【プロローグ】誓い──君の名を
少女は美しいと幼いころから評判だった。
なびかせる長い髪の毛は、長い睫毛が縁取る瞳は、高貴な血筋を象徴する色、クロッカス。
少女は由緒正しき、世界に君臨する鴻嫗城のひとり娘。
鴻嫗城は『真に愛し合った者同士に産まれる最初の子』が『娘』だと言い伝えられてきた。よって、鴻嫗城は代々姫が継いでいる。
けれど、少女はそれを呪いのようだと思っていた。そう、鴻嫗城に残る仕来りすべてが、まるで『姫』を呪うもののようだと。
少女の名は、留。
名は父に名付けられた。
父は、少女の実父ではない。母が誰かを愛し、婚約していた父を裏切って成した娘だ。
鴻嫗城には、その昔から『き』を我が子の名の最後に付けるならわしがある。
だが、婿養子の父も知った上で、わざわざ少女は『留』と名付けられた。
少女は、父の憎しみを名に背負った。
人は誰かを許すのが難しい。身内となれば尚更。けれど、少女が一番初めに誰かを許したのは、父だった。
少女の名に『き』を付けなかった──それが、父が母にできた唯一の反発だったから。
それだけ鴻嫗城の『姫』というのは、絶対的な存在で。その存在意義は、近しい者ほど手が届かないのだと、嫌と言うほど思い知る。
人であって、人ではない。となりに立とうが、その距離は限りなく遠く感じてしまう。──それを、嫌と言うほど繰り返し思い知る。
だからこそ、『娘』を授かり、世継ぎにするという縛りが呪いのようだった。愛の結晶と言われる我が子が産まれ、そのときに、もし『姫』ではなかったら?
だから、少女は父を許した。
鴻嫗城の姫は姫で苦しい思いをしてきた。
『姫』が恋をしても、たとえ両想いになったとしても、受け止められる男性は限りなく少ない。大概の者は、恐れ多いと姫に惹かれながらも逃げていってしまう。
姫は、恋に焦がれて追ってしまう。実さえ結べればいいと。愛し合えた証さえ残せればいいと。この身に刻んでくれればいいと。
そして、城を統括する者が、姫の婚約者を立場や血筋を重視して選出し、表面上の体裁を守る。
そんなことが、何代も何代も続いてきていた。
少女はこれらも仕来りの呪いと感じるようになっていた。
呪いを何重にもかけられたと思いながらも、少女は母の教えに従い、外見も内面も美しく成長した。
周囲は慕い、『留妃姫』と呼ぶようになった。
いつしか絶世の美女と言われるようになった留。年頃になり、ある青年に恋をした。
それは、母と同じ身分違いの許されぬ恋。
身分違いとなれば、いくら相手が受け入れてくれようと婚約者にはなれない。婚約者には血筋も重視される。
母に従い育ってきた留は、叶う恋ではないと容易に想像が付いた。青年のことは大好きだ。立場を捨てても、結ばれたいと願うほどに。
けれど──母以外にも、何代も何代も同じ想いを抱えた『姫』がいた。
そう考えれば、留だけが立場を捨てるわけにもいかないと思い直し。同時に、今後、青年へ近づくことさえ許されないような気がして。母に相談をし、何とかならないものかと甘い考えに辿り着く。
だが、その反応は意外なもので。母は淡々と話し始めた。
母には、兄がいたのだと言う。けれど、会ったことはないとも言う。
兄がどうなったのかは、母は言わない。つまり、こういうことだと留は推測した。
第一子が『姫』で産まれたのは、留が数代振りだった。だが、それは隠蔽され続けてきた。ある者は身分を隠し、またある者は命がないのかもしれない。
そんな風に留が考えていたら、母がポツリと呟く。
「第一子が『姫』で誕生したのは……そうね、海胡が輝いたときだそうよ」
嘘か本当かは知らないけれど──母は他人事のように、そう続けた。そして、儀式を留に話す。
鴻嫗城と絢朱の一部の海域を、海胡と言う。鴻嫗城の地下にある懐迂と繋がっているらしい。
懐迂は、神聖な泉だと言い伝えられている。
神聖な場所にはいくら鴻嫗城の姫と言えども、みだりに立ち入ることはできない。
母はどんな場所かを知らない。留も見たことはない。
入室が開放されるのは、愛を誓う儀式――つまり、愛し合うふたりが結婚する前夜のみ。互いの身が清らかなままであることを証明し、何にも屈しないという相手への愛を証明する儀式のとき。
懐迂は聖なる泉ゆえに、清い身以外は呑み込んでしまうらしい。それに、相手への愛が偽りや薄いものであっても、入ったが最後。意識は戻ってこないとも言い伝えられている。
強い気持ちで結ばれたふたりだけが、懐迂の中で出会い、祝福の光が輝く。その輝きは、懐迂から海胡へと繋がり、絢朱を光り輝かせるという。
留は、懐迂の儀式の話を聞いて、数代前の同じく第一子で姫であった姫に想いを馳せる。
だが、それは母の誤算だったのかもしれない。
母は留に身分違いの恋を諦めてほしいと考え、懐迂の話をしたのだろう。
なのに、留は強い憧れを抱いた。
誰からも祝福を受けて生まれただろう、当時の『姫』に、強い憧れを抱いてしまっていた。
父に恨まれながら産まれ、育った留。ならば、今度は懐迂と輝かせたいと取り憑かれたかのような思いを抱える。
懐迂の儀式は、鴻嫗城が執り行う。母が了承や手配をしない限り、留がいくら希望をしても行うことはできない。
留は、無理を承知で、もう一度母に恋する青年と結ばれたいと、青年と懐迂の儀式を行いたいと口にした。
すると、母は──。
パシンッと、留を力いっぱい叩いた。感情的になったことのなかった母が、泣きながら大声で留を罵る。
「貴女は……私が、貴女を! どんな気持ちで産んだのか……育ててきたのか、まったくわかってないわ!」
父を裏切り、愛おしい人と駆け落ち同然で留を産んだ母。母は、留をとても愛してくれていた。失った、実父の分まで。
留は頬を叩かれる前から、母の答えをわかっていた。けれど、どこかで都合のいいようにしてくれるのではないかと、留のためなら婚約者の選出条件に目をつぶってくれるのではないかと期待していた。
じんわりと瞳に涙が浮かぶ。
頬は痛い。けれど、それ以上に心が張り裂けそうなほど、痛い。軽率なことを言ってしまったと、どれだけ母に甘えようとしていたのかと留は痛感していた。
「私は……貴女に、生きていてほしいのよ……」
その言葉は、母の懺悔のようで。ああ、実父の名を知らぬだけではなく、会うことは叶わないのだと留は知った。
留は鏡に映るクロッカスの色彩を恨めしそうに眺める。この色彩は、母娘にとって柵だと、呪われた象徴だと感じてくる。
見えない鎖は、城内もだ。外部の者を拒絶するように複雑に入り組み、開放的に見えるが檻のようだと思えてきた。
留はその夜、美しく長い髪をバッサリと切った。性別を問わず、肩下でならない髪の長さは、貴族の掟。髪を肩より上に切る行為は、生家との決別。
左手に残った長い髪の毛を、ちいさなライトだけが照らす。ちいさなライトを右側に受け、まっすぐに歩いた。そして、低い机の上で左手をゆるめる。パラパラと、糸のように細いクロッカスの髪の毛が舞う。
「さようなら」
クロッカスの色が散らばった机の上に、右手で握っていた短剣をそっと添えた。
そうして、鴻嫗城から姿を消す。
数年後、留は女性へと成長していた。愛する人とおだやかに歳月を重ねていた。姫だったことを忘れ、ごく自然なちいさな幸せが大きな、大きな幸せだった。
「留妃姫!」
勝手に開いた玄関。突然聞こえた声。それらに、家の主と女性は驚く。──いや、特に家の主である男性は、目を見開いて女性を見つめていた。
女性の名を『留』だと知っていたものの、まさか失踪中の姫だとは思っていなかった。
「貴女は……」
男性の動揺に、留は下を向いて答えることができない。しかし、留を見て、『留妃姫』と聞けば、クロッカスの色彩と美しさが『留妃姫』であると認めざるを得ない。
家の中は静まり返ったが、玄関からは不躾に声の主が入ってくる。
「やっと見つけました! さぁ、帰城しましょう!」
留を迎えに来たのは、五つ年上の護衛だった。留のバッサリ切られているクロッカスの髪を見て、彼は言葉を呑んでいたに違いない。絞り出すような声が聞こえてくる。
「その髪は、見なかったことにいたします」
「嫌です! 私は! ここで、この人とっ」
「お言葉ですが、留妃姫。今なら! その男性を……まだ、隠せます」
留は頭が真っ白になった。そして、護衛の背後を見て悟る。『今なら男性を殺さないで済む』のだ、と。
瞬時、留は目を見開き、懇願する。
「嫌……私のせいでこの人を、貴男が、切るだ、なん、て……」
震えるように、留の首が左右に振れる。──護衛の彼の手は、腰にある剣には伸びなかった。代わりに、留へと差し出される。
「でしたら、留妃姫」
これが最後の通告だろう。彼なりの、精一杯の。
留はわかっていても、すぐに彼の手を取ることができなかった。ただ、留は留なりに考える。
もしかしたら、留が誰にも何も言わずに城を飛び出してから、護衛だった彼は何かしら処罰を受けたのかも知れない。それは、彼自身に直接ではなくとも、彼の生家に対してだったのかもしれない。もし、後者だとしたら、その方が彼には辛かっただろう。──そうか、籠の中の鳥は、彼も同じだった。
留は、やっと気づく。そうして、最大限に自身を庇ってくれた彼の言動に、留は覚悟を決める。
「貴男と……帰城いたします」
数年過ごしてきた男性の気持ちも、護衛の彼の思いも、母の心配も、自身の未熟さも混ざって、涙がいくつも雫となって落ちていく。
留の涙がボロボロと落ちていくと、護衛は家の主である男性にやさしい口調で謝罪する。
「お騒がせして、申し訳ありません」
男性に頭を深く下げる。重力に従い垂れる、長いリラの髪。
「いや……」
男性は低い声を出す。
リラの髪を揺らし、護衛は顔を上げる。瞳の色と同じ、髪の毛の色を視界に入れながら彼は男性を見た。──男性は混乱しているようだった。もっともだと思いつつ、彼は踵を返す。無言で留の手を引いて。
「来世で必ず、結ばれましょう!」
留は引きずられるように歩きながら、男性へと叫ぶ。
「『留』という名で今度は産まれてきて! 私は……貴男を見つけ出します。絶対に!」
男性は立ち上がり、留を見つめる。やっと状況を把握したのか、男性の瞳からも大粒の涙が流れる。
「わかった。絶対だ! 絶対に俺は『留』という名で、愛する君の名で! 今度は生を受ける! 来世で貴女と結ばれて、幸せになるために! 君を、今度こそ幸せにするためにっ!」
留は男性の言葉を聞き、大きく表情が歪む。崩れた顔を恥じるように伏せ、何度もうなずく。
留は歩きながら、男性が見えなくなる前に必死に涙を止めた。あふれてくる涙を抑えながら顔を上げる。
現世で会えるのがこれで最後ならと、満面の笑顔を男性に向かって浮かべる。──ふたりは悲しみで流れる涙に耐えながら、笑顔で別れた。




