★【1】転機の音
「気をつけてけよ、留」
祖父は、留がいくつになっても変わらない。大きな声はよく通り、外にまで聞こえる。
「うん! じぃちゃん、行ってきます!」
手を振りつつ出、いつの頃からか日課になった買い物に向かおうとしてすぐ──。
「ねぇ! 貴男……留と……留と言うの?」
ひとりの少女に、声をかけられた。
突然の声に思わず振り向き、後退る。
「え……あ、うん……」
クロッカスの美しい髪と瞳に驚き、戸惑う。
──この色……。
「そう、貴男が『留』なのね! ……あ、こ、ここは、どんなお店なの?」
「宿屋……だけど……」
ふと、少女は留の背後を見上げ、
「今晩、二部屋空いているかしら?」
と微笑んで──言葉がスルリと耳を通過して、すぐには意味を理解できなかった。
『部屋空いているかしら?』
これまで店番をしていたときに幾度となく、それこそ耳にタコができるほど聞いた。そう理解すれば体が反応し、口が勝手に動く。
「あ……はい! 二部屋、ですね。ご用意できますよ」
口が動けば、顔も動作もまるで自動かのように動き、しみついている対応が連鎖する。
少女は安堵したように笑って、『用事を済ませて戻ってくるわ』と律儀に一礼した。そして、後方の待ち人のもとへと走っていった。
なぜか少女の背を見送っていた。
慌てて買い物に向かうが、意識はどこか上の空だ。
少女の持つ色彩は、父と同じ──と思ったからか、胸が何やらうるさい。
それに、ほんのりと寂しさが残った。
きっと、父との別れ際と重なった。
──本当に、来る……かなぁ?
なぜか、からかわれたような気にもなって。
どうしてか、また会えたらいいなとも、どこか落ち着かず。
五歳のとき、父と初めて会った。
「留」
祖父の呼び声に──まるで、自分が呼ばれたかのような反応をした人だった。
根拠もないのに、『この人が父だ』と──あれは一種のテレパシーのような、何とも言い難い体験だった。
その人が一泊したときは、なぜかとてもソワソワして──思い返せば、一緒に住めるのかもしれないという期待と、どこかに連れて行かれるのではという不安だったのだろう。
『話したい』
『息子と認めてほしい』
そんな願望があった。
結局、接点を持たないまま父は出ていき、咄嗟に追いかけて──。
あれは、強引に願望を叶えに行ったんだと──十五年経ってからふと浮かんできて、何だか笑ってしまった。
いつも、雑多な音が流れている。
宿屋のお客の談笑。
賑やかな音楽。
買い物に出れば、人々の喧騒。
船の大きな汽笛。
大きな汽笛は正午の合図になっていて、町の人たちの流れが変わる。
風に強く吹かれたかのような衝撃を受けながらも、歩く。
通り過ぎていく音。
途切れない音。
行き交う足音。
誰かが、呼ぶ声──親子連れの姿に、つい視線を泳がせてしまう。
『悪い癖だ』とひとり笑い、抱えた買い物袋を段差の上に置く。
ひぃ、ふぅ、みぃと物を数えるように見直し、
「よし、大丈夫」
と、また両手で荷物を抱える。
向かうのは町の終わりの方角。
港を背に、歩く。
──ああ、帰ったら忘れずに二部屋押さえなきゃ……。
留はどこかぼんやりしながらも無事に一通り買い物を済ませ、店に戻る。
やがて全体的に赤く、丸みを帯びた大小の飾りがいくつも吊り下がっている建物が見えてくる。
大きく『綺』と書かれた宿屋が生家。こけしのような、それでいて異様に大きい置物が、まるで名物かのように置いてある。
ためらわずに入り、紅葉のような赤に包まれて進んでいく。大きいこけしのようなものは、通り道に連なっていて、微妙な顔の違いに安堵する。
守り神に見守られているかのよう。テキパキと買ってきた日用品を片付けていく。
そうして食料だけになったところで、また場を移す。
陽気な曲が、体に吹きかかる。細くやや暗い道は、従業員専用の通路。裏方ゆえの利便。
食欲をそそる香りが漂い、一気に空間の温度も上がった。
料理場に、恰幅のいい白髪の男性が立っている。
「じぃちゃん、ただいま」
「おう、お帰り。今日も買い物ありがとな」
首を左右に軽く振り、『そういえば』と続ける。
「今日店に泊まりたいって声をかけられた。用事を済ませてから来るって言うから、宿泊で二部屋を仮押さえするね」
買ってきた食料を祖父の手の届く場所に置きながら話せば──。
「名前は聞いたか?」
祖父に言われてハッとした。
初歩中の初歩なのに、うっかり忘れたとしか言えない。
咄嗟に謝罪する。
「ごめん、じぃちゃん!」
祖父は『珍しいな』と言って、『仕方ねぇ』と許してくれた。
──どうして、こんなミス……。
いきなり名を確認され、意識をとられたせい──いや、少女に関心を向けられたと錯覚し、浮かれた。
チクンと、胸が少し痛んだ。
ただ、この痛みをうまく言葉にはできなかった。
「あ、料理運ぶね」
ちょうど料理が完成した皿を、手に取る。
食堂を見渡せば、今日も大盛況だ。
「ああ、それ『三番』さんだ」
祖父の声──ガヤガヤ響く食堂の賑やかさが混ざってきて、心が分断した。
「はーい」
愛人の子──と思ったことはない。
「はい、チャーハンお待ち」
ただ、『隠し子』だという自覚はある。
「おお、留。最近また身長伸びたんじゃねぇか?」
生まれてからすぐ母は他界し、父は──。
「まさか。俺……」
知っているけれど、『言ってはいけない』と生きてきた。
「今年もう二十一だよ。伸びないよ」
『そうかぁ?』なんて──楽しそうな声は、忙しさで消えていく。
「ほら、留も食っちまえよ」
昼のピークが過ぎ、祖父が残った材料で餃子を焼いていた。
近場から椅子を持ってきて、小休憩のように座る。
「じぃちゃんはいつも器用だよね。何が残ってもおいしく作る」
口に入れれば、『家庭の味』がしみ込んでいく──。
父には別の家族があった。
家族構成も知っている。
年長の子とは、一年も差がない。けれど、こうなった理由も知っている。父は──。
ひとつ、母がすでに『亡くなった』と聞いていた。
ひとつ、世界に君臨する城の長男だった。
ひとつ、そもそも婚約者がいた。
偶然が重なって父と母は付き合い、離れ、父は『いるべき場所へ戻った』。
それだけだ。
経緯はザックリ聞いただけでも情報過多で、詳細を聞いたとしてもかみ砕けそうにない。ただ、父は──。
ひとつ、母を捨てたわけではない。
ひとつ、子がいたと知っていたわけではない。
これだけで、父を恨まない充分な理由になって。自身を下げ荒まなくていい理由になって。これ以上に何か理由が必要かと思えるほどの理由で。
だからだろう。
父の家族をうらやましいとは思わず。父が幸せでいてくれるなら、それでいいと思えるのは。
この世に生を受けたことは、奇跡だった。
昼と夕刻の間くらいになって、あの少女が顔を出した。二部屋を無駄にせず済んだと安堵し、
「じぃちゃん、あの子だよ」
とポソリと伝え、『いらっしゃい』と来店を歓迎する。
たが、祖父の声に記帳する手が止まった。




