【1】柚子
賑やかな音楽の中に食器の音も混在していて、忙しない。
複数の足音も、飛び交う会話も混ざり、ガヤガヤとした日常が戻ってきた。
赤がよく視界に入る空間に、何十人もの人々がいる。
先日滞在した場所は、広範囲に渡り赤い絨毯が敷かれていた。
あの場所は異空間だった──そう思うくらい非現実的な場所で。赤と一言で言っても、同じ色ではないと、理屈抜きで知った。
ひとつひとつの音を、聞き分けようとするのは難しい。
しかし、ひとつの音に耳をとられるのは容易だ。
「柚子ちゃんどうしたの?」
たった一言なのに、『いない』と突き付けられる。
庾月が綺を不在にして三日目あたりから、留は聞かれるようになった。
そうして、『いた』のは──先日の二日間のように、幻だったんじゃないか。そんな気にもなる。
けれど聞かれる度、
「久しぶりに帰省しているだけですよ」
と、留は笑って返す。
あんなに一緒にいたじゃないか、と。
『柚子』は、綺での庾月の呼び名。
名付けたのは祖父だった。
あれは、庾月が住み込みで働き始めた初日だ。
「柚子……お~い、柚子!」
初め、庾月はまさか呼ばれていると思わなかったのだろう。
二回目の『柚子』で振り返り、祖父の手招きに驚いていた。
そうして庾月にしては珍しく、頬をぷっくり膨らませていた──のを留は覚えている。
「喧嘩でもしたのかぁ?」
日を追う毎に常連客の言葉は大袈裟になっていった。
だが、留は『接客』を崩さない。
「してないですって」
冷やかしを笑って受け流す。
ピーク時の食堂にも関わらず、留は少し上の空になる。庾月の明るい雰囲気を思い出して。
──明日、ようやく庾月に会える。
長く感じた数日間だった。でも、庾月に出会う前はこんな毎日だったような──。
記憶の時間が出会ったころや、付き合い初めのころに行き来して──。
庾月に、『柚子は好き?』と聞かれたのを思い出していた。
祖父が『柚子』と名付けた日の仕事後。庾月はわざわざ留の部屋までついてきた。
部屋に入るのを留がためらっていると、
「留は、柚子……好き?」
と、服の裾を引っ張ってきた。
「え? あー……いい香りがするよね」
パッと浮かんだことを言っただけなのに──次の瞬間、庾月は笑顔になっていた。
そうして、
「決めたわ、私『柚子』がいい!」
『仕事中は留も柚子と呼んで』と手を振って、『また明日』と別れた。
仕事が終わり、パタンと自室の扉を閉め、一息吐く。
──今日は懐かしいことを思い出したなぁ……。
あれから庾月は、仕事中に『柚子』と呼ばれる度ニコニコしていた。
留は上着を脱ぎ、シャワーを浴びる準備を始める。
──庾月は、どうして『柚子』って名前を気に入ったんだろう。
変化の理由は、留にはわからない。
ただ、正式な婚約者になって戻ってきてから──祖父が『柚子』と呼び名を付けた真意は理解した。
──『鴻嫗城の姫』が、こんなところで働いていると知れたら……確かに大問題だよね……。
準備が整い、即座にシャワーを浴びに向かう。
見慣れた風呂場を前に──先日の鴻嫗城の風呂場が浮かんだ。まったく一致しない。
でも、用途は同じ場所だ。
──やっぱりあそこは異空間だったな……。
粗いシャワーを強く受けて、あったかい雨みたいと感じても──。
──何だか、呑気だな。
なんて、地に足がついていないような感覚がある。
──明日だ。
庾月は来るとわかっているのに──ぽっかりと、心に穴の空いたような。大きな欠如がある。
庾月と付き合ってからは、一緒に過ごす時間は増える一方だった。
『柚子』と呼ぶようになってからは、初めて離れた『数日間』で──。
──こんなに寂しく思うなんて、想像していなかった。でも……。
庾月はこれからまた家族と離れる。きっと、もっと寂しい。いや、これまでだって、寂しかったのかもしれない。
キュッとシャワーを止める。
ポツポツと、雫が落ちた。
──待とう。
きっと、庾月の方がずっと辛い。
なのに庾月は──何とか一緒になれる方法を、いくつもいくつも考えてくれていた。
庾月が『嫌だ』と言うのは、留と別れること。何度も、そう伝えてくれた。
風呂場から出て、タオルに包まれる。
信じているのに、寂しさで心が枯れかかっている。──常連客に日々、何度もからかわれたからだ。
ジワジワと今頃になって、こんなにも蓄積していたと実感してきた。
「早く会いたい……」
しっとりとした庾月の手の感触が、懐かしくて恋しい。
シャワーを浴びたばかりなのに、やけに体も乾いている気がする。
翌日、留は朝から落ち着かなかった。庾月が来る予定の時間が近づくと尚更。
祖父は見かねたのだろう。
「出迎えに行っていいぞ」
ニンマリと──まるで父のような笑みで、留の背を押してくれた。
祖父の言葉に甘えて、店の出入り口へ向かう。
外が気になり、一歩出る。
店の前で立ち止まったものの──気付けば、店から二歩も三歩も歩いていた。
行き交う人々の中で、必死にクロッカスの色彩を探し──チラリと見えて、叫びそうになる。
「庾……」
いけない──と、言葉を呑む。同時に体がピリピリとした。
この町中で、『庾月』と叫んではいけない。
『呼んではいけない』それだけなのに。『それだけ』ではないと、決断の重さがのしかかってくる。
決して譲れないもの以外は、それこそ捨てる覚悟で一緒にいることを選んだ。
──そういう恋を、俺たちは選んだんだ。
「柚子!」
留は一直線に走っていく。すると、庾月は気付いたようで、視線が合うなりパッと微笑んだ。
「おかえり!」
「ただいま!」
ふにゃっと崩れた庾月の顔を見て、『これは柚子だな』と留は笑う。
「貸して。持つよ」
「重いかもしれないわよ?」
「それなら、尚更だよ」
ふふふと笑う庾月は、『ありがとう』と荷物を渡してくれた。
重くはない──けれど、留には確かにズシリときた。
──大事な『姫』を、ひとりで送り出すみんなの気持ちは……どうだったかな。
「ありがとうは、俺の台詞だよ」
『船着き場で待っていればよかったね』と話しながら、綺へと戻る。
「ただいま戻りました」
庾月は第一声で祖父にあいさつする。
留は一度荷物を置き、
「今日はこのまま体を休めたら?」
と勧める。
だが、
「少しでも一緒にいたい」
と、庾月は店に立つと宣言。
祖父は笑顔で、
「とりあえず、荷物を置いてこい」
と言った。
庾月の部屋は、元々、身近な人用の客間。留の部屋の手前を曲がる。
留はこれまで庾月を送っていたように、自室の手前で曲がろうとした。すると、
「あ……」
と、庾月の声が聞こえた。
思わず留の足が止まる。
「どうしたの?」
振り返るが、庾月はすっかり足を止めている。
何かを言いたい感じは伝わってくるのに、庾月は口を開こうとしない。──言葉を探している。そんな印象だ。
留は二歩、三歩と庾月に向かう。
「庾月? どうしたの?」
小声で名を呼びかければ、さまよっていた視線は留へと向いた。
「今日からは……もう同じ部屋じゃ、駄目?」




