりに、五本の指をいっぱいに広げた、大量の液中に浸さなければ描けない、真っ赤な手の跡と、気づく。下を見る。マンションの入口脇の草むらに、動かないものがある。いや、いる。手足が不自然にひん曲がって、青々とした雑草に埋もれかかって、そうとわかる。しがみつくように粘っこく手すりを染める正体に思い至り、ママさんは「いやあ」と短い出来損ないの悲鳴をあげると、うっかり触れてしまった指先をぶんぶん振った。


「落ちた、人が、落ちてる、落ちてるよ」


 何をすればいいのかとっさに思い浮かばず、興奮で声をうわずらせて、ママさんは振り返った。そこに座っているものと思っていた彼を見つけようとした。いない。視線を奥へ伸ばす。玄関のドアにたどり着き、鍵を外そうと腕をせいいっぱいに掲げる、彼がいる。外に出るのか。「待て、待てよ!」叫ぶと、彼がママさんを見た。表情が凍り付くが、鍵をつかんだ手を離さない。逃がすか。ママさんはベランダからリビングへ、足下の人形を踏み潰して、玄関へ走る。畜生。鍵が外れた。彼がドアのノブを握る。逃がさない。ドアが開いた。絶対に。彼が外へ一歩踏み出す。おまえを、逃がさない。手がTシャツの首をつかんだ。おまえはあたしのものなんだから──


 踏み出した足が、唐突に力の行き場所をなくしたようだった。まるで氷の上を行くように、体が意思に逆らいバランスを崩す。立て直そうと思っても、間に合わなかった。ドアの外、階段の踊り場にママさんは背中からしたたか転倒した。びちゃりと水溜まりに叩きつけられたような感覚。彼を得たと思った手は、離れていた。見える天井が火花を散らして不快に点滅するようで、腰が痛みでジンジン唸る。でも、それより気になるのは、背中に浴びた不快感。何だ。水みたいなこの感じ。踊り場に誰かがぶちまけたのか。違う。このつんとした鉄錆めいたにおい。水じゃない。似てる、さっきの、ベランダの、あれと。べっとり濡れそぼった手のひらを顔の前に持っていく。飛び込んできた、目に痛いほどの、赤。まだ生あたたかくねっとりとして、爪の奥まで絡みついてくるような、血だまりに踏み込んで、つるりと滑って転んだ。全身、髪から足まで、血まみれだ。頬の筋肉がゆるむのがわかる。叫んでいるつもりなのに、あひいという変な音しか喉から出ない。おかしい。まるで笑ってるみたいだ。目の前、隣の部屋のドアが開いている。浸かっている血は、そのドアの先、隣の玄関から流れ出てきている。そこに何か大きなものがうずくまっている。なぜか膝下までズボンとブリーフを下ろして、毛深い足を力なく投げ出し、股間を押さえて呆けているような、男。その手にも、ぬめりと光る血だ。こいつ、隣の兄貴か。髪でほとんど隠れた顔は更に血をかぶって、ろくに見えない。半開きの口から、黄色い歯がのぞき、がちがち鳴っている。「おれじゃない、あいつのほうか、らとびこんできたん、だ、おれはやっ、てないよう」言い訳のつもりか、足先に転がっている血しぶき閃く包丁を蹴り飛ばして、あごで上へ続く階段を示す。血の滴が、踊り場の溜まりから分裂するように離れ出て、一段一段、蛇行しながら階段を昇っている。立ち上がって、よろめきながら上の階へと歩んでいった。血が。いや、血の主が。誰だ。下の草むらに落ちていった、あれ。「なんかやべえん、だけ、どおれのちん、こ、ちぃ、とまんねえしちくしょうよくもよくも、ねえおばさん、おれのちん、こ、きれてないかな、まだつながってるかな、おばさんおれこわくてみれないよたすけてた、すけて」男がガクガク震える手を股間からのけた。ママさんはプツンと頭の中の糸が切れたようで、「てめえ、そんなもんみせんじゃねえ」そのせいか目に映るものは、血の海だけでなくあたり一面、目に染みるような赤ばかり、憎んでも憎み足りない男の股間のものを目の前から消えちまえと踏み潰す。やわらかいものがぐしゃりと壊れる手応え。気が狂ったような男の絶叫。ざまあ見ろ、と思う暇もなく、また足が床を滑る。再び見える全部がすってん回って、ママさんは血だまりにダイブした。なんだこりゃ。まるでつまんねえお笑い芸人かよ。──見てるか。──見てるのか、おまえ。ママさんは、血を吸ってごわついた髪の毛をかきあげて、階段を降りた曲がり角を見た。一段下の、踊り場に立っている彼を見た。彼もまた、ママさんを見つめていた。視線が交差した刹那のうちに、ママさんはDVDが終わったら彼に聞きたいことがあったと思い出した。──おまえ、あたしには一度もキスしてくんなかったけど、あの子とヤッてどうだったか教えろよ。そう言おうと決めていたのに、ママさんが口を開きかけた時には、彼の裸足は地面を蹴っていた。階段を下りていく。たどたどしい足音がママさんの耳に聞こえる。遠ざかっていく。ママさんは重たげに身を起こすと、口中にあふれる血とよだれを飲み込んだ。


 トンネルのように薄暗く狭い階段を下りきって、管理人室やポストが並ぶ共用スペースを、彼はがむしゃらに駆け抜けた。足の裏が砂利を踏んで痛いが、気にならない。進む先にマンションの出口が、彼に外の世界を導くように白んだ光を放っている。ふいにすれ違ったように思えたのは、ママさんに否応なく手を引かれて、ここを歩いてきたずっと前の彼自身の姿だったか。あれから、どれだけの時間が経ったのか。通路の果てを踏み越えるや、いくつもの水滴が彼の頭に腕に弾ける。仰げば、目にも丸く映える大粒の雨が、長いこと窓越しに眺めるだけだった天井のない空間から、彼が見るもの全てに降り注ぐ。隣のマンションの建物を、駐車場の車を、足下のレンガ色の歩道を、雑草が茂る前庭を、そこに倒れて動かない少女を、汚れを洗い流すように隔てなく。「そと きもちー でしょ」草生に顔のほとんどが埋もれた少女が、白目に圧されかかった瞳で彼を見つけた。少女に歩み寄ろうとする彼の足は、壁に突き当たったようにそれ以上動けない。うつ伏せに倒れているのに、腰から下はねじられたように横を向き、外側に折れ曲がった足は、投げ出された腕にあり得ない角度で触れている。元の色が分からないほど染め上げられたTシャツは脇腹の生地が裂け、ぱっくり肌を割る刺傷は、流れるものを出し尽くしてどす黒い。呼吸で微かに膨らみ萎む背中が、辛うじて少女を壊れた人形の一歩手前で踏み留めている。爪が剥がれ飛んだ指先が、ぴくりと彼を求めた。満足に動かない唇と舌の隙間から、たえだえの声が漏れる。「ね 。 も いちど いって 。わたし  の はぁね とっっっても、 きれえ  って」汚れたボロ切れのような白地の布が、握る彼の手をすり抜けて、ひらひら地面へ落ちていく。少女の指が、最後の力でそれを掴もうとして虚空に伸びるが、あと僅かのところで届かない。いたずらな風と戯れるように、丈高い草むらに消えた。ママさんは言っていた。──空気読めない子どもになるなよ。ま、そんな勇気ないか。少女の首が、がくりと垂れた。雨は叩きつけるように激しさを増し、駆け出す彼の足音もかき消した。



 不審に思った通行人が交番に届け出て、警察は身元不明の子どもを保護した。照会の結果、数百キロ離れた他県で七ヶ月前、母親と散歩に出かけた公園で行方が分からなくなっていた少年と判明した。誘拐事件として捜査していた警察は、少年本人から今までどこで何をしていたのか質そうとしたが、彼は一言も口を利こうとしない。医師は、心的外傷によるストレス障害で一時的緘黙状態にあると診断を下した。少年の両親は、数百日ぶりの我が子との再会を涙を流して喜んだが、あんなに元気でおしゃべりだったのにどうしてと嘆いた。少年の治療は続いているが、依然、病状に変化は見られない。




(了)

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