【2】気にかかる色
突然の声に思わず振り向き、後退る。
「え……あ、うん……」
クロッカスの美しい髪と瞳に驚き、戸惑う。
──この色……。
「そう、貴男が『留』なのね! ……あ、こ、ここは、どんなお店なの?」
「宿屋……だけど……」
ふと、少女は留の背後を見上げ、
「今晩、二部屋空いているかしら?」
と微笑んで──言葉がスルリと耳を通過して、すぐには意味を理解できなかった。
『部屋空いているかしら?』
これまで店番をしていたときに幾度となく、それこそ耳にタコができるほど聞いた。そう理解すれば体が反応し、口が勝手に動く。
「あ……はい! 二部屋、ですね。ご用意できますよ」
口が動けば、顔も動作もまるで自動かのように動き、しみついている対応が連鎖する。
少女は安堵したように笑って、『用事を済ませて戻ってくるわ』と律儀に一礼した。そして、後方の待ち人のもとへと走っていった。
忙しいのに、なぜか少女の背を見送っていた。
慌てて買い物に向かうが、意識はどこか上の空だ。
少女の持つ色彩は、父と同じ──と思ったからか、胸が何やらうるさい。
それに、ほんのりと寂しさが残った。
きっと、父との別れ際と重なった。
──本当に、来る……かなぁ?
なぜか、からかわれたような気にもなって。
どうしてか、また会えたらいいなとも、どこか落ち着かず。
一通り買い物を済ませ店に戻り、祖父に『宿泊で二部屋を仮押さえする』と申し出る。
「用事を済ませてから来るって」
「名前は聞いたか?」
祖父の問いにハッとした。初歩中の初歩なのに、うっかり忘れたとしか言えない。
咄嗟に謝罪する。
「ごめん、じぃちゃん!」
祖父は『珍しいな』と言って、『仕方ねぇ』と許してくれた。
──どうして、こんなミス……。
いきなり名を確認され、意識をとられたせい──いや、少女に関心を向けられたと錯覚し、浮かれた。
チクンと、胸が少し痛んだ。
ただ、この痛みをうまく言葉にはできなかった。
昼と夕刻の間くらいになって、あの少女が顔を出した。二部屋を無駄にせず済んだと安堵し、
「じぃちゃん、あの子だよ」
とポソリと伝え、『いらっしゃい』と来店を歓迎する。
たが、祖父の声に記帳する手が止まった。
「おい、留。あのおふたりさんは、離れの奥だ」
祖父は横から帳簿に上得意の印を付けた。
祖父の指定した部屋は、特別な部屋。掃除をしに行ったことはあるが、あの部屋に泊まる客の対応をしたことはない。
出入り口も個別にあるくらいの特別室だ。
とても少女が払えるような額ではない気がして、口が滑る。
「え、じぃちゃん、この部屋……一番高い部屋じゃ……」
「いいから! な、そこの旦那?」
祖父が話を振ったのは、少女のとなりにいる長身の男性。
黒髪のその男性は、きょとんとする少女を一度見、
「ご配慮に感謝します」
と言った。
よく見れば父と同年代のようなのに──父のように、異次元の人物と例えていいほどの美形だ。
──美男美女……って、こういうふたりをいうんだろうなぁ……。
それでいて、店の一番高い部屋でも迷いなく泊まれる。世間で言われる『美形は力も財力も持たない』というのは、嘘なんだろう。
──いけない。一歩も二歩も、お客に主観を持っちゃった。
留は咄嗟に視線を逸らす。
麗人は腰に剣を携えていた。
鍛錬の賜物なのか、体もガッシリとしていそうだ。
少女と親子ほど年が離れていそうなのに、親子には見えない。それがなぜか胸の奥でザラザラとした。
──色だけ見れば……。
留と父、男性と少女の持つ色を比較すれば、色が逆転している。
色彩のせいか、妙に父を思い出す。──会いたいとも浮かぶ。
ただ今は仕事中だ。
──接客中!
自身を戒め、強制的に頭を切り替える。
そうこう接客しているうちに、美男美女は離れの方へと姿を消した。
バタバタと、夕食を各テーブルに運ぶ時間になった。慌ただしく動いていると──あの少女の姿を食堂で見かけ、思わず声が出そうになった。
──離れに泊まるお客は、わざわざ食堂に来ないはずなのに……。
それに、出会ったときや、店に来たときとは違い──美男美女が平民を装うかのような身なりをしている。
瞬時とまった視線。
だが、妙にズキリと胸に痛みが響いて、視線を外す。
少女は第一印象より幼く、ずいぶん年下に見えた。
しばらく目が泳いでしまった。
──ああ、もう俺……どうしたんだろう。
落ち着かない。しかし、油を売っている暇はない。料理を運ぶのが遅れれば、祖父は躊躇いなく調理場から出てきて運んでしまう。
忙しさに心が溶け、あっという間に時間が過ぎていた。食堂を閉める時間が近づいている。料理の追加注文も落ち着き、ラストオーダーの時間だ。
留は各テーブルに回る。
同じ言葉を繰り返し、オーダーが入れば祖父に伝えに行く。そんな、何度目かのラストオーダーの確認に向かう途中で、少女が座っていたはずの席に目が動いた。
そこには、クロッカスの色彩はなく──別の客が座っている。
──あ。
もういない。認識した次の瞬間、そういえば今座っている客にも、料理を運んでいたと気づき──ふと止まった自身を微笑する。
「ラストオーダーの時間です。何かご注文はございますか?」
「ああ、じゃあデザートをいただこうかな」
「ありがとうございます」
にこやかにオーダーをもらい、祖父に伝える。すると、
「留、今日はもう上がっていいぞ。明日は留が朝だろ?」
と労われた。
今日は気持ちがどうもザワザワしている。
だから、甘えることにした。
「ん……ありがとう。おやすみなさい」
留は気持ちの揺れに、答えを出さないことにした。
──答えを出そうとしたところで、出したところで……解決にならない。
先に結果が出ていると、踏み込まない方を選んだ。
──なるべく早く寝よ。
滞りなく寝る支度をし、布団に入る。リラックスしつつ、明日の行動を脳内で組み立てているうちに、留は眠りに落ちる。
迎えた翌朝。留は眠気に逆らい、目覚まし時計を即座に止めて起きる。
少しぼうっとしたまま着替え、眠気を水で流して仕事に就く。
帳簿を開いてチェックしていると、
「また来てもいいかしら?」
と、あの少女の声がした。
顔を上げれば、やわらかそうなクロッカスの長い髪が映る。
姿勢を正して向き合えば、作り物のようなかわいらしい顔立ちも。
一晩明けて、少女は出会ったときのように、きちんとした身なりをしていた。
──あのとき、もしかしたら名前を聞かなくていいってことだったのかな。
今頃になって、祖父が一目で上得意の印を付けたのを納得する。
「もちろん。またのお越しをお待ちしております」
留はあくまでも接客として返す。
深い意味のない言葉だと、知っている。ああ言った客が来ないのは、よくあることだ。
だから留は、微塵も期待せず返した──のに。
早起きしてきた祖父は、
「あの娘さんと旦那は、あの部屋固定な」
と、言った。
祖父の予言まがいな発言通り、しばらくして少女はまた現れた。
そうして、ポツンポツンとあの麗人と一緒に来て──三回目くらいだろうか。信じられないことが起きる。
「何時に終わるのかしら? 少しだけ、お話できないかしら?」
なんて、少女に部屋に誘われた。
これにはさすがにハッキリと断ったが、
「じゃあ、営業の最後に、貴男にお茶を入れてほしいとお願いしたら?」
と、『仕事』と言われれば断り切れず──。
少女は会話がうまく、気付けば互いに名で呼び合うようになっていた。
「留のことなら何でも知りたい」
と言われ、話せる限りのことを話す。
そうして翌朝。少女が綺を後にしてから名を思い出して、違和感を覚えた。
──庾月……。
珍しい名なのに、どこかで聞き覚えがある。
「あ」
きちんとした身なり。
祖父の上得意の印。
──どこかの『姫』だったんじゃ……。
貴族とは無縁の大陸で生まれ育った留でも、何となく聞いたことのあるくらいだ。父と同年代くらいの美男は、護衛だったのだろう。
それからまた庾月はやってきて。
変わらず祖父の指示のまま奥の離れの部屋を用意するのに、町娘のような格好で食道に現れて。
お茶の時間は、何回も繰り返されて──同席していた美男が、ある日忽然と同席しなくなった。
そうしてまた、何回目かのお茶の時間で、庾月がこんなことを言う。
「私、留のことが好きよ」
何も庾月のことを知らないと聞いたところで、庾月は明確には答えない。
その代わり、こう言った。
「年齢も出身も別にして、ただ私をどう思っているかを考えて」
こんな、どちらが年上かと言いたくなるような諭され方をされ──。
『自身で決められる』という、人生で初めての状況に──留は考え込んでしまった。




