【2】一緒にいる時間
言いにくそうに何を言ったかと思えば、そんなこと──。
──ん?
改めて頭を整理する。
重大なことだ。
──思い返せば俺……庾月の部屋で一晩過ごした、なぁ……。
何をしたかと思い出せば、打ち付けるように鼓動は強くなる。心の乾きが体にまで伝染したと受け止めていたが、逆だったのかもしれない。
スッと、庾月の視線が下がった。
──あ。
『駄目?』と聞かれ無言だった。
庾月が拒否されたと思ってもおかしくない。
「あ、あのさ……ごめん。俺から言えばよかったね」
後手に回ってしまった。不甲斐ない。だから、遅れた一手を少しでも巻き返せるようにと、一言加える。
「必要な荷物から、一緒に移動しよ」
苦しいほど胸が高鳴っている。触れたい欲求も強くなっている。
けれど、庾月が純粋に喜んでくれて──少し、和らいだ。
留の部屋の扉を開け、一先ず入り口付近に荷物を置く。そうして、『何か取りにいく?』と聞いたが、扉がパタリと閉まった。
その直後、庾月が不意打ちで唇を重ねてきて──留は心臓が止まりかける。
「一緒にいる時間より大事な物なんてないわ。戻りましょう」
『必要な時間は今使った』と言うかのように、庾月は扉を開ける。
留は一歩出遅れてしまった。綺では初めてだったと、妙に意識してしまって。
まったく落ち着けない。
庾月と一緒にいるのに。
仕事に戻ると、庾月の姿を見た常連客が、
「お、柚子ちゃん帰ってきてくれたのか。よかったなぁ!」
と、留に声をかけてきた。
一度声がかかれば、二度三度と次々に言われ──お陰で留は、徐々に冷静さを取り戻していけた。
そんな中──ふと、視線を感じて振り返る。
庾月がジッと留を見ていた。
どこか物欲しそうな瞳は、なぜか留の心拍数を上げる。
瞳が固定される。
吸い込まれそうになる。
キュッと胸が締め付けられ、込み上げる苦しさに、もう抗えないと認める。
テーブルクロスを持ちながら、手がおざなりになっている庾月へと向かう。
そして、備品を取るふりをして、庾月の耳元に顔を近づけた。
ポソリと庾月にだけ聞こえるように囁く。
「今夜、えっちしよ」
チラリと横目で見ると、庾月の瞳から欲求が消えている。その刹那、ふにゃっと破顔した。
──『柚子』の表情だ。
かわいいと見ていると、庾月は我に返ったかのように『あっちのテーブルで呼んでいるわ』と、小走りで別のテーブルへと行った。
留はサッとテーブルを整える。横のテーブルにある食後の皿をひとまとめに重ね、流しへと持っていく。
すると祖父が、
「何かすけべなこと言っただろ?」
と肘でこづいてきた。
「言ってないよ」
サラリと答えたつもりが、幸せを抑えきれず。流している水のように、幸せが顔からあふれた。
仕事が一区切りつき、留は翌日の準備を整える。久しぶりにテキパキ動けたとうれしくなって、つい余分に整えてしまい──遅くなってしまった。
自室に入ると、先に庾月がいて。ベッドに座り、本を読んでいた。
ベッドと箪笥、それに多少の雑貨と日用品。そのくらいしかない見慣れた空間なのに、部屋が狭く見えた──のは、恐らく先日、庾月の部屋で過ごしたからで。
あの幸せな時間は忘れられないのに、どうにも現実味がなくなっている。
「ごめん、待たせちゃったね」
留の詫びに対し、庾月は首を横に振ってくれた。
──今日は疲れただろうな。
船に長く乗って来たあと、元気いっぱいに仕事をしてくれていた。
それなのに、こうして待っていてくれて。
だから、労いたいとつい──。
「先に寝ててもよかったのに」
ほんわりと留は告げた。
直後、『え』と聞こえた気がして、顔を向ける。
庾月は目を見開いていた。
「忘れちゃったの?」
一瞬、何のことかと留は停止した。
ぼうっとしつつも、頭はフル回転だ。慌ただしく脳内の引き出しを開けているのがわかる。
すると、答えは早くに見つかって、
「忘れてないよ」
と返す。
ただ、あの発言は、留の中では愛情表現だった。
『好き』でも『大好き』でも、『愛している』でも不足で。ああ言うしかできなかった。
しかし、改めて言葉を復唱してみれば──言葉通りに伝わると考えた方が正しいだろう。
庾月の心を弄ぶ結果にはしたくないと、すぐさま心の向きを定める。
──悪いこと言った。
一方で、発言を悔いている。本当は、あと一日くらい待てると思っていた。
明日は庾月の誕生日だ。ようやく結婚できる。
庾月も約束通り戻ってきてくれたのだから。
やっぱり、一区切りはきっちり守りたい。
それなのに──。
体からどんどん水分が抜けていくような、耐えがたい苦しさに襲われてくる。
──この感覚……。
庾月と離れたのは、たった数日間だったのに。一体どうしてしまったのか。心までソワソワしてくる。
「シャワー浴びてくる」
「それなら、私も」
すぐに返ってきた言葉の破壊力が大きい。
自戒する。反射的に膨らんでしまった身勝手な想像を。
いや、庾月からすれば、営業時間中に聞いた言葉の方が大きかっただろう。
「いや……」
足が向く。もう庾月へ進む足は止められない。
肩に触れて、前傾になって。
吸い込まれて、きゅうっと抱き締めた。
偽れない。
本当は、隠したままでいたかったけれど。
「寂しかったんだ。すごく……思っていた以上に」
庾月の髪を頬で触れて、じんわりと体に潤いが戻っていく。
「信じていたのに……信じてるのに。『もし、このまま庾月が来なかったら』なんて……思ってしまって……」
スルリと腰に手が回ってきた。
キュッと抱き締められて、同じくらい胸が締め付けられる。
「私は単純ね」
上品で、寂しそうな庾月の声が、ゆったりと聞こえる。
「留の一言で満たされて、楽しみにして……ウキウキして一日が終わったのよ?」
『柚子』のときも当然好きだが、今が正真正銘『庾月』で、留が恋をした相手だ。
「貴男がまっすぐ私を見てくれているように、私も貴男をまっすぐ見ているわ」
何てやさしく愛を囁くのか。
心が震えている。求めている。
──もっと離れたら、俺どうなっちゃうんだろう……。
「キスしていい?」
留が見つめれば、
「うれしい……」
と、庾月は照れて、留の服をつかんだ。
朝日で留は目を覚ます。ふわふわしたものが顔に触れて、となりを見れば──となりで庾月が眠っている。
非現実的だった幸せな時間が、ようやく現実に戻ってきた。
庾月の頬をちょんちょんと指で触れて、寝顔を堪能する。
小さい鼻がかわいいとか、眉毛の形もきれいだとか──他人が褒めないようなところまで、すべて愛おしいと頬がゆるんで仕方ない。
けれど、仕事もきちんと頭の中にあって。チラリと時計を見ては、間に合うように行かなくてはと意識を置く。
そうしているうちに庾月がもぞもぞ動き──大きな瞳がゆっくり開いた。
「誕生日おめでとう、庾月」
頬と口元をゆるめた庾月は、スッと留に抱き付いてきた。
「最高の誕生日の始まりだわ」
庾月が照れているのが伝わってくる。
「よかった」
頭をなでれば、このままふたりで過ごしたいと思うほど感情が高ぶってくる。
「最高の一日にしよう」
離れるのを惜しんで身支度を整え、庾月とカウンターへ向かう。
祖父に出会い、あいさつを交すと、
「入籍の手続きが無事に済んだと、連絡があった」
と誇らしげだった。
口ぶりからして、大臣からの連絡だったのだろう。
──ん? 俺たちが結婚するって言ったあと、じぃちゃんが頻繁に連絡を取っていたのって……。
留は核心に触れ、祖父があっての今日とつくづく感謝する。
「わあ! よかったわ! そうだ、お爺様。私、留と同じ部屋を使わせてもらうことになったの。長い間、あのお部屋を使わせてくださって、ありがとうございました」
『これからもお願いします』と庾月が一礼する。
留は庾月に顔が向いたが、すぐに祖父に向け直す。
「じぃちゃん。改めて、本当に色々ありがとう。俺自身、まだまだ未熟者だけど柚子のこと支えていけるように頑張るから……その……」
祖父が突然、パンパンと手を叩いた。
「あ~、やめだ、やめだ。もう、ほら、そういうのは照れっから……おうおう、仕事だ。仕事」
ふふっと庾月の笑い声が聞こえた。
祖父は手をパタパタとさせている。
「ぷっ……あはは」
留も思わず吹き出して、庾月と笑い合う。──そんな姿を、祖父はあたたかく見守ってくれているようだった。
無事に結婚できたが、綺は通常の営業日だ。
チェックアウトと朝食の時間帯と、徐々に忙しさは増してきて、バタバタと昼を迎えた。
走り回って昼のピークが終わり、一息つける合間に遅い昼食をとる。そんな、いつもの光景で──。
「よぉ~し! 留、柚子! ちょっと来い」
祖父に呼ばれた。
何だろうとふたりは顔を合わせ、祖父のもとへ行く。すると、一度後ろを向いた祖父から意外な物を渡される。




