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上海奇譚  作者: 田中しう
8/8

その物語(5)

 真っ白の開襟シャツがまず目に入りました。それから、清潔な笑顔。その笑みは、わたくしを通り越してお嬢様だけに向けられていました。背は低くもなく、威圧を感じる程高くもなく、少し見上げた所にその清々しい笑顔がありました。


 この方もまた眩しい。


 わたくしは一歩身を引き、顏を伏せました。

「あら、こんな事くらいで酷いわ」

 答えるお嬢様の声も、一層明るいものになりました。

「それより、お帰りは明日だと思っていたのに」

「午後の講義が休講になったんだよ。そうなれば、上海でぐずぐずしている気にはなれなくてね」

 あの方の声は、とても柔らかく、落ち着いて、耳心地良く、そう、お嬢様がよく口にするあの「知性」と言うものはこう言うものなのか、と俯いたままのわたくしは一人合点していたのです。田舎育ちで学のないわたくしでしたが、あの方が高等学校の学生である事はひとめ見てわかりました。


「三児、こちらは梁秋生りょう しゅうせいさん。上海の大学に通っておられるの」

 突然に紹介され、わたくしは目を丸くしました。お嬢様のご友人をわたくしのような下働きの者に紹介されるなど、通常ではありえない事でございました。通常ではないと言えば、そんな風に同年代のお友達のように連れ立ってアイスクリームを舐めているなども、家のお方たちに知られれば何とお叱りを受けるやら、わたくしなりに冷や冷やしていたのでございます。

 それでも、紹介されたものを無視するわけにも行かず、わたくしは更に目を伏せ頭を下げました。


「こんにちは」

 こちらの顔を覗き込むように身を屈めて梁様がおっしゃったので、わたくしも少しだけ視線を上げないではいられませんでした。分け隔てのない、明るい笑顔がわたくしに向けられていました。わたくしは恐らく耳まで赤くなっていた事でしょう。


「ねえ、三児」

 お嬢様がわたくしのそばにいらして、わたくしの腕に自分の腕を絡ませました。桜の花びらのような唇をわたくしの熱を持った耳元に近づけます。

「これからは、秋生さんと一緒の時は必ずお前がそばに居て」


 初め、お嬢様のおっしゃる意味がわかりませんでした。わたくしが問うようにお嬢様の顔を見詰めると、お嬢様はにっこりお笑いになりました。

 ぞくっとする程に、無邪気で、この上なく妖艶な微笑でございました。

 恋と言うものに疎いわたくしにも、直感的にその意味がわかったのでございます。

 その日から、わたくしは若い二人の恋の庇護者であり、目撃者であり、共犯者になったのでございます。

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