プロローグ~第1話~第2話 残月の夜
本作は、象徴的な語りを持つプロローグから始まります。
二人の境遇が、静かに、淡々と描かれていきます。
その静けさはやがて揺らぎ、物語は荒波の中へと進んでいきます。
プロローグ
僕はまたここに来てしまった
月夜の輝くベンチへ
君はもういない
君の面影を探しにここへ
でも、もう君はいない
月は欠けているけれど
僕らは満たされていた
愛とは欠けた月を満たしていくようなもの
決して君を忘れない
第1話 残月の夜
「お父様、ひどい……」
「何を言う、それが由香里の幸せなんだ」
由香里は家を出た。自由を求めて――
行き先もなく、たどり着いたのは公園だった。
それは残月が美しく輝く夜。
由香里は公園のベンチで泣いていた。声も出さずに泣いていた。
そこに一人の青年が現れ声をかけた。
「君、どうしたの?」
「いえ……」
「大丈夫じゃないよ。寒いだろう」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ。もう、夜も遅いから、それに雪もぱらついている」
「あなたこそ、どうして、ここへ?」
「僕は仕事帰りだよ。この公園を通った方が近道なんだ」
「ごめんなさい。そっとしていてください」
「いや、そこのレストランに入ろう」
青年は由香里を説得してレストランに入ることに。
「ほら、ここは温かいだろう」
「はい」
「どうして、泣いていたの?」
「ごめんなさい。それは言えません」
「そうだよね。会ったばかりだし。言えないよね。聞いた僕が悪かった。コーヒーでも飲もう」
そこへ、数人の男性が現れた。男たちはスーツを着て身なりがよい。
「お嬢様、ここへいらっしゃったのですね? ずいぶん探しました。お父様も心配していらっしゃいます。早く帰りましょう」
「嫌です。嫌です……」
「お嬢様、子供みたいなことを言わないで」
「私はもう家には戻りません」
「いえ、あのお方も心配していらっしゃいますよ」
「だから嫌なのです」
男たちは青年にも声をかけた。
「どうして、あなたはここに?」
「いえ、彼女が外で凍えていたからです」
「そうでしたか、ありがとうございます。お嬢様とはお知り合いですか?」
「いえ、違います」
「これはお礼だと思ってとっておいてください」
「いえ、受け取るわけにはいきません」
「そうですか…… ところで、お嬢様、帰らないとこちらの方にもご迷惑をおかけすることになりますよ」
「どうして、あなたたちは……」
「仕方ないのです。これも私たちの仕事ですから」
「わかりました……」
由香里は男性たちに連れられてレストランを後にした。
残月が皮肉にも美しく輝いていた。
第2話 二人の境遇
「拓真、今日は遅かったじゃない、また、残業?」
「そうなんだ、でも、残業があるくらいがいい、生活が大変だからね。それに僕はまだ新入社員だから、仕事を早く覚えないと」
「無理だけはしたら駄目だよ、身体を壊したら大変だからね」
「ああ、大丈夫だよ。母さん。それより、母さんもパート勤めは大変だろう? もういい年しているから」
「そうね……そろそろ、ゆっくりしたいけどね。うちが母子家庭で貧しいばかりに、拓真には大学に行かせてあげられなかったよ。本当にごめんね」
「いいんだよ。母さん、僕は幸せだよ。父さんが亡くなったから仕方がないじゃないか。貧しくたって、生活を切り詰めていけば何とかなるし、それより、母さんこそ、体を壊さないで長生きしてね」
「ありがとう、拓真」
北風は冷たく吹いていた。それでも拓真は幸せだった。貧しくとも幸せだった。
一方で由香里は恵まれた環境で育った、しかし、心の中にはいつも冷たい風が吹いていた。何かに怯えているかのように。
「お嬢様、茶道のお稽古の時間です」
「北村さん、今日はお休みできないかしら」
「いえ、ご主人様からお叱りを受けますので、それはできません」
「わかりました…… でもどうしてなの……」
「お嬢様……」
由香里は羽を取られた蝶のようだった。自由に飛ぶことさえ許されない蝶だった。
拓真は小さな清掃会社で働いていた。
「おい、拓真、今日は東京大学が現場だぞ」
「はい」
「まあ、俺たちにとっては遠い場所だな……」
「そうですね……」
「お前も確か高卒だったよな?」
「はい」
「まあ、ここにいる奴は住む世界が違うのだろうな。少なくとも俺たちのような仕事はしないだろう」
「そうですね……」
「俺ももう少し勉強をすればよかったな。でも俺もいろいろあったからな」
由香里は大学へ向かう途中、送迎車の中で父親と会話していた。
「由香里、東大には慣れたか?」
「はい、でも、友達ができなくて……」
「寂しいか?」
「はい……」
「まあ、今は仕方がない。どうせ、所詮は金だ。金があれば誰でもついてくるさ。だからあの方もな」
「お父様、それだけは嫌です。どうして私を苦しめるのですか?」
「何を言う。それがお前にとって一番の幸せなんだ」
「お父様……」
東京大学では雪が降っていた。それはまるで由香里の心に何かを告げるように。
足音も立てずに何も起きないように降っていた。
「じゃあ、由香里、大学へ到着したな。行ってきなさい」
「はい……」
「由香里、おはよう」
「美咲さん。おはようございます」
「由香里、もう、そんなにかしこまってないで、美咲でいいのよ。何度も言わせないで」
「はい」
「はい、じゃなくて、うん、よ」
「そうですね」
「もう、桐沢財閥もいいところよ。由香里のお嬢様ぶりは誰も勝てないわ」
雪は拓真の心にも降っていた。
「拓真、こんな冬に校舎の拭き掃除は辛いな。俺も恋人の一人でもほしいよ。お前は恋人は?」
「いえ、まだ、いないです」
「ここには、お前と同じくらいの若い子が、いっぱいいるじゃないか。でも俺たちとは遠い存在か……」
「そうですね……」
「そんなに落ち込むなよ。そういえば、これを持ってきたんだ。寒い時はこれに限るよ」
「それはお茶ですね?」
「いや、この水筒に入っているのはお酒だよ。これが一番体を温めることができるよ。よし、少しだけ飲もう」
「先輩、まずいですよ」
「大丈夫だ。なあ、拓真、俺たちは決して恵まれた仕事じゃないかもしれないけど、楽しいじゃないか。酒もこうして飲める」
「先輩、そうですね!」
「そうだ、その明るい表情だ」
「はい」
由香里の知人、美咲は拓真の存在に気づき由香里に話しかけた。
「由香里、ほら、見て。こんな寒い中、校舎の窓吹きをしている人たちもいるのよ。間違ってもあのようにはなりたくないわ」
由香里は拓真の存在に気づいた。
「でも、由香里、楽しそうね」
「私も自由がほしい……」
「待って、由香里。どうして泣いているの」
雪が降っていた。




