第30話 無気力男子は保健室のベッドがお好き
じめじめした梅雨の季節を抜け、初夏の日差しがさしこみはじめた頃。
学級内では期末テストに向け、勉強に気合を入れる生徒、はなからあきらめている生徒、問題の予想をしあう生徒などがちらほらと出始めていた、そんな時期。
「すみません、月森先生。今日もいいですか」
雄斗はひとり、教室とは違う校舎の一階にある保健室の前にいた。
扉を開け、中にいるはずの先生に呼びかける。
すると、奥にあるカーテンの向こうから、白衣に身を包んだ背の高い女性が現れた。
「は、はいっ!? あ、柊さんですか? いいですよ、こ、こちらへどうぞ……」
なぜかおどおどした調子で雄斗に丸イスを用意する、椥辻学園第二高等学校の保健室担当・月森先生。
セミロングの黒髪を頭の上でまとめ、黒ぶちの四角く大きなメガネをかけた先生は、イスに座る雄斗を前に、あわただしく机の上に積み重なった書類の山をあさり始めた。
「きょ、今日は何ですかっ? まさかまた、気分がすぐれないとかっ?」
「はい。ってか、それ以外の理由でここに来たことないんですけど」
「あ、そ、そうでしたね? ハハ……あ、これかな……いや違う、こっち……あ、ありました!」
月森先生は紙山の中から、雄斗のものとおぼしきカルテを一枚取り出して、ようやく茶色の大きな革張りのイスに腰を下ろした。
「先生……カルテくらい整理した方がいいんじゃないですか。一応、個人情報だし」
「そ、そうなんですよね……でも、なんというかその、せ、先生、整理が苦手で……」
指摘されしゅんとなる先生。雄斗はあわてて両手を振った。
「いや、怒ってるわけじゃなくて……そんなにへこまないで下さい」
「すみません、柊さん……先生、教師失格ですよね……」
「いや、だからへこみすぎですって……」
生徒の前で頭を下げながら落ち込む先生に、雄斗はいつものことだと思いながらも苦笑した。
ここ一ヶ月ほど、雄斗は昼休みや放課後の時間に、この保健室へ通うようになっていた。
理由は、教室にいるときに襲う不意のめまいと、一日中続く体のだるさ。
授業が終わった後、イスから立ち上がると目の前が真っ白になり、足から力が抜け、倒れそうになる。
なんとかそれに耐えても、あまり教室から外へ動く気になれない。
なにかをする気力が体の奥から失われていくような感覚に、雄斗は近ごろ毎日襲われていた。
普段どおりに生活を送るには、それほど支障は無い。だが立ち座りや激しい運動をした後では、体調の変化が如実に現れた。
特に体育の時間の後は、しばらく動きたくなくなるほどのだるさが雄斗の体にのしかかる。
そこで雄斗は、授業外の時間はできるだけぐっすり休めるよう、昼休みに保健室のベッドを使うようになっていたのだった。
「あの……きょ、今日もお休みになられますか?」
「はい。やっぱりちょっと体がだるいんで……」
「そうですか……」
月森先生はメガネのブリッジを人差し指で上げ、もう一枚の書類を机の上からひっぱってきた。
「先日とらせていただいた血液なんですけど……かなり薄いですね。赤血球もヘモグロビンも、通常の人に比べるとだいぶ低い値です。あの……こ、こういうことお聞きするのも失礼かもしれませんが……その、ちゃ、ちゃんと毎日食べてますか?」
「はぁ……一応、主菜と副菜、ご飯に味噌汁くらいは自分でつくってますけど」
「ひゃあっ! そ、そうなんですね……じゃあ大丈夫、のはず」
「先生」
「はいぃっ!? な、なんですか……?」
「あの……そろそろ寝かせてもらっても?」
「あ、え? あ、そ、そうですね!」
月森先生は驚いたように立ち上がると、なぜかダッシュでベッドのカーテンをひきにいく。
「――どうぞ!」
そしてなぜかこわばった笑みを見せる。雄斗は顔を引きつらせながらも、何も言わずベッドに向かっていった。
この保健室は、椥辻学園の生徒の間でも有名なスポットだった。
保健室には先生の机、長イス、ベッドなどが置かれており、机の横にあるラックにはばんそうこうやガーゼ、包帯が整理されていた。
棚には各種薬品が並んでおり、その中に「キケン!」と書かれた薬ビンや、何に使うのかウイスキーの小ビンも置かれていたが、それでも保健室の風景としてはありきたりなものだった。
ありきたりでないのは、月森先生の挙動だった。
常におどおどしていて落ち着かず、病気やケガで不安になっている生徒を安心させるどころかさらに不安にさせるくらい、この先生はいつも何かにあわてふためいていた。
ただのヒザのすり傷でも、塗り薬を取りにいって手がふるえて床に取り落とす場面を、雄斗はこの一ヶ月ですでに三回も見ていた。結果、生徒の方が逆に不安がり、自分で薬を塗り、ガーゼをあてるような始末だった。
生徒を診察する先生としての資質を雄斗は疑わざるを得なかった。それでも先生がもう十年近く、この学校で保健室を担当しているらしいことを聞いていたため、何かとびぬけた長所があるのだろうと雄斗は考えていた。
たしかに月森先生は、雄斗の症状を聞いてすぐに「貧血」だと判断し、対応した薬を処方したことで、雄斗の症状は一気にやわらいだ(結果、その日イオネラが血を吸えなくなったのだが)。
先日などは、長く続く雄斗の疲労感に、先生は「さ、採血してみますっ!」と注射器を持ち出し、雄斗の血を抜き出して検査にまでかけていた(採血する先生の手元は非常にあやうく、雄斗にとっては悪夢のようだったが)。
普通の高校の保健医ならここまでせず、近くの医院を紹介するのが通常だろう。
だが、月森先生はなぜかいつも自分で診察を行う。
それが高校の保健室で行っていいことなのか、雄斗には分からなかったが、とにかく月森先生は薬の処方から傷の手当てまで、全て自分ひとりの手で行っているのだった。
ただし、その手は常にぷるぷるとふるえていて、非常に危なっかしいものだったが。
月森先生が診断したとおり、雄斗は「貧血」だった。
頻繁な立ちくらみに、全身のだるさ。症状は完全に血の不足によるものだった。その自覚が、雄斗にはあった。
高校二年になるまでは、全くこんな経験は無かった。六月ごろから徐々に発生し、だんだん程度は悪化しているような気さえ、雄斗にはしていた。
そしてそれは、イオネラが家に来て雄斗の血を吸いだした時期と、一致していた。
「先生……」
雄斗はベッドの上に上がり、背もたれに重い体をあずけると、なんとなく口を開いた。
「はいっ? なんでしょうっ?」
「仮に、俺の血が――このまま薄くなり続けると、どうなりますか」
「死にます」
「え」
先生が突然発した冷酷な言葉に、絶句する雄斗。
それを見た月森先生は、少しの間をおいてから、あわてて言いつくろった。
「えっ!? っと……ほ、ほんとにこのままいけばですけど、普通そんなことはないんで……もし本当に柊さんの血が限界まで少なくなったとしても、病院で輸血してもらえばなんとかなりますし、その――」
あぜんとした表情を見せている雄斗に戸惑ってか、よけいにたどたどしくなる先生の言葉に、雄斗はとりあえずうなずいた。
「そうですよね。このままいけば、俺、死にますよね……」
「あ、あのっ、それを防止する意味でも、やっぱり薬は飲んでおいたほうがいいと思うんですよっ! 鉄分と葉酸を補う錠剤がありますから、せめてそれだけでも――」
「いや、すみません。俺、もう薬は飲まないことに決めてるんで」
「そ、そうですか……。どちらにしろ、内服薬では限界がありますし……これ以上症状がひどくなるようでしたら、し、詳細な血液検査を受けた方がいいと思います……よ?」
おそるおそるといった感じで、月森先生が尋ねる。高校生相手にどこまで腰が低いんだと雄斗は思った。
「そう、ですね。このまま続くようなら……」
「ま、万一の場合は輸血しますので、死ぬことはない……ですけど、やっぱりその前に対処した方がいいと思いますし……」
先生の言う通りだ。輸血をすれば、俺は死なずにすむ。雄斗はベッドに入りながら思った。
――ただ、輸血した血はたぶん、イオネラの口には合わないだろうな。
それならいっそ、このまま――
雄斗はまどろみ始めた意識の中で、先の見えない未来にただ身を預けようとしていた。




