【6】見てきた世界の違い
キュウと抱き締めれば、庾月の腕にも力が入ってきた。
具体的な悲しみを庾月がポソリポソリと言ったから、
「そんなに……焦ることでもないよ」
と返す。
それでも庾月は変わらず、まるで落ち着かないと言うかのようにピッタリとくっついている。
「俺は庾月とふたりのままでも、うれしいからね」
そっとなで、
「無理に店に出なくていいんだよ」
と、今度は脈拍を刻むように背を軽く叩く。
フッと庾月の力が抜けた。
──ようやく……少しは落ち着いたかな……。
留も腕の力を抜いて、庾月の様子をうかがう。
見れば、庾月はグズグズと泣いていた。目も鼻も赤くなっている。
「さみしい……」
聞き取りにくいが、庾月は確かにそう言った。
その様子に、留はふと笑ってしまって、
「じゃあ……客席に座っているのは、どう?」
と聞く。
──駄目だな……。庾月がこんなに弱っているのに、かわいいと思うなんて。
それに『そばにいたい』と言われたようで、妙に恥ずかしい。
「付き合う前みたいで、照れるけど」
留だけが、当時に戻った気になる。あのときはまだ、恋と自覚していなかった。懐かしい記憶だ。
──でも、もう……結婚したんだよね。
付き合っていたときは、こんな未来に辿り着けると想像もしていなかった。
感覚の差がおかしくて、急激に愛しさが増してくる。
片方だけ足を立て少し伸ばし、ベッドの上に乗り上げる。庾月に顔を近づけ、口元に唇を触れさせた。
庾月はハッと我に返ったかのように、涙を拭く。
「顔……洗ってくるわ」
スルリと留の腕からすり抜けた。洗面台へ一直線に走っていく。
──やっぱり、元気がないなぁ……。
ほどなくして戻って来た庾月は、『一緒に行く』と言った。
留は手を繋いで、散歩をするようにゆっくりと歩く。
カウンターが見えてきて、祖父の姿も見えてきた。
「おはよう」
留の声に祖父が顔を上げ、からかうように笑う。
「朝からずい分アツアツじゃねぇか」
これまでの留だったら否定をしただろう。しかし、今日の留は苦笑し、サラリと返す。
「まぁ……新婚だからね。じぃちゃんのお陰で」
『それで』と留は続け、柚子の体調が万全ではない旨と、
「できれば、休ませたいんだけど……」
と、意見を添えた。
祖父がチラリと庾月を見る。
「おう。具合が悪いときは無理せず休みな」
祖父の目から見ても体調不良は一目瞭然だったのか。祖父は庾月を気遣ってくれた。
一方の庾月は『はい』と返事をしても、声に元気はなく。尚且つ、『できることはします』と言って、柚子は負担の軽い仕事を始めた。
庾月が少し遠くに行ったころ、祖父がボソリと呟く。
「しっかし、珍しいな。柚子が自分で言わないなんてよ」
「不安なんだよ……たぶん」
留にも心当たりがある。
「体調悪いときって、心も弱るでしょう?」
『へぇ~』と祖父はニヤニヤし、
「ああ、だからちょっとでも留のそばにいてぇのか」
『なぁるほどなぁ!』と、あっはっはと豪快に笑い始める。
その明るさに、留の頭の霧が晴れた。
──ああ、そうか。
留は庾月の姿を遠目から眺める。
幼少期、体調が悪いのに祖父から離れなかった己と重なる。あの頃、祖父に『寝てろ』と言われたのに、柚子と同じようにできることをしていた。
──誰かに、捨てられてしまったら……という恐怖は、俺も知っていた。
はずなのに、いつの間に忘れていたのか。
──いくら結婚前から綺で働いていたといっても……庾月は、嫁いできた、みたいな状況だ。
船は決まった時間にしかこない。
言ってしまえばこの大陸に、庾月の居場所は綺しかない。
留は庾月の背を視界に入れて歩いていく。手の届くところまできて、そのまま抱き付いた。
驚きの声がちいさく聞こえた気がしたが、留は構わず抱き寄せる。
「俺たち、もう家族なんだからね」
庾月の不安をどうしたら消せるのか。懸命に考える。
「仕事中だからって、庾月のことを忘れたりしないよ」
耳元で囁いた。誰にも名が聞こえないように。
そうして、これまで言う機会がなかったと反省しつつ続ける。
「だから、何日休んだって……いや、そうじゃなくて。あのね、俺のお嫁さんだからって、働かなきゃいけないわけじゃないんだからね?」
これまで庾月があまりに自然に働いていてくれたから、話し合ってこなかった。
「それに、俺は好きで働いているんだから」
「私も」
庾月がポソリと言ったから、包む腕がゆるんだ。その隙に、庾月が反転して──留の腕はスルスル下がる。
「私も……好きで働いているの……」
なぜかジンときて、庾月に見惚れていたら──。
「柚子は、『留が好きで見ていたいから』働いているんだろ」
祖父の横やりに、庾月は真っ赤になって。それは、留にも伝染した。
結局、庾月にいつものような明るさは戻らなかった。
そのまま数日が過ぎ、仕事終わりに留はため息がもれる。
──今日も、元気が戻らないままだったな……。
でも、無理に元気になってもらっても仕方ないわけで。庾月を心配しながら、これからも寄り添おうと決意する。
手を繋いで部屋に戻り、一通り寝る準備を終わらせて、
「おやすみ」
ベッドの中でも手を握る。
すると、庾月が距離を縮めてきて、留をジッと見つめてきた。
こんな状況は初めてではないのに、妙に緊張してきてしまって。微かに感じる呼吸の苦しさに戸惑いを感じる。
なぜか心が追いついてこない。
ふいに庾月が唇を重ねてきて──これまでだったら留も同様に返していたのに、急ブレーキがかかってしまった。
咄嗟に庾月と距離を取り、ハッとする。
「いや、その……嫌っていうわけじゃなくて。庾月がそう……思ってくれるのは、本当にうれしいし、本当に嫌じゃない。俺だって庾月が戻ってきてくれたとき、その……結婚前日なのに、変な言い方したし。さみしいと……その、わかるっていうか。ただ、結婚してからも俺、浮かれすぎてたんじゃないかなって……思うところもある」
『でもね』と続け、自身の気持ちを探す。
「俺は庾月とこうやって話せたり、一緒にいられたりするだけでも充分うれしくて……手を握れたり、ハグができたり、触れ合える距離にいられるだけでも、充分幸せで。そういう感覚も、大事にしていきたい」
庾月が元気がないから、そっと寄り添っていたい。勢いでしなくないと話しながら気付いて、気持ちを整理しつつ伝えた──のに。
一方の庾月は、じんわり涙目になっていく。
「庾月、何か……焦ってる?」




