第6話 残り香
由香里はすみれの香りを嗅ぐと、
拓真と楽しく触れ合った公園のことが思い起こされた。
もう一度、あの公園へ行ってみたい――
そんな想いに導かれるように、由香里は公園へ向った。
空には、残月がひとつ、
静かに取り残されたように浮かんでいた。
公園へ着くなり、由香里はブランコに腰を下ろした。
揺れるたびに、
決められた世界の中にいる自分と、
自由を夢みる自分が、
心の中で行き来しているように感じられた。
毎日のように習い事に追われ、
決まりだらけの生活が頭によぎっては消え、
よぎっては消えた。
すると、ふと、
拓真と雪だるまを作って楽しく過ごした時間が思い浮かんだ。
一方で拓真は現実を目の当たりにして、先輩と別れ、家路へと向かっていた。
由香里が拓真を思い浮かべるように、拓真も由香里の姿を思い出していた。
残月だけが、二人の上に静かに浮かんでいた。
そして、時は偶然を選ばなかった。
拓真は家路の途中にある公園へ到着した。
そこには、うつむいてブランコに乗る由香里の姿があった。
拓真の胸に淡い灯りが灯しだされた。
由香里は拓真の姿に気づき声をかけた。
しかし、それは言葉になっていなかった。
「あなたは……」
「由香里さんじゃない。どうして、今の時間に……」
由香里は答えの代わりに、拓真の胸へ飛び込んだ。
拓真は一瞬、どうしていいのかわからず、立ち尽くした。
その細い肩が震えているのを感じて、胸の奥が締めつけられた。
そっと、由香里の背に手を回した。
「……大丈夫だよ」
その声は、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。
けれど、そのぬくもりだけは確かだった。
「拓真さん……」
「由香里さん…… どうしたの?」
「私…… 私…… どうして……」
「そんなに泣きじゃくらないでいいよ……」
「わからないの。わからないのです……」
「ベンチに座ろう。僕が話を聞くよ」
「拓真さん……」
「いいよ。ゆっくりでいいよ……」
「私はどうしようもないくらい、世間知らずで…… 辛くて……」
由香里は言葉にならない想いを語り始めた。
「私は何不自由のない生活を送っていました。でも……わからないのです」
「そうなんだね……」
「家柄というものが憎いのです」
「大丈夫、ゆっくり話してごらん」
「私…… 財閥の一人娘で…… 何不自由のない生活を送っていました…… でも、それが飽き飽きして、家を出ました。でも、わからないのです……」
「何がわからないの?」
「私は拓真さんと出会って、何が幸せなのか余計わからなくなりました」
「僕は母子家庭で貧しく育ったから、由香里さんの気持ちが残念ながらわからない……ごめんね……」
「ごめんね。なんと言っていいかわからない。だけど、しばらくこうやって、一緒にいよう。答えは見つからないかもしれないけど、こうやって一緒にいよう……」
「はい……」
「拓真さんはお母さんの姿が見えるのですね。私には生まれてから母親の姿を見たことがないのです……」
「僕と逆だね。僕は父親の姿があまり思い出せなくて……」
「拓真さんは幸せですか……?」
「ああ、僕は生活は決して楽ではないけど、幸せだよ」
「拓真さんが羨ましいです……」
「そろそろ、帰ろう。お父さんが心配しているよ」
「いえ、帰りたくありません」
「大丈夫、僕が送っていくよ。だから帰ろう」
「……」
「じゃあ、今度、また会おう」
「約束してくれますか?」
「もちろんだよ」
「ありがとうございます」
「拓真さん、お願いがあります」
「どうしたの? 突然」
「私……幼いころ、誰かにおんぶされた記憶がないのです」
「……そうなんだ」
「少しだけでいいです。公園を出るまででいいですから……」
「うん、わかった。いいよ」
「ありがとうございます」
拓真は由香里をおんぶした。
「由香里さん……」
「はい」
「僕は幼いころ少しだけど、母親におんぶしてもらって、思い出したんだ……」
「何をですか?」
「子守歌なんだ」
「羨ましいです……」
「ごめんね。また、泣かせちゃったね……」
「大丈夫です」
「そろそろ、ここで降りよう。恥ずかしいからね」
「はい」
「必ず家に帰ってね。僕が心配するからさ」
「……帰りたくありません」
「どうして?」
「まだ、もう少し話がしたいです。それに、私の父は厳しくて、きっと連絡がつかないと思います。習い事にも追われて……なかなか会えないと思います」
「そうか……僕もまた会いたいよ。でも、どうやったら会えるかな……」
「じゃあ、こうしましょう。私が時間がある時は公園のベンチに花を置いておきます。それが合図です」
「わかった。僕は毎日、ここを歩いて通るから、きっと気づくよ。そうしたら、また、ベンチで待っているから」
「はい…… また、話を聞いてください」
「ああ、いいよ。僕でよければ。いつでも話を聞くよ」
拓真は、遠ざかっていく由香里の姿に、ひとつの花を見た。
柔らかな花びらは、風が吹けば飛んでしまいそうで、
かすかな香りだけを残していた。
揺れるブランコが、寂しい余韻を残しており、
空には残月が、静かに微笑むように輝いていた。




