第5話 すみれの想い
由香里は富と地位に溢れた屋敷を飛び出した。
彼女が思いついたのは唯一の友達である美咲の家であった。
到着するなり、恐る恐る、震える指で玄関のベルを鳴らした。
「由香里、どうしたの? こんな夜に」
「美咲さん、助けてください」
「訳を話してみて」
「実は……」
美咲も裕福であったが、由香里が財閥の令嬢であるということを知っていた。
しかし、美咲は以前から桐沢家の黒い噂を聞いていただけに、由香里に関わることを恐れた。
「由香里、ごめんね。由香里はあの家の跡取り娘でしょ」
「どうして……?」
「お父さんはあの政治評論家でテレビでも有名だし……これ以上は言えないわ。ごめんなさい。私は巻き込まれたくないの。本当にごめんね……」
「美咲さん……」
「本当にごめんね……由香里は早く家に帰った方がいいわ。じゃないと……あなたもわかっているでしょ」
「美咲さん、そんな……」
「それじゃ、おやすみ……」
由香里は途方に暮れて、さまようままにネオンが光る街並みへとたどり着いた。灯りは、彼女の影を悲しげに舗道へ落としていた。
「どうしたの? こんなところで?」
「いえ……」
「よかったら、うちはこの辺でもお洒落なラウンジなの。あなたみたいな子は客受けするわ。うちで働かない?」
由香里は厚化粧の女性から声をかけられた。しかし、怖くてたまらなかった。
「いえ、申し訳ありません」
「いいじゃない。あなたみたいな綺麗な子だと稼げるわよ」
「失礼します……」
由香里は走った。涙の雫がはじけるように走った。立ち止まっては夜の世界と自らが育った世界の隔たりが、陽炎のように揺れて見えた。
その頃
拓真は先輩と校舎の清掃をしていた。しかし、様子がおかしいことに気づいた。
「先輩、どうかしたのですか? 元気がないですよ」
「ああ、気のせいだ」
「それなら、いいのですが……」
先輩は何気なく拓真に話しかけた
「拓真、実は今日、付き合ってほしいんだ」
「何をでしょう?」
「ああ、少しだけ夜だが、まあ、行きたいところがあるんだ……」
「どこですか?」
「まあ、案内するから」
「わかりました」
その夜
「拓真、ここだ」
「ここは……?」
「ああ、クラブだ。実はここのクラブに会いたい人がいて、その…… まあ、理由は聞かないでくれ」
「どうして、また、僕を?」
「ここは一人で入れないみたいでな」
そして、先輩は玄関の黒服の従業員たちに声をかけた
「今日は入れないでしょうか? 以前、一人では入れないとのことでしたが?」
「ああ、お連れさまは、どういったご職業でしょうか?」
「はい、清掃会社で働いています」
「申し訳ありません。当クラブでは一定以上の地位もしくは社会的知名度のある方限定となっております」
そこにある男が現れ、従業員に声をかけた。
「ああ、大丈夫ですよ。彼らは私の友人ですから」
「これは、倉沢先生、大変失礼しました」
拓真たちは、倉沢と名乗る男と酒の席を共にすることになった。
しかし、キャストたちのひそひそ話が聞こえてきた。
「ねえ、ねえ、どうして先生はあの飾り気のない服を着た人達と一緒なの? 場違いなんじゃない? やっぱりブランドものじゃないとね」
「駄目よ。聞こえるわよ」
その声は冷たいグラスワインに響くように拓真らの耳に入った。
「おい、拓真。帰ろう……」
「先輩……」
「どうせ、俺らはピエロにすぎないよ……」
「ああ、君ら。わかっただろう。この店がどういう店か?」
「ふふふ、先生、そのためね? 先生も意地悪なんだから」
「まあな。おい、智花、今日は待っているぞ」
「もう、先生ったら、いつもそうなんだから」
クラブ内の冷えた室内に足音が消え去るように響いた。
「拓真。悪かったな。あんな想いをさせて……」
「いえ、大丈夫です。先輩……」
「しょせん。世の中ってこんなもんさ……」
残月が憂いの色を帯びていた。
同じ月の下で、由香里はまだ夜の街をさまよっていた。
すると、目の前にしゃがみこんだ女性に目がとまった。
どうやら、具合が悪そうにしているので由香里は話しかけた。
「どうしましたか?」
「ほっといて……」
「気分が悪いのですか」
「だから、ほっといてって」
「わかりました……」
「あ、待って」
「はい」
「あんたは、男に捨てられたことはないでしょ。そんなにきれいなら」
女性は悪酔いしているようだ。由香里は何も言い返すことができなかった。
「しょせん。家柄の違いよ……」
「家柄ですか……」
「私はどうせ、スナック上がりの女、あの人と釣り合わないの……」
「どうして……」
「あの人は所詮、金持ちのお嬢様を選んだの。馬鹿野郎ってさ」
「大丈夫ですか?」
小雨が降りだした。
「ほら、金貸しな。たった財布に入っているだけでいいから。あんたの帰りのタクシー代を残してねってやつさ……」
由香里は財布を女性に渡した。
「あんたも馬鹿のお人よしだよ。私が返すはずがないでしょ。バイバイ」
由香里は何も言えず、女は去っていった。
ふと足元を見ると、アスファルトに一輪のすみれが咲いていた。
それがあまりに美しく、なぜか拓真と出会った公園のベンチを思い出した。
すみれが、何かを語りかけているようだった。




