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11【Side:A】

 夜のスフェール城──特に、宮殿パレスは、昼間とは打って変わった静けさに満たされる。波の音ばかりが反響し、宮殿が海に沈んだかのようにも思える夜更けの時間が、アリスは好きだった。


 風呂で熱った体を冷まそうと、アリスはバルコニーに続く廊下を歩いていた。

 長く白い髪が揺れると、仄かに花の匂いが香る。髪を梳かす時、侍女のキャロルが香油を使ったらしい。アリスは髪の手入れのことはよく分からないどころか毛の先ほども興味がないのでキャロルの好きにさせているのだが、自分から華やかな甘い香りがするのは、どうにも落ち着かなかった。

 アリスは後ろ頭を掻く。せっかく梳かした髪が乱れてしまった。


 廊下の先──床から天井までの高さがある、ガラス張りの大きな両開きの窓の前に、背の高い女性がいた。キャロルとはまた別の侍女、パメラだ。


「猊下、バルコニーに出られるなら、こちらをお召しになってください。夜の海風で湯冷めしてはいませんから」


「ええ、そうですね」

 

パメラは白いガウンを手に持って広げる。アリスに羽織らせると、パメラは窓を押し開いた。


「お風邪を召されないよう、あまり、長居なさらないでくださいまし」


「気をつけます。ありがとう、パメラ」


 礼を言って、アリスは窓の外に出る。宮殿の内側からパメラが窓を閉めるのを確認して、アリスは深く息を吸い込む。バルコニーは、潮の匂いが満ちていた。

 ……こうしてようやく、アリスは一人になれたのだった。


「肩が凝る。分かっちゃいたが、聖女も楽じゃないな」


 聖女になってこの方、いつも誰かが傍に控えているせいで、アリスが一人になれる時間は、ごくごく限られたものになってしまった。日中は仕事に忙殺されてしまって、夜の散歩の時間くらいしか”自分自身”でいられる時間がない。

 アリスは政務に追われるだけの日々を退屈に思っていたが、最近は、これが己の運命だと受け入れ始めている。


 バルコニーに繋がった階段を降りて、城の壁沿いに沿うようにして造られた宮殿の回廊を、一人、歩く。

 お気に入りの散歩コースであるこの回廊は、この宮殿で最も眺めのいい場所だ。胸のあたりまで高さがある柵のすぐ下は、夜の闇を溶かしたような暗い海面が広がっている。

 アリスは気まぐれに柵を掴み、ちょうど格子状になっている部分に足を掛け、身を乗り出した。

 海原と夜空が視界を占めて、他の何も目に入らなくなる。

 アリスはここに来たら、気が済むまで海を眺める事にしている。この海原を見ていると、自分という存在が、ちっぽけに感じられるのだ。


「まさか……あの”お嬢ちゃん”だったとは」


 独り言が、アリスの唇から零れた。


 ふいに海風が白い髪をさらう。風呂に入った後だったので、無防備に解かれた長い髪が風に弄ばれて視界を遮った。アリスは柵から離れて、顔にかかった髪を払う──と、音もなく、目の前に少年が現れた。年はアリスとそう変わらないように見えるが、彼はアリスに対して跪き、頭を垂れる。


「聖女猊下、ご報告を」


「……ご苦労様です、ラビット」


 ラビット、というのは、彼の本当の名前ではない。彼は秘密裏に聖女に仕える隠密だ。聖女に忠誠を誓い、様々な情報を仕入れ、時には、聖女に有利に事が運ぶように裏から様々な工作を行う。”ラビット”というのは、隠密としての号である。命名したのは、アリスだった。

 彼は闇に紛れる鼠色の衣を纏っていて、軽業師のような身のこなしは、重力を感じさせない。ジャパニーズNINJAみたいだと、アリスは彼のことを気に入っていた。


「それで、レイモンド・コーネルの行方は分かりましたか?」


「申し訳ございません。未だ、足取りすら掴めておらず」


(珍しいこともあるもんだ)


 ラビットの手に掛かれば、大抵の事はすぐに調べがつく。よほど入念に計画された脱獄だったらしい。アリスは舌打ちしそうになるのを、すんでのところで堪えた。舌打ちなんて聖女らしくないことは、この少年の前ではできない。


ファリーン(お嬢ちゃん)の告発が無事にライオネル(坊や)へ渡っていれば、こんな面倒くさい状況に陥らずに済んだだろうに)


 司法院にクレームを入れてやろう、とアリスは心に決める。いい加減コネ採用を廃止するように、厳しく言っておかなければ。溜息をついて、アリスは白い髪を掻き上げる。


(この世界はやっぱり、一筋縄ではいかない)


「……Son of a(くそっ) b*tch(たれ).」


「猊下はたまに、よく分からないことを仰る」


「分からなくて大丈夫ですよ」


 ラビットはこてりと首を傾げる。彼の顔に感情は無い。

 彼はいつも、表情を表に出さない。いや、出せないと言った方が正しいだろう。表情を削ぎ落とし、己の心さえも滅する。彼は、そういった特殊な教育を受けて育ってきた。己を捨てれば、潜り込んだ先で別人になり切ることも容易だ。ラビットの師匠曰く、それが聖女の影として生きる者の心得なのだという。

 だが、少年の硝子玉のように無機質な、淡藤あわふじ色の瞳を見ると──どうにも、古い記憶が思い出されて、アリスは苛立たしく思うのだった。ラビットのオリーブ色の髪を乱雑に撫でると、彼は表情を変えないまま、アリスの手に頭を委ねた。


「……引き続き、コーネル卿の手がかりを探ってください」


「承知いたしました」


「それと、あなたなら既に知っているとは思いますが、ファリーンさんが、今日から監獄島を出ました。例の連続凶悪事件の捜査に協力してくださいます。一刻も早く事件を解決するためにも、彼女を助けてあげてくださいね」


 ラビットは足もとに目を落とす。彼は偽物でありながら聖女を名乗ったファリーンを、快く思っていなかった。例え彼女がアリスの命を救ったのだとしても、ラビットにとって、ファリーンは逆賊に違いなかった。


「良いですね? 間違っても、殺さないように」


「……御心のままに」


 ──音もなく、少年の姿が消える。アリスはそのまま、一人、回廊に佇んだ。


 波が城郭じょうかくに打ち寄せる音が響く。風が出て、海が少し荒れ始めているようだ。岩を叩く波の音が、激しさを増す。


「……間違っても殺さないように、か」


 アリスは押し殺すように喉を震わせる。


「”俺”が言うなって話だな」


 皮肉な笑みを浮かべて、アリスは夜の空を見上げた。

 雲が広がる空には、星一つ見えない。遠くの方が薄ぼんやりと光っていて、雲の形を浮かび上がらせる。その向こうに、月があるのだろう。今夜は満月のはずだった。このまま待っていれば、吹き始めた風に雲が流れて月も顔を出すかも知れない。アリスはそれを、待つ事にした。


「──お互い今度こそ、真っ当に死ねるといいな、お嬢ちゃん」


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