第61話 吸血貴族は戸惑いと情熱がお好き
「血を――ユウトの血を、吸いたい……!」
イオネラは雄斗に命じることもなく、指示するでもなく、ただ自分の欲求を訴えた。
血を吸いたい――。
言葉にするのさえ悔しかったのか、後ろの部分はかすれて雄斗には聞き取れなかった。
吸血衝動。
イオネラが吸血鬼たる最大の所以である、人の血を吸う行為。
自分で制御できないその欲望を、いま彼女は恥ずべき行為とすら感じているようだった。
今日この時間、雄斗の血を吸うこと。
それが何を意味するのかは、雄斗にも、イオネラにも解っていた。
学校で検診を受けたときの月森先生の仮説では、イオネラはあと二回、雄斗の血を吸えば、体内の血のめぐりが完全になるという。
一回は、ミナミナの血を吸うことでクリアした。
そしてあと一回――。
月森先生は、一回の吸血すら医師の立場からはやめさせたいと話していた。
だが、あと一回だけなら――
イオネラがミナミナの血を吸ってくれたことで、一回分休めていることもある。
だからきっと大丈夫。絶対に、耐えてみせる。
雄斗はイオネラから求められるずっと前から、そう心に決めていた。
「すまぬ」と言ったイオネラの謝意が、雄斗には理解できた。
自分が血を吸うことで、もしかすると雄斗の容体が危うくなるかもしれない。
もし万が一、彼が命を落とすようなことになれば――
イオネラは、雄斗がかけてくれたやさしい言葉を、想いを、全てふいにすることになる。
自分のせいで。
自分が吸血鬼であるせいで。
だから彼女は、雄斗に謝るしかなかった。
そんな状況にもかかわらず、雄斗はなぜか笑みを浮かべていた。
「――いいよ。いつも通り。ほら」
雄斗はTシャツの首から腕を出し、イオネラが血を吸いやすいように右の肩をあらわにした。
そして涙をぬぐってから顔を上げるイオネラを安心させるよう、余裕のある笑顔をつくる。
「ユウト……」
雄斗のみせた表情は、どれだけイオネラの胸に響いただろうか。
彼は何も言えずにいるイオネラにひとつうなずいてみせると、ソファの上で彼女に背を向けた。
イオネラはぐすんと鼻をすすってから、ソファを滑るように移動し、雄斗の背中にそっととりつく。
そしていつものように、彼女は左手で雄斗の左肩を、右手で右肩をつかみ、うなじに口元を近寄せる。
自分の中の吸血衝動と闘っているからか、それとも貧血の雄斗へ手をかけることに対する不安からか、彼の肩をつかむイオネラの両手は震えていた。
肩から伝わる緊張を感じた雄斗は、彼女をはげますようにつぶやいた。
「イオネラ。俺は大丈夫だぞ。いつでも吸っていいから。絶対、耐えてみせるから」
「ユウト――――うん」
イオネラは勇気づけられたようにうなずいた。
「……いただきます」
こんなときでも食事前の言葉を口にする律儀なイオネラに、雄斗は心の中で可笑しくなった。
そして――
イオネラは、彼の首筋に牙をつきたてた。
二人の間に、沈黙が落ちる。
イオネラは雄斗の血を吸い、雄斗はイオネラの唇の熱を肌で感じる。
ツグミやミナミナがそうであったように、体中から力が抜け、えもいわえぬ心地よい感覚に彼が支配されることはない。
ただ静かな時間が通り過ぎるのを待つだけ。
雄斗は途中で気を失うことのないようにだけ注意を払った。
極限まで血を吸われた自分の体が、どうなるのかは分からない。
ただ、これまでの貧血の経験から、おそらく視界が白くなり、意識が消えることは予想できた。
そうならないよう、雄斗はしっかりと目を開き、意識を保つよう両手を開いたり閉じたりする動きを繰り返す。
イオネラと一緒にいられるように。
明日も、明後日も、これからずっと――。
どれくらいの時間が経っただろうか。
実際には一、二分ほどであるはずの時間を、雄斗は永遠のときのように感じていた。
イオネラの口が、ゆっくりと雄斗の肩を離れる。
しみだした赤い血を、イオネラがそっと舌でなめとった。
「……ごちそうさま」
イオネラは小さく、やや不安そうに口にした。
雄斗の意識は――
「おそまつさま」
はっきりした返事が、雄斗の口から発せられた。
「大丈夫か、ユウト。わらわが血を吸ったことで、体に異変はないか……?」
「ぜんっっぜん大丈夫。ほら、この通り」
元気さをアピールするように、雄斗が勢いよく腕をふるう。
吸血を終えても、雄斗の体調にめだった変化はなかった。
内心では胸をなでおろしていた雄斗。
だがそれをおもてに出さないよう、雄斗はTシャツをもとに戻しながら、安心させるように落ち着いた口調で話した。
「これでイオネラも血を吸わなくて済むようになるんだよな。意外にあっけなかったな。これならあと一、二回吸われても全然平気――」
そう強がる雄斗に――
イオネラはまた彼の後ろから両肩をつかむと、自分の額をこつん、と彼の背中に当てた。
「……イオネラ?」
やや戸惑い、首だけを後ろへめぐらせる雄斗。
その視線の先で、イオネラは安心した笑みを口元に浮かべていた。
「――最初に血を吸ったのが、ユウトでよかった」
彼女は頭の中にある想いを、雄斗の体へ直接伝えようとするかのように、自分の額を彼の背中へ強く押しつけた。
「ユウトと出逢えていなければ、いまごろわらわはこの見知らぬ国で路頭に迷っていたかもしれぬ。感謝していたのじゃ。ずっと前から。――いままで言えずにすまぬ」
「イオネラ……」
雄斗は、イオネラが伝える穢れのない真っ白な感情をみた。
それは触れればすぐに壊れそうで、手をかざすだけでも崩れそうな、切ない想い。
感傷に浸ったイオネラのそんな心を、雄斗は背中の肌から伝わる温かさから感じた。
「……今ほど自分が吸血鬼であることを、恨んだことはない。わらわはなぜ、吸血鬼などに産まれたのじゃろうな。血さえ吸わなければ、ユウトを困らせることも、危険な目にあわせることもなかったろうに……」
「んなことねえよ、イオネラ」
雄斗は両肩におかれた彼女の手をはずし、ソファの上でふり返った。
そこにはうつむいたまま、上目づかいに雄斗を見る可憐なイオネラの姿がある。
いつもの高慢な雰囲気などみじんもなく、うるむ瞳でまぶしそうに見上げてくるイオネラ。
雄斗は、そんな彼女の両肩をやさしくつかんだ。
「吸血鬼だったから、俺はイオネラと出逢えたんだ。そうじゃなかったら、イオネラが俺と逢うことはなかったし、俺やツグミのことを助けてくれるなんてこと、絶対になかった。だからイオネラは吸血鬼のままでいいんだ。いや――吸血鬼のイオネラがいいんだ。自分でよく言ってただろ。『高貴な血をひくトランシルヴァニアの吸血貴族であることに誇りをもっておる』って。その誇りを失うなよ。イオネラは吸血鬼だからイオネラなんだ。イオネラ・シェーンベルクなんだ。俺はそんな吸血鬼のイオネラのことが好き――」
そこまで言って、雄斗ははっとした。
彼が口走ろうとした言葉に、イオネラは無慈悲に反応する。
「いま、なんと言った……?」
「いや、その……」
急に頬を赤くする雄斗。
イオネラはどぎまぎする彼と視線を合わせようとする。
雄斗も一瞬視線をそらしてから、再びイオネラの顔をみつめる。
その瞬間、二人の瞳が一本の視線でつながった。
燃えるような紅い目と、力強さを秘めた黒い目が、お互いの瞳をみつめ合う。
二人はその奥に、同じものを見ていた。
胸の中に淡い感情が湧きあがる。
ためらう気持ちが溶け、お互いのことを想う青い熱情がこみあげてくる。
心臓の鼓動がだんだんと早くなり、二人の体が上気する。
それとともに、二人の頬が赤くにじんでいく。
「イオネラ……?」
「ユウ、ト……?」
自然と、イオネラの肩においた雄斗の両腕が曲がり始める。
それは、お互いの距離をゆっくり、ゆっくりと縮めていく。
「イオネラ……」
聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声が、雄斗の口をついて出る。
「……ユウト」
イオネラはかすれた声で、雄斗への大きな戸惑いとわずかな期待を抱く。
自分が何をしているのか頭で理解できないまま、雄斗は心の求めるままに体を任せていた。
雄斗とイオネラの間にある空間が、徐々に無くなっていく。
お互いの顔がすぐ目の前まで迫る。
二人は同意を得たかのように、ゆっくりとまぶたを落とす。
そして――
「――お兄ちゃん」
――と。
唐突なタイミングで聞こえた意外な声に、雄斗とイオネラは天井まで届くかというくらい心臓をはね上げた。
雄斗がすぐさまイオネラと離れてふり返る。
そこにはソファの後ろにあるキッチンカウンターのそばに立っていたツグミの姿があった。
「つ、ツグミ――!?」
「やっとライブチャット終わったよ。吸血鬼の番組はもう終わってるよね? 私、録画しているの観たいんだけど――」
そう言いながらツグミはすぐに歩いてくると、ソファの上で向かい合っている二人の姿をみつけて思わず目を細めた。
「――お兄ちゃん、姉さまと何かしてたの?」
「い、いや、何もしてない……何もしてないぞ、妹よ。ははは」
「またその言葉づかい。アヤシイなあ――えっ?」
と、そこで。
ツグミはイオネラの顔をみとめた瞬間、驚きに目を見開いた。
「姉さま、目がはれてる……?」
イオネラの目は、さきほどの涙で充血したままだった。
「いや、これはだな、その……花粉症? ほら今日、森林公園に行ってただろ。そのとき飛んできたのがいまごろ出てきたとか……」
あわてて言い訳をつくろう雄斗。
イオネラは何も言わず、ばつが悪そうに顔を横にそむけるだけ。
そこへ、ツグミは世にも恐ろしいものを見たというような顔で言い放った。
「ウソつかないでよ、お兄ちゃん。姉さまを泣かせたんでしょ……?」
「いや、違うって……だからこれはだな……」
「あれだけ気丈な姉さまを泣かせるなんて、お兄ちゃん……いったいどれだけ極悪非道な言葉を姉さまにぶつけたの!?」
「……は?」
どうやらかなり違う方向へツグミの予測は進んでいるようだった。
「だってそうでしょ? 姉さまが涙を流す姿なんて見たことないし! お兄ちゃんがそんな惨たらしいことをする冷血動物だなんて思わなかった。お兄ちゃんの人でなし!」
「いやいやいや、完全に勘違いだって! イオネラはさっきのテレビを観て――」
そう言いつつ、妹を説得しようと立ち上がる雄斗。
そのとたん――
雄斗の視界がとつぜん、真っ白になった。
(――あ、あれ?)
ツグミの姿が、白い世界にかき消される。
それとともに、彼の足から急激に力が抜ける。
何とかふんばろうとするが、ひざが中途半端に折れたまま立ち上がれない。
ふらふらと斜めに足を運んだ雄斗は、その先にあった部屋の柱に直進した。
よけられず、そのまま頭から柱にぶつかる。
「ユウト!?」
「お兄ちゃん――!」
どっ、と頭に響く衝撃。
フローリングの床につっぷした彼は、冷たい感触をほおに感じながらわずかにまぶたを上げた。
(あ、あれ……?)
(おれ、どうなって……)
イオネラとツグミの叫びが、遠い国から発せられたかのようにかすかに耳へ届く。
その直後、急に視界が暗転し――
そのまま、彼は意識を失った。




