【10】見えない壁
ドクドクと、波打つ脈を感じる。
相手は留を見ようとしない。
見ない──それだけなのに、心を抉られたように感じてしまう。
──きっと、そう思われている……。
留は無理に視線を前方に移動させた。
前方には、バルコニーが見えている。
すごくきれいな青空なのに──男三人で何を話すのかと、不安しかない。
拒絶されているとヒシヒシ伝わってくる。正しいと思ってしまう。先ほどのように、好意的に迎えてくれる方が異例なのだ。
脅威だろう。──父の子の中で、最年長だから。
同じ、息子だから。
──それに昨日か今日まで……[俺』のこと、知らなかった……よね。
立場がまったく違う。何から何まで。
存在を知っていた者と、知らなかった者。心構えもまったく違う。
溝のように深く、大きな差だ。
背に手を添えられながら、ついにバルコニーへと出る。
目の前に、圧巻な景色が広がった。見晴らしがよく、広大な森や海も見えている。
見事な絶景に、息を呑む。
そんな折、
「さて、じゃあな」
父にポンポンと軽く叩かれ、留は驚き振り返る。
父を見たが──父はニッと笑って、来た道を戻っていった。
彼とふたりきりになってしまった。
父に互いを紹介されなかったのだから、留が一方的に名を知っていても言わない方がいいだろう。
いや、名乗られたところでどう呼べばいいのか。
妹たちが迎え入れてくれたのは、庾月のお陰だ。
正妻も妹たちの様子を見て、多少なりとも受容してくれたのかもしれない。
──それにしても……。
ふと見てしまったのは、彼の腰にある長剣。
──まだちいさい義弟も、剣を身につけていた……。
意識的に美しい景色へと、留は視線を投げる。
そういえば、庾月の父は有名な剣士だった気がする。
留が子どものころ、同年代の子たちがちゃんばら遊びをしていたのを、よく見ていた。
彼が剣を身につけている理由は、身近だった庾月の父の影響なのか。それとも貴族の嗜みなのか。留にはわからない。
──でも、父ちゃんは身につけていなかったような……。
考え込みそうになって、また彼を見てしまう。
父は無造作に前髪を流しているが、彼は前髪も後ろ髪も一束にしている。確か長髪は──男女問わず、貴族の規定だった。
彼が留と反対方向を見ているのをいいことに、父と重ねて見てしまう。ピタリと重なったのは、クロッカスの色彩。
──きれいな色だな……。
しみじみ見惚れる。
正直に、父とも──庾月とも同じ色彩を持っているのは、うらやましい。
留は母譲りの色彩だが、実際に会ったことはない。
──会えていたら……。
違う印象を持てていたかもしれない。
クロッカスに瞳を奪われ、色彩が異なる理由を探してしまう。
──食べている物が違うからなのかな?
食べ物で見た目の色が変わる生き物もいるし──と思った一方で、こんなことを考えていていい場面でもないと、思考を中断する。
でも、どこか上の空で。ぼんやり彼の髪をまた眺めていると、
「おめでとうございます」
ふいに彼は、深々と頭を下げた。
これには慌てて頭を切り替えようとしながら、礼を返す。
「ありがとう……ございます」
なぜか、すごくドギマギしている。いや、呼吸が浅くなりそうだ。
見えない分厚い壁がある──彼の口調が、そう強く伝えてきて。
──父ちゃんは来ていいって、言ってくれたけど……。
やはり来てはいけなかった。いや、それ以前に、彼の反応は正しい。──でも、あからさまな拒否が胸に刺さる。
母を思えば謝りたくはないし、だからといって父が言っていないようなことは口にしたくない。
──父ちゃんは、どうして彼とふたりきりにしたんだろう……。
「やめてください、俺に敬語なんて使うの」
「いや、でも……」
年下という理由だけで、言葉を崩してはいけない気がした。
彼は、今まで会ってきた人たちとは違う。自らを留に合わせて下げない。本来貴族とは、こうであって──。
「俺は……貴男の、弟にあたります……」
彼は剣を支えるベルトをグッと握った。
一度、留の思考は急停止して、一気に整列していく。
彼の見てきた『父』と、留の知る『父』には落差がある。
けれど、それはきっと、父は周囲に合わせて下げることが無意識にできてしまう人で。
それは──父が留と離れて暮らしているからで。それは──父の留に対する後ろめたさも、きっと含んでいて。
そんな色んな要素が絡み合ったものだのだろうと、留は勝手な推測を容易くしたが、彼にはまったく関係のないことだ。
「すみません」
彼の見たくなかったもの、知りたくなかったものを、留が持ってきてしまった──そう感じて謝ったのに、彼は余計に怒ったような気がした。
しかし、それは一瞬で。
彼は深呼吸をし、
「いいんです。……いや、貴男でよかったです」
と、ポツリと言った。
少し垂れた前髪を流し、わずかに諦めのついたような表情を浮かべている。
妙な違和感だった。
まるで留が彼から感じていたものすべての解釈が間違っていたかのような──水面に色がポツポツと落ちて、他の色とマーブル状に混ざっていくかのような、劇的な変化だ。
思わず、留は意図せず言葉を発していた。
「もしかして……庾月のことを?」




