第25話 サラ・エヴァンス
〈反抗者〉第五支部、基地出入り口近くの警備室。
サラがパイプ椅子に座って考え事をしていると、アスモデウスが「お茶でもいかがです?」と言いながら部屋へ入ってきた。彼女が手にするトレーの上には、保温カバーが掛かったティーポットと二組のカップ。
「……うん」
サラは一応の反応だけをして思考に戻る。アスモデウスが向かいの席に座り、ポットからカバーを外した。カップに琥珀色の液体が注がれていく。
サラが初めてアスモデウスと会った時——つまり、培養槽の前に立って水中に揺れるルビーレッドの髪を見上げた時、こちらを見下ろす悪魔はニヤリと笑った。
「〈契約者〉になるのが恐ろしいのですか?」
その問いにサラが首を横に振ると、
「……では、私の姿が恐ろしい?」
ほんの少し。よく目を凝らしてやっとわかるくらい僅かに眉尻を下げて言った。その時、サラは悪魔の造形について考えていた。
荒野に埋もれる悪魔の化石の全貌を目にしたことはないが、基地へ持ち込まれた『断片』は何度か見たことがある。どれも機械の一部のような形をした石で、何となく天使の造形に似ていた。
一方で、蘇生される悪魔は必ず、人間と同じ姿をしている。化石から抽出した遺伝子様物質を元に再形成された形は設計図通りの姿のはずで、では、化石はなぜその姿と程遠い形をしているのか。
巨大で無機的で、無個性。工場の生産ラインから出てきたような、あるいは、天使を模倣したような姿。彼らにとっては、どちらが本当の『自分』なのだろう。
サラが考えていると、培養槽の中のアスモデウスが「どうなんです?」と尋ねた。慌てて「怖くない」と答えると、何故かそれが何らかの決め手となったようで、アスモデウスは契約の締結を申し出た。
あれは一体どういうことだったのか。それ以来、サラはずっと考えている。ここ数日も考えていて、少しだけ、答えらしきものが見えてきた。
「どうぞ」
アスモデウスがカップを差し出す。サラは並々と継がれた紅茶の表面を見下ろし、「ありがとう」と受け取った。
契約相手の魂と引き換えに、悪魔は人間の手では成し得ない『空想』を具現化する。アスモデウスがサラ・エヴァンスの空想に応えないのは、それが天使を殺す形をしていないから。
悪魔は往々にしてプライドが高い。自らの力で成した空想が天使の装甲の一枚さえ削らないとなれば、それは恥じ以外の何物でもないだろう。
だが、アスモデウスが力を使わない理由は、本当にそれだけなのか。
サラの中にはもう一つの空想がある。
(子供の頃に読んだ、古い文献の悪魔の姿……)
そこに書かれていたのは、獣と人の三つの頭をもつ悪魔の姿。足は鳥で、尾は蛇。竜に跨って口から火を吹く恐ろしいその姿は、サラにとって悪魔のイメージの原典となっている。
出会った時、アスモデウスは尋ねた。『私の姿が恐ろしいか』と。
(あれがただの確認じゃなくて、自分では恐ろしいと思ってて、でも恐れられたくない思いから出たものだとしたら……)
人間が何らかの救いの力を求める時。多くの場合、その空想は自分ではない他者の形をしている。自らの力でどうにもならない状況を前に乞い願うのだから当然だ。故にギデオンの空想は異質と言える。
神が救いを齎さない世界——光と美が人類の敵として存在する現代において、人間が救いとして求めるのは暗く醜い存在。
「サラ、どうしました?」
アスモデウスの問いに、意識が思考の底から浮上する。サラは「ううん」と言ってカップに口をつけた。喉を潤しながら言葉を探す。
「……あなたは、どんな空想なら叶えてくれるの?」
ここ数日ずっと、ギデオンの『頼む』という言葉が脳裏に響いていた。
「どんな私なら認めてくれるの?」
カップを置いて尋ねると、アスモデウスが薄笑みを浮かべる。
「認めるも何も、私は最初からお前を認めています。だから契約に応じました」
「じゃあ、力を使ってくれないのはどうして?」
「サラ、何度も言っているでしょう? お前の空想を叶えたところで、天使に傷一つ負わせることもできません」
彼女は短く嘆息し、
「お前の論理では、傷ついた仲間の治癒は天使に一矢報いることに繋がるのでしょう。ですがそれは机上の空論ですよ。容易く傷つくような人間を何度回復させようと、魚を壊すのがせいぜいです」
「……それで?」
「? だからですよ。有象無象を戦線復帰させることに大した利はない。ゴミを治すことに力を使うなど、私のプライドが許しません」
「じゃあ、もう一つの空想の方は?」
ずっと気になっていた。力の使用を拒む時、アスモデウスはいつも「無意味だから」と言う。傷ついた仲間を救いたいという空想ばかりに言及して、怒れる者の空想には全く触れない。
「本当は、醜い悪魔の姿になるのが嫌だから拒否してるんじゃないの?」
サラが問いを重ねた瞬間、アスモデウスがふっと薄笑みを消した。無表情の上に僅かな嫌悪を乗せ、眉間に皺を寄せる。
「それは侮蔑ですか?」
氷のような美女の、全てを凍り付かせるような冷たい視線。サラは今すぐ逃げ出したい衝動に駆られるが、ギデオンの言葉を思い出す。『頼む』と言われた。これまで何一つ成し得ずにいる自分に、確かに意味はある、と。
「私がお前と同じ年頃の女の姿をしているからと、人間と同じように捉えられるのは心外です。そのような瑣末な理由で私が力の使用を拒むなど、あり得ません。生娘じゃないのですから」
「でも……じゃあ、どうして?」
「お前の空想は凡庸なのですよ。見た目ばかりが醜悪な、中身のないハリボテの悪の模造品になど、誰がなりたがるものですか」
「だったら、私がもっと強いあなたを想像したら——」
「サラ、お前にそれは無理です」
「どうして?」
「お前は『いい子』だから」
アスモデウスが「やれやれ」といった様子で片手を振る。
「いかなる地獄が目の前に広がろうと、お前はいつも悲しむばかり。仲間の死を、自らの無力を、世界の有様を悲しんで、決して誰を憎むこともない。サラ、だからお前は弱いのです。いつだって歴史を動かしてきたのは誰かの怒りですから」
それからカップを取って紅茶を一口。流れるような、一糸のほつれもない美しい所作。ゆっくりとカップを下ろしていき、
「言うなれば、お前は神や天使と近い、光の側の存在です。しかし光の至高の座には神が鎮座している。故にお前の空想は奴らを穿つには足りな——」
ふと、変なところで言葉を切ると、ガチャリと音を立ててカップを置いた。琥珀色の雫がテーブルに散らばり、アスモデウスが勢いよく立ち上がる。
壁を——正確には、基地の奥にある何かを睨め付ける。深淵の様な真っ黒な目を細める。
「どうしたの?」
サラが尋ねると、アスモデウスは少しの間を置いてから「何故、ここに」と独りごちた。それからこちらを向き、
「よかったですね、サラ。これで無駄な見張りを続ける必要はなくなりました」
意味深な物言い。サラは当然その意味がわからず、問おうと口を開いたが、廊下側の窓の向こうに動く人影を捉えてやめた。
「えっ……」
幹部の男と、管理部の三人。それからサムが、ぼうっとした顔で出入り口の方へ歩いて行く。もうすぐ夜明けの時間だというのに外へ向かっている。サラがどうしたことかと立ち上がったところで、彼らの後ろに続いて現れたマモンが指差し、
「ここの人間がいなくなった理由がわかったよ」
どこか呆れたような、うんざりしたような顔で言った。




