4-8(フラン、ユンを歓迎する2)
『フランの呪はとても綺麗ね』
あの人がそう言ってくれたのは、遥か昔のことだ。
『わたし、フランの呪、とても好きよ』
そう言って笑ったあの人の方が、フラン自身の呪よりもずっと綺麗だった。
「魔術師になるのに最低限必要なのは論理的な思考ができること」
春の嵐に花が散ったかのように、心地よく、不快にざわめく胸を抑えて、フランが言う。
「えっ?」
「でも、本物の魔術師になるために必要なのは、編み上げた呪を美しいと感じる心があるかどうかです」
あの人の編んだ呪も、あの人自身のように、胸が震えるほど美しかった。
「ユン姉さま、もし良ければ、この屋敷の結界が、ユン姉さまにはどんな風に聞こえているか、教えて頂けますか?」
「もちろん、いいわよ」
ユンがフランの手を取る。
フランの周囲に湖面が広がる。
岸は遠く、青くかすんだ山々が湖面を囲んでいる。穏やかな湖面の下に底の知れない深い闇が続いている。呪が透明な風となって湖面を流れている。低い声で。歌うように。祈るように。
この子はあたしと同じものを見ている、と、ユンの聞いている音を伝えられてフランは思った。
「素晴らしいですね」
あなたが。
辿り着けるかしら。あなたなら。あの人のところに。
「ええ」
フランが何を素晴らしいと言ったか、ユンは気づかない。
「喜んでお教えしますわ、ユン姉さま。
もし良ければ、いま、少しご説明しましょうか?
もしかするとチーズケーキをムギたちに食べられてしまうかも知れませんけど」
ユンがにこりと笑って「お願いするわ。フラン」と応じる。
「では、さっそく」
頷いたフランの手に、火のついていないロウソクがある。
『あれ?この子、あんなもの、持っていたかしら?』
ユンの顔に浮かんだ疑問を気にすることなく、フランは話し始めた。
「魔術を教えるときに多いのは、理屈を抜きにして、とにかく呪を覚えさせようとすることです。
でも、そんなことをしていたら、一生かかっても魔術なんか覚えられません。
まずは理屈から覚えないとダメです。
多くの人は、魔術が物理や化学とはまったく別のモノだって勘違いしていますけど、そんなことはありません。
例えば、」
フランが短く呪を唱える。フランとユンの間で火球が弾ける。しかし、熱くはない。フランが熱を遮断している。
「これ、魔術を習い始めた際には一番最初に覚える術です。火球術Aと言ったとこですね。この術と、ろうそくが燃えるのは同じことなんです」
再びフランが短く呪を唱える。
ロウソクに炎が灯る。
「火をつけるとろうそくは燃え続けますけど、なぜ燃え続けるか、ユン姉さま、判りますか?」
「ううん」
フランの呪の見事さに感心しながら、ユンが首を振る。
「今はあたしの術で火をつけましたけど、どんな方法にしろ、火をつけるとロウが融けます。融けたロウは毛細管現象によって芯を上り、蒸気になります。蒸気が熱源に熱せられて空気中の酸素と反応して、光と熱を出します。
あとは、発せられた熱そのものが熱源となって、ろうそくは燃え続けます。
難しく言えば、可燃物と酸素などの支燃物が、点火源である熱源から与えられた熱によって高速な化学反応を起こし、熱と光を発する現象となります。
これが燃焼です。
つまり、燃焼が起こるためには、燃えるもの、酸素、点火するための熱源の三つが必要になります。ですから」
フランがロウソクを吹き消す。
「息を吹きかけるとこうしてロウソクが消えるのは、燃えるものである蒸気を吹き飛ばして、燃焼のサイクルを止めてしまうからなんです。
他にも、」
フランが呪を唱え、ロウソクが再び灯る。
「こうしてガラス瓶で覆うと--」
燃えるロウソクが、いつの間にか皿状のロウソク台に載せられている。そして、フランの手にはガラス瓶がある。
フランがロウソク台に載ったロウソクにガラス瓶を被せる。
「このまま待っていてもいいんですが、ちょっと早回ししましょう。ガラス瓶の中の酸素を、風の精霊に頼んで減らしていきます」
ロウソクの炎が次第に小さくなり、消える。
「こんな風に、酸素がなくなれば、燃焼は継続できません。
では、火球術Aの場合はどうかと言うと--」
フランが呪を唱える。
火球が弾ける。
ユンは目をしばたいた。
いつの間にか、フランが手にしていたハズのロウソクもロウソク台も、ガラス瓶も消えている。
「ユン姉さま、精霊の気配、感じます?」
「う、うん」
「火の精霊や、風の精霊の違いは、判りますか?」
「えーと」
ユンが感覚を研ぎ澄ます。
「さっき、ロウソクをガラス瓶で覆った時、呼び出していたのが、風の精霊なのね?」
「はい」
「うん、判る。
いまは、火の精霊の気配しかないわ」
「その通りです。いま、呼び出しているのは、火の精霊だけです。でも、そうするとおかしいと思いませんか?
あたし、火球術Aとロウソクの燃焼は同じだって言ったのに、何故、火の精霊しかいないのか。燃えるものが必要なら、土の精霊を、酸素が必要ならさっきのように風の精霊も呼び出す必要があるんじゃないかって思いませんか?」
「--そう、ね」
サンソって何だろうと思いながら、ユンが曖昧に頷く。風の精霊ということは空気と関係があるのかしら。
ユンの戸惑いを知りながらフランが話を続ける。
「これは、火の精霊が、土の精霊と風の精霊の役割を代行しているからなんです。
火球術Aは、神々と竜王さまの契約を記した竜王の回廊に刻まれています。そこに、火球術Aを発動させる場合、土の精霊と風の精霊の役割を火の精霊に委ねる、って記してあるんです。
こうすることで二つ、利点が得られます。
ひとつは、術を発動させる時間を短縮できること。
もうひとつは、化学的な反応を利用することで、力があまり強くない火の精霊を呼び出すだけで術を発動できることです。つまり、経験が浅く、下位の精霊としか契約できていない魔術師でも、呪文を知っていれば術を発動できるということです。
火の精霊が従うかどうかは別の話ですけど。
あとは、火球術と言っているのに、土の精霊と風の精霊も一緒に呼び出していたら、何だか火の精霊術って気がしない、って思いませんか?」
「そう、かな」
「魔術も演出ですから」
フランが明るく笑う。
「この火球術Aは燃焼速度も遅く、比較的安全な術になります。風の精霊と別途契約して燃焼速度を速くするか、燃えるものとして酸素を含んだ不安定な物質を使えば、竜王の回廊の契約を超えてもっと破壊力を上げることも出来ますが、それは難しい話になるので今は止めておきましょう。
同じ火球術でも、別の原理の術があります。
こちらは火球術Bとします。化学的な反応を利用するのではなく、直接、火の精霊に熱量を発生してもらう術で、火球術Aより難しい術になります。
力の強い火の精霊を呼び出す必要がありますので」
フランが呪を唱える。
風の精霊の気配をユンは感じた。それだけではない。何かがある。視覚的には見えてはいない。自分とフランから離れた5mほど先。5m四方の立方体が芝生から立ち上がっている。
ユンの視線をフランが追う。
「まさかと思いますけど、見えているのですか?」
「ううん。でも、何かあることは判るわ」
「見えないものを感じるのは、魔術を覚えるのにとても有利なことですよ、ユン姉さま。風の精霊術で造った障壁です」
「障壁?」
「こうしておかないと、みんながびっくりして飛び出して来ちゃいますから。下手したら、ハルナ姉さまの心臓が止まってしまうかも知れませんし」
フランが、障壁だと言った5m四方の立方体の中心を指さす。
「そこに石がありますよね」
確かにひと抱えほどもある石が、立方体の中心、芝生の上にあった。
あんなもの、さっきまであったっけ?
「では、いきます」
ユンの首の後ろの毛が逆立つ。精霊がいる。とても強い火の精霊が。さっきフランが呼び出した精霊とは比べものにならないほど力の強い精霊が。
石が砕け散ることろは見えなかった。
ただ、透明だった障壁の形を白い粉塵がまざまざと浮かび上がらせた。
「すごい」
ユンが呟く。
粉塵の向こうをユンは見ていた。石がなくなっている。石があった場所には黒焦げた大きな穴が開き、周囲の芝生がめくれ上がっている。ぶすぶすと燃えている。
「火球術Aと火球術Bの違い、判っていただけました?」
「ええ」
驚きを残したまま、ユンが頷く。
「では最後に、火球術Aの応用についてお話ししましょう」
風の精霊が渦を巻き、障壁ごと粉塵を抱え込んで空に吸い込まれるように気配を消す。焼け焦げ、くすぶっていた芝生の火も消えている。
何か、無数の小さなものが、黒焦げた穴の周りで走り回っている。ゴーレムたちだ。身長10cmほどのゴーレムたちが大きく開いた穴を埋め、新しい芝を植えてせっせと修復している。
ユンは呆れている。
これもフランの魔術なのかしら。
と。
「ある種の金属を炎の中に入れると、炎がその金属特有の色に変わります。ですから、火球術Aの燃えるものを工夫すると、こんなこともできます」
フランの周りで鮮やかな赤い火球が弾ける。次に黄色。続いて紫、緑、オレンジと色鮮やかな火球が次々と弾ける。
フランが自分の背後に視線を向ける。釣られてユンもフランの視線を追って、フランの背後、空へと視線を向ける。
「わあ」
ユンは思わず声を上げた。
彼女の視線の先で、屋敷を覆う程の巨大な三重の火球--1番内側の火球は紫、その外側は緑、そして1番外側が明るいオレンジ色だ--が、花開いて散った。散った光が雨となってゆっくり降り注いでいく。
「ようこそ、ユン姉さま。あたしたちの家に。歓迎いたしますわ」
消えていく火球を背に、空を見上げたユンに向かってフランは微笑んだ。
「ユン姉さま。ちょっと不躾なことをお訊きしますけど、よろしいですか?」
図書棟に向かって歩きながらフランは、隣を歩くユンに尋ねた。
「なに?」
「ユン姉さま、今まで男のヒトとお付き合いしたこと、ないんですか?」
「え、え?」
「ユン姉さま、とってもお奇麗だし、スタイルもいいのに、どうしてです?」
「どうしてって、お仕事で忙しかったし、その」
フランは微笑んでいる。
ユンは不思議な気分になった。
フランは年下だ。見た目からしてそれは間違いない。しかし、ユン自身よりももっと年上のようにも見えた。魔術に関しては信じられないほど技量が優れている。フランの呪ほど耳に心地よい呪を聞いたことがない。
正直に話してみようか。
そう思った。
「笑わないでね、フラン」
「嫌なら無理にお話しして頂かなくてもいいんですよ」
軽くユンが首を振る。
「わたし、少し男の人が怖いの。孤児院では、あまり、男の人とお話しする機会もなかったし。
それに、わたし、力が強いでしょう?」
「はい」
「孤児院にいたお姉さまが言っていたの。男の人とお付き合いするのって、とても気持ちがいいって。自分を忘れちゃうぐらいだって。
だから、怖いの。
その、もし自分を忘れたりしたら、わたし、力を抑えられなくなって、男の人を、殺しちゃうかも知れないって」
なんて可愛い子かしら!と、フランは嬉しくなった。
思わず食べたくなっちゃうわねぇ。
と、思った。
しかし、そう言う代わりに、フランは、「大丈夫ですよ、ユン姉さま」と、自分の胸に手を添えた。
妖しく笑う。
「もし、好きな人ができたら、あたしに教えて下さい。しっかりユン姉さまを導いて差し上げますから。
あたし、魔術よりもそちらの方が、もっと得意なんです」
ユンの身体がぶるりっと震える。
あら。わたし、何か間違ったかしら。どこか冷めた心で、ユンはそう思った。




