第56話 吸血貴族は過去を打ち明けるのがお好き
「吸血貴族というのは、貴族という身分を名乗ってはおるが、元々はただの吸血鬼。本来は人間から怪物扱いされた、疎まれる存在なのじゃ。
人間から避けられる理由は、平和に生活している住民に見境なくかみつき、血をすすることで、相手を吸血鬼に変えてしまうからじゃ。確かに吸血鬼の八割ほどはそうした性質をもっておった。じゃが、トランシルヴァニアの吸血鬼に限っては、吸った相手を自分と同族にする力はない。というより、もともと吸血鬼にはそのような悪しき性質など備わっていなかったのじゃ。
じゃが、ワラキアやモルダヴィアなどの周辺各国にいた吸血鬼は、圧倒的多数である人間に対抗するという野心のために、自分の仲間を増やすべく、黒魔術により悪魔と契約を結んだ。『血を吸った相手を吸血鬼にできる』という契約をな。
契約を受け入れた一族は、次々に人々を襲い、吸血鬼の国を作ろうと懸命になった。そのことが、人間が吸血鬼を疎む最大の理由となった。
吸血鬼と人間の争い。ヴァンパイアハンターなどという吸血鬼専門の掃除屋も現れ、周辺は一層混沌とした。じゃが、ことトランシルヴァニアに関しては、そのような争いは皆無じゃった。当然じゃ。我ら吸血鬼は人間の血は吸うが、それによって相手を吸血鬼に変えることはないし、むしろその人間の毒素を吸い取り健康にすることから、人間に感謝されることの方が多いくらいじゃった。
国内でも少数派である我らが人間社会で貴族になれたのは、わらわの先祖が、不治の病にかかったトランシルヴァニアの国王を命がけで吸血し、その命を救ったのがきっかけだと言われておる」
イオネラはそこまで語り、ひとつ息をついた。
「わらわがもしワラキアなどに生まれておったらと思うと、ゾッとするな。じゃが、わらわの周りは人格者に恵まれておった。それは吸血鬼である両親はもちろん、人間である使用人ら、宮殿を守る警備兵も含め、わらわの宮殿にいる者全てが尊敬すべき者たちじゃった。
彼らはわらわのことを吸血鬼だからといって差別などしなかったし、むしろ人間と同様に接してくれた。幼少のころは手をとり、生徒のころは勉学を教えてくれ、反抗期には悩みを聞いてくれもした」
「反抗期……? イオネラに、反抗期なんてあったのか」
「うむ。おぬしにはないか? 親の考えに納得のいかない時期というのが」
「まあ、俺は現在進行形というか……いまだに親父には反発してるし。だから俺とツグミだけ家に残ってるんだけど」
「そう、か……。なるほどな」イオネラが薄く笑みを浮かべる。
「それで、わらわはトランシルヴァニアで平和に暮らしておったのじゃが、周りの国では徐々に吸血鬼に対する風当たりが強くなってきおってな。吸血鬼は滅ぶべし。そんな声も挙がっておった。
じゃがわらわの国の吸血鬼は違う。我らが人間に疎まれる理由は無いし、人間社会に貢献もしておる。そう信じておったのじゃが――
ことはわらわが十六歳のときに起きた。時のトランシルヴァニア公国の国王参謀が、国内の吸血鬼を殲滅させる作戦を打ち立ておったのじゃ。
きゃつが言うには、吸血鬼は周辺各国で人間社会に対し多大な被害を及ぼしている。いずれトランシルヴァニア公国の吸血鬼が国外の同族と結託することは明白である。その前に、国内の吸血鬼は全て滅ぼすべし、という、あまりに乱暴な内容じゃった。
当然、我らは抗議した。参謀の言うことは全て濡れ衣であると。我らにそのようなつもりはないし、むしろ悪魔にひれ伏した吸血鬼などとは決別し、人間と協力して国を守るために戦うつもりであるということを訴えた。
じゃが、国王は我らの言葉を聞き入れてはくれなかった。
最大の理由は、隣接するワラキアとモルダヴィアの農・海産資源じゃ。トランシルヴァニアは森の国。決して食うに困るほど食べ物に瀕していたわけではないのだが、国土のさらなる発展を望んでいた国王の野心が、ワラキアやモルダヴィアとの国交をさらに強固なものとする考えにつながった。そのためには、二国の望む『この世から吸血鬼は滅ぶべし』という方針に協力することが絶対条件だったのじゃ。
我らは元々、国王をずっと昔に助けたという事実にしかよりどころのなかった貴族じゃ。吸血貴族を全滅させたところで、トランシルヴァニア公国の国王にとってはあまり痛くもかゆくもなかったのじゃろう。きゃつらの手先は、国内にある吸血鬼の宮殿に次々と攻め入った。当然、わらわの宮殿にも、じゃ。
抵抗するも、多勢に無勢。宮殿の警備兵は人間だったのじゃが、吸血鬼であるわれらに忠誠心を寄せ、ともに戦ってくれた。だが、しょせん勝ち目のない戦じゃ。彼らはよく臨んでくれたが、あえなく相手に押し切られた。
そのころには、わらわも覚悟を決めておった。一族の末裔として、吸血貴族にふさわしい最期を遂げようと。
だが、父が戦いに赴いた後で、母がわらわに告げたのじゃ。『あなただけは逃げなさい。秘術で肉体から魂だけを抜き出し、棺桶の中に封じ込めます。そして来たるべき復権の日に備えるのです』と。
わらわは反抗した。わらわだけがなぜ逃げねばならぬのだと。わらわも父や母と一緒に果てる覚悟じゃと。じゃが、母は首をふった。『大丈夫。信頼できる人たちが数年後、あなたをきっと解放しにきます。それまでの辛抱です』
わらわは宮殿一の魔術師に腕をひかれ、わらわも知らなかった地下の隠し部屋に連れていかれた。その途中、宮殿に侵入した国王軍の兵士に、母が斬りつけられる瞬間を見ながら」
「――――!?」
驚きで言葉の出ない雄斗に、イオネラは空を見ながら淡々とした口調で続けた。
「わらわは棺に横たえられ、フタを閉められ、鎖で完全に閉じ込められた。魔術師が詠唱する声を聞きながら、わらわはさきほど見えた母親の死に涙を流しつつ、いつの間にか意識を失った。数年後、必ず復活し、国王に復讐すると心に決めて。
そして目覚めたのが、六百年後のいま、というわけじゃ」
そこまで語ると、イオネラは力を抜くように息をはいた。
彼女の話を聞いていた雄斗は、深い思いに沈み込むかのようにうなだれた。
「――ごめん、イオネラ。嫌なこと聞いたな」
「かまわぬ。気にする必要は全くないぞ」
「いや、俺が思ってたより、すごく重いっつーか……俺が弓道部の一件で悩んでたのが、なんとなく恥ずかしく思えてきてさ」
「そんなことはないぞ、ユウト。人間は多かれ少なかれ、自分の生き方に本気で悩むことがあるはずじゃ。そこに大きいも小さいもない。――というのは、わが父の受け売りじゃがな」
笑顔を見せるイオネラに、雄斗は複雑な感情を抱いた。
強気な彼女のセリフだが、その心情は察するにあまりあった。
数年後に封印を解かれるはずだった彼女が、六百年後という想像を絶する時を超えてようやく復活できた。しかも、母国から遠く離れた、ここ日本という地で。
当然、周りには彼女を知る者はいない。
それどころか、電気だの水道だの、車だのカップラーメンだの、彼女の生きてきた時代には存在しなかった未知の物が周りにあふれている。
両親と別れ、たったひとり遠く離れたこの時代にやってきてしまったイオネラの孤独感は、どれくらいのものか。雄斗にはとても想像できなかった。
だが彼女は、おそらく気丈に、自分の中の孤独と闘っている。
それは吸血貴族としての誇りによるものかもしれないし、彼女自身の前向きな性格によるものかもしれなかった。
考えに沈む雄斗の横で、イオネラはそっと言葉を継いだ。
「それにな……ユウトにだけは、このことを知っておいてほしかったのじゃ」
「俺に、だけ?」
「うむ。このような話、だれにでもできるものではないからな」
そう言った彼女の顔には、どこか朗らかな色がにじんでいた。
「自分の心をしめつける過去の記憶から逃れるには、そのことを他人に話し、他人と共有することが一番なのじゃ。それがたとえなんの解決にもつながらなかったとしても。自分以外の人が自分の気持ちを知ってくれているという事実が大切なのじゃ。
おぬしは、わらわに自分の過去を教えてくれた。だからわらわも、おぬしに自分の過去を預けたい。記憶の交換じゃな」
「――イオネラは、いま俺に打ち明けてくれたことで、ちょっとは気分が楽になったのか」
「そうじゃな。少しは。――あ、ユウトよ。このことはだれにも言うでないぞ」
「わかってる。俺も、イオネラのおかげで悩みがふっとんだんだ。他人には言わねえよ」
「うむ……ありがとう」
自然と感謝の言葉を口にするイオネラに、雄斗はどこか感慨めいたものを感じていた。
家にいても、あまりイオネラとじっくり話す機会のなかった雄斗。
会話になるたび、いつもたわいのないケンカに発展するのだから、それも当然だった。
イオネラは雄斗を下僕扱いし、雄斗はわがまま放題のイオネラに反発する。
いつしかそれが約束事のようになり、きちんとお互いの気持ちに正面から向き合うことはなかった。
雄斗は、流れる風を感じながら、イオネラとこれまで送ってきた生活をそうふり返った。
いままで話すことのなかった辛く苦い過去を、雄斗に打ち明けたイオネラ。
森に戻ってこられたことへの安心感。見知らぬ外の世界へ出たことの解放感。
それらが、イオネラの心をいつもより寛大にさせたのかもしれなかった。
「ユウトは……あれでよかったのか」
イオネラがふと、横目で雄斗を見る。
「あれって?」
「弓道部のことじゃ。もうおぬしは、大会には出られぬのじゃろう。あれで本当に、ユウトは納得できたのか」
雄斗は少しだけうなったが、表情はやけに晴れ晴れとしていた。
「納得はしてねえけど、どのみちいまさら弓道に戻る気もなかったし。俺が熱中できる、何か別のことを探すよ。それに――イオネラのおかげで、心の踏ん切りがついたんだ。それだけでも、俺にとっては大事なことだったから。イオネラには感謝してるよ」
「そうか……。おぬしがそう考えるなら、それでよい。わらわとしても安心したぞ」
イオネラはそう言うと、静かにまぶたを閉じた。
流れる風を、草のにおいを、土の感触を、全身で感じ取ろうとしているかのように。
ゆっくりと過ぎる時間の中で、イオネラは心から安らいだ表情を見せる。
「――まさか、こんな時代を生きることになるとは思わなかったのう……」
「えっ?」
「いや、なんでもない――」
小さくつぶやいたイオネラは、そのままわずかに笑顔を浮かべる。
お互いにひとことも発せず、街を見下ろしながら過ごす二人きりの時間。
木々がさわやかにざわめき、空は抜けるような青さを保ったまま、土曜日の静かな昼下がりを演出していた。
ふと、雄斗はイオネラの方を見る。
彼女は目を閉じたまま、いつの間にか小さく寝息を立てていた。
「イオネラ――?」
そっと呼びかけるも、イオネラは気持ちよさそうに寝入ったまま。
それは、いままでで雄斗が見た中で一番安らいだ、彼女のやわらかな寝顔だった。
雄斗はまた、自分の胸の中が高鳴るのを感じた。
――これで今日、何度目だろう。
イオネラの表情に心が動かされたのは。
いつもわがままで、高慢で、プライドの高い吸血貴族がたまに見せる、他人に心を許した表情。
そんな彼女のギャップをいつのまにか愛おしく感じている自分に、雄斗は戸惑いを覚えていた。
「イオネラ――」
彼女の寝顔を見つめる自分の表情がとても優しくなっていることに、雄斗は気づいていない。
しばらく起きる様子を見せないイオネラ。
彼は不意に、無防備な彼女の顔に、少しだけ触れてみたい衝動にかられた。
自分でもなぜか分からなかった。ただ、いつもは近づくことさえ許されない彼女の珠のようなほおを、触ってみたかった。
座りながら静かに近づき、眠るイオネラのすぐそばまでくると、雄斗はゆっくりと右手を上げる。
「イオネラ……」
そのまま白く張りのある彼女の肌にふれようと、ゆっくり指を伸ばす。
雄斗の視界は、イオネラの丸く整った顔に固定された。
風の音も、鳥の声も聞こえない。
逆にだんだん早くなる心臓の鼓動だけがやけに響く。
イオネラが気付く様子はない。
手が揺れる。唇がふるえる。
そして――
丸みをおびた彼女のやわらかなほおを、雄斗はついになでるように触れ――
「ううん……」
――ようとしたところで、イオネラが急に顔を背けた。
「……ええい、まだわらわに抵抗する気か人間どもよ……。これでもくらえい」
そして寝言とともに、イオネラはマイトの魔力がこもった左手を思い切りふるう。
その先にあった雄斗の右腕が、バシン! というにぶい音とともに地面にたたきつけられた。
「――――――――!!!!!!」
巨大なハンマーをふるったかのような強烈な力で弾かれた雄斗。
あまりの痛みに、声もだせないままその場でゴロゴロ転がり悶絶する。
「う、ん……ふああ……おお、いつの間にか眠っていたようじゃな、いかんいかん……。ん? ユウトよ、なぜそんなに激しく地面を転げまわっておるのじゃ?」
目を覚ましたイオネラの横で、地面にうつぶせになったまま苦しそうに右腕をおさえる雄斗。
「――――な、なんでもない……なんでもないから……は、はは……ははは」
涙を流しながら、彼は必死に笑顔を見せてごまかす。
ゆるゆると上半身を起こしたイオネラは、そんな彼の奇妙な行動に首をかしげる。
「わらわの寝ている間に、泣くほど感動的なことがあったのか? なにがあったのじゃ?」
「いや、その……そういえば小さいころ、このへんで地面をよく転がって遊んだなと思って、童心にかえったというかそんなところですイオネラ様……」
「変なやつめ。転がるならいままでにも機会はあったじゃろうに。――おお、そういえばいま何時じゃ?」
「えっ、いま?」雄斗は右腕の激痛をこらえつつ、ポケットからスマートフォンをなんとか取り出した。
「いまは……午後四時前、だけど」
「そうか、まだ時間はあるな」
「なんの時間だ?」
「じつは今日、ぜひ観なければならぬドキュメンタリー番組があってな」
「テレビかよ……。どうせまたアニメだろ。今日は特番でもあったか」
「そうではない。『吸血鬼の謎がついに明らかに!? ヴァンパイア徹底検証!』という番組で、ルーマニアの吸血鬼について取材した模様が放送されるらしいのじゃ」
「へえ、そうなのか。それは俺もちょっと興味あるな」
「じゃろう? しかも今朝のテレビで判明したのじゃが、リポーターはなんとミナミナじゃぞ」
「おっ。てことは、ミナミナがルーマニアまで行ったってことか?」
「おそらくそういうことじゃろう。これはぜひともチェックせねばならぬ。きっと現代まで生き残っている我らの同胞についても、色々と判明するじゃろう」
興奮するイオネラに、ふと雄斗は気がついたように視線を上げた。
「でもそれって、いまミナミナに直接訊いたほうが早くないか?」
「…………あっ」
イオネラも言われて初めて気がついた様子だった。
「なるほど、よくぞ言った! さすがはわらわの優秀な下僕じゃ。では早速連絡してみよう。ユウト!」
「はいはい。電話をかけてみますよイオネラ様」
そしてすぐに雄斗はスマホを操作して、着信履歴からミナミナを選択した。
発信してから渡す。すぐに耳元にあてるイオネラ。
だが、しばらくして彼女はスマホを耳から離した。
「ぬう……取り込み中のようじゃな。電話にでぬ」
「きっと劇場で公演中なんじゃねえの。今日土曜日だし。ま、着信に気づけばすぐにかけてくるって」
「そうじゃな。しばらく待つしかあるまいか」
そう言って、イオネラはしかたなく発信を切った。
ミナミナのことだから、すぐに返事をくれるだろう。そう軽く思いながら。
七月八日、午後四時。
初夏の晴天が広がる土曜日。
山の方では風が吹き、過ごしやすい気候だったが、街中はアスファルトからの照り返しで、うだるような暑さとなっていた。
そんな日も夕暮れにさしかかろうとするころ。
ミナミナは、行きつけのメイド喫茶「ホワイトテイル」の入り口の前に立っていた。
いつもならすぐにドアをあけ、店内に顔を出す彼女。
だが今日は、緊張にやや顔をこわばらせながら、少しのあいだ入り口のドアを見つめてた。
(七月八日、午後四時。ホワイトテイルの窓際、一番奥の席……)
ミナミナは心の中で復唱すると、左腕につけたアナログの丸型腕時計の針を確かめた。
――うん。時間はちょうど。
彼女は、いつも通いなれているはずのメイド喫茶の外観を、まるで初めて入る店であるかのようにまじまじと見つめる。
見つめながら、彼女は先日の手紙の内容を思い出した。
<この件に関して一度、南様とご相談したく、誠に勝手な申し出で恐縮ですが、七月八日(日)十六時、メイド喫茶 ホワイトテイル(東京都台東区台東1丁目○番×号)の窓際、一番奥の席にてお待ちしておりますので、お越しくださいますようお願い申し上げます。
なお、当日は南様お一人でお越し下さい。
亜斗蘭逓州大学 産業工学部 先端工学研究室>
(亜斗蘭逓州大学……)
ミナミナは、その大学名を以前から知っていた。
自分が秋場原の多目的商業施設でリポートした、バイオロイドを開発した大学。
そして現在、逃げ出したバイオロイドを血眼になって追っている者たち。
それはつまり、バイオロイドに乗り移ったイオネラ・シェーンベルクを追っていることにもなる。
その大学が、ワイワイ生中継でのミナミナの番組でゲストとして出演したイオネラの姿をみて、彼女がバイオロイドであるという可能性を疑った。
懸念していたことではあった。自分がイオネラをいらぬ危険にさらしたという負い目もあった。
だが、もしそうなったときのことは、彼女も十分想定していた。
第一、あのときイオネラの顔がカメラを通して一度さらされてもなお、生中継を続ける決断をしたのは、その顔が元のバイオロイドとは少し異なっていたからだった。
あとでそのときの画像を入念に確かめもした。やはり、目の大きさや鼻立ち、輪郭や髪の長さが、大学の発表したバイオロイドの映像とは少しずつ違っていた。
それが魔法の作用であることは、後でミナミナがイオネラから直接聞いていた。
バイオロイドはあくまで人工物。顔が自然に変わったりすることは決してない。
まさか大学が、魔法などというものの存在を肯定するとは思えない。
大丈夫。私が何を言われてもしらを切りとおせばいいだけ。
そうすれば、向こうは引き下がらざるを得ないはずだ。
ミナミナは何かを決意するように口を引き結ぶ。
と、そのとき。
彼女のショルダーバッグにあったスマートフォンがふるえ出した。取り出して画面を確かめる。
そこには「着信:☆イオちゃん☆」の文字が右から左へ流れていた。
「イオちゃん……!」
あまりのタイミングに、思わず息をのむミナミナ。
だが彼女はその電話には出ず、ただ画面を見つめる。
やがてバイブが止まり、そこには「着信:1件」の文字が現れた。
(イオちゃん……ごめん。あとで絶対かけるから)
ミナミナはスマホをバッグの中にしまう。
きっと――
きっとこれは、イオちゃんが応援してくれてるんだ。
頑張れって。負けるなって。
大丈夫。イオちゃんのことは、私が絶対守るから――。
ミナミナは心の中でそう自分を勇気づけながら、思い切ってホワイトテイルの扉を開けた。
「おかえりなさいませ……あっ、ミナミナさん」
入ってすぐのところにいたのは、店のメイド長・ユラだった。
あいかわらず頭の上から足の先まで、きれいに服装を整えたメイドの見本のようなユラは、にこやかにミナミナを迎えた。
「今日は昼の公演、お休みですか? すぐお席にご案内しますね」
「あ、今日はいいの。人と待ち合わせてるから……」
ミナミナはそれだけ言うと、ユラを置き去りにし、すぐさま店内へ入っていった。
周りのミナミナファンが、彼女の登場に注目する。
もはや見慣れた光景だが、今日に限ってはみんなからの視線が痛かった。
なるべく自分の思いを周囲に悟られないよう、愛想をふりまきながら通路を進むミナミナ。
(待っているのは、いったいどんな人なんだろう……)
(大学の手先だから、きっとかっちりしたスーツに身を固めた人じゃないかな……)
(真夏なのに真っ黒な上着をはおって、表情を悟られないよう黒いサングラスをかけて――うん、そう、そんな感じ。すごく事務的で、でも冷酷な感じの人とか、たぶん)
(それとも、ねちねち責めてくるタイプの人かな……だとしたら、ぼさぼさ頭に着崩れたカッターシャツを着てて……目つきが常にうすら笑ってるオジサンとか……ああ、そんなのだったらイヤだな……)
(ううん、イヤとか言ってる場合じゃないのよミナミナ。たとえ事務的な男の人でも、着崩れたオジサンでも――あ、私の気が惹けると思って、意外と若い女の人を送り込んでいたりして――だとしても、ミナミナはイオちゃんのことを決して話したりしないから。頑張るのよミナミナ。あなたにならできる。うん。ミナミナ、絶対イオちゃんのこと、守って見せるから――)
ミナミナは心の中で自分に言い聞かせると、ファンに目配せしながら、徐々に目的の席へ近づいていく。
彼女にはひとつ、疑問に抱いていたことがあった。
なぜ、大学の手先はこの場所――ホワイトテイルを指定してきたのだろう。
まさか、ここがミナミナの通っている店だと――周りに自分のファンがいつも客としてたくさんおり、メイドをはじめとしたスタッフもほぼ全員自分と親しいことを、知らないわけではないだろう。
どうせ大学は、自分のことを脅そうとしてくるに違いない。
それなら、なるべく目立たない場所のほうが――少なくとも、ミナミナの味方のいないところを話し合いの場として選ぶほうが、やりやすかったのではないか。
――まあ、そんなことを考えてもしかたない。
ここなら、自分の味方をしてくれる人はたくさんいる。
万一、力に訴えてこられても、ユラや店のみんながきっと守ってくれる。
本当は迷惑をかけることはしたくないけれど、この店以上に話し合いの場所として安心できるところは無い。
(ホワイトテイルの窓際、一番奥の席――)
店の通路を進むと、ほどなくして、彼女はその席を見つけた。
胸の鼓動が速くなる。緊張感が高まる。
そこに座っているのは、スーツ姿の男か。着崩れた中年か、若い女性か。
それとも――
だが。
席にいたのは、ミナミナの想像していたいずれの人物でもなかった。
「――あれ?」
目を疑うミナミナ。
そこに座っていたのは、小さな外国人の少年だった。
金髪で蒼い目をした端正な顔立ちのその少年は、リラックスした様子で白いカバーのついた文庫本を読みふけっている。
背格好からみて、中学生くらい。むしろ小学生にすら見える、そんな幼い顔立ちだった。
――どう考えても、この少年が大学の送り込んだ手先にはみえない。
きっと手先がやってくるよりも前に、この子が奥の席に座ってしまったのだろう。
それなら、ほかの席に――
ミナミナは周りを見回した。それらしい人物が、近くの席に座っていないかと。
「ミナミナ!」
そのとき。
背後から急に声をかけられ、ミナミナはびくっと反応を示す。
おそるおそる後ろをふり返る彼女。
だがミナミナの目に映ったのは、遠くの席で手を振る彼女のファンだった。
呼びかけに答えてくれたのがうれしかったのか、その男性ファンはいっしょにいた他の仲間とともに大きく手を振ってくる。
ミナミナはすぐさま笑顔をつくると、小さく手をふり返した。表情がこわばっていないかとヒヤヒヤしながら。
いったい、自分を呼んだ人物は、どこにいるのだろう――。
ミナミナはちらと腕時計を見やる。午後四時二分。約束の時間は過ぎている。
もう一度、周りを見回す。だがやはり、それらしき人物は見当たらない。彼女を見つけて呼びかけようとする者もいない。
――待つしかない、よね。
外国人の少年が座っているテーブルのひとつ手前の席が空いている。
指定されていた一番奥の席が見えるよう、ミナミナはそのテーブルの入り口側に座る。
ショルダーバッグを肩にかけたまま、息をひそめるように待つミナミナ。
そこまできて、彼女はふと考えた。
これは、たちの悪いイタズラだったのではないか?
あれだけのことを書いてきて、時間通りにこないなどということは、普通ならあり得ない。
私のことを脅迫しようとするつもりなら、指定した時間より遅れてやってくるなんて絵にならない。
だれかがスタッフの回収した手紙の中に、そっとそれらしいものを忍ばせたんじゃないか。私に対するイヤガラセとして。
似たような手紙は過去にもあった。
彼女が直接見たわけではなく、いつも手紙をチェックしている所属事務所の人から聞いたことがあった。
返事をよこさなかったら死んでやる、とか。いますぐアイドルを辞めないと事務所を爆破する、とか。
これも、そういったものと同じたぐいでは――。
そうだ。きっとそうだ。
ミナミナはそう思い始めると、心の中でため息をついた。
そんな手紙にだまされていたなんて、恥ずかしい。
そもそもあんな手紙、だれにでも作れるものだ。
大学の研究室名だって、テレビに出ていた博士の氏名から所属を調べれば、すぐにわかる。
きっといまごろ、送り主はだまされてここまでやってきた私を想像して、せせら笑っているに違いない。
考えれば考えるほど、いまここにいることがバカらしくなってきた。
もう約束の時間はとうに過ぎている。
向こうが約束を破ったのだ。いや、そもそも来るつもりもなかったのだろう。
私がこれ以上、待つ理由はない。
ミナミナは自分を納得させるように小さくうなずき、立ち上がろうとした。
そのとき。
ミナミナの積み上げた考えをすべて粉々に砕く声が、彼女の耳に届いた。
「――そっちじゃありませんよ」
それは彼女が想像していたものより高く、やわらかい声だった。
ミナミナはたしかに聞こえた言葉にハッとして、顔を上げる。
探すまでもなく、その声の主は、彼女の正面にいた。
ひとつ席を隔てた、その先に。
「一番奥の席だって、書いていたでしょう?」
ミナミナの目に映ったもの。
それは、文庫本を閉じ、端正な顔を上げてこちらに蒼い目を向けた、小さな少年の姿。
中学生にしか見えない、下手をすると小学生にすら見える、外国人の男の子。
彼は少し首を傾けながら、小鳥のような声で、ミナミナに真っ白な明るい笑顔をみせた。
「お待ちしていましたよ。南菜摘さん」




