プロローグ 世界の裏を見れば、つぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ (1)
この世界に、正しさなどあるものか。
過ちなら山ほどあるが、正しさはどこにもない。
物事を知れば知るほど、そのように錯覚して、悲しい気持ちになる。
「どこ見て歩いてんだ!」
15時ごろ、住宅街の景色。
白色のセダンにクラクションを鳴らされ怒鳴られる。
その車は、細い住宅街を猛スピードで暴走していたが、それを俺が止めた。物陰から顔を出した俺を見て急ブレーキを踏んだのだ。
「すいません」
俺はセダンの前で立ち止まり、頭を下げ、一方後ろに引く。
「ちっ、ガキが」
彼は車の窓を閉めながら、アクセルを吹かして走り去っていった。
感情的になれるのも才能だと思う。
何故なら、常に冷静であり、世間一般的な、「馴染む」選択肢を取り続ける方がよっぽど楽に生きられるからだ。
っと、あのセダンはフロント左下と右後部座席扉が凹んでいる。あの気性であの車、当ててもなんとも思わないタイプの人間である可能性が高い。
ま、こんな形で死んでもよかったかも……、と思いつつ、俺は1人でぼーっと、前を向いて歩き始めた。
家に帰ったら――、昨日通販で買った「世界一不味い珈琲の淹れ方」と言う本でも読むか。
おそらく暇つぶしにもならないが、不味い珈琲をどのように淹れるのかを知りたくて買った。
そんなことを考えていると、何か、上から音が聞こえたような気がして空を見る。
今日も空は青くなかった。
本来は青いはずの空。
今日は雲一つない空だから、余計に青いはず。
しかし、俺の目には、その空がモノクロに映っていた。
「あーーーーーーーーー!」
そこに、一筋の流れ星。
いや違う。あれは……、人間?
そう思うも束の間、俺の前方数メートル先のアスファルトに、光を超えるような速度で飛来物が突っ込んだ。
パーーーン!
大きな破裂音が響く。俺は思わず目を瞑り、耳を塞いでいた。
「痛たたた」
耳を塞いだ指の向こうから、女性の声が聞こえる。
……え? 人間の声?
恐る恐る両目を開くと、そこには黒色のワンピースを着た、青髪の女の子が転がっていた。
近くの地面には、外で落ち葉を掃除する時に使うような藁でできた箒と、黒色の綺麗な靴が転がっている。
1秒後、お尻をさすっている彼女に、俺の両目のピントが合う。
彼女の髪の毛は単に青いわけではなかった。
例えるとするなら、山中の小川のせせらぎに光が乱反射した時に見える、あの水色のようだった。髪の一本一本が細いのか、質感が軽そうに見える。
目は二重も非常に丸く、それでいてやや吊り目気味に見える。また、彼女の瞳は今日の快晴とよく似ている空色だった。
目鼻立ちがはっきりしており、そして、口角は優しげに上がっている。
全体的に華奢に見えるが、ほつれている黒色のワンピースの下から覗いている足は筋肉質に見える。
あ。
転がっていた彼女が、動いた。さらりと髪の毛が揺れる。
というか、痛みもないような雰囲気で普通に立ち上がった。
そして、俺と目があった。
……、気まずい沈黙。
とりあえず、俺は何をすればよい? 声をかければ良いのだろう……か……。
そんなことを考えたとき、俺は彼女の首から下げているネックレスの宝石に目を奪われる。
首から下げているネックレスの宝石。全体的に地味な衣装なのに、それだけは明らかに浮いていた。その宝玉は、銀河のような模様で、その模様は――、動いていた。
って、いやいや、そんな宝石よりも――。
突然の事態には、冷静さが何よりも重要だと、本に書いてあった。
俺は顎に右手を当て、考える。
彼女はどこかの女子高生、いや、女子中学生だろうか?
女子高生が空から落ちてくる、ということは自殺でもしようとして失敗したのだろうか。
とりあえずこの状況に納得したい。あの速度で地面に飛びこむことができるマンションかビルを探せ。
振り返って周囲を確認したが、この交差点の近くには平屋の住宅しか立っていない。
一方、落ちてきた彼女を見ると、全く痛みなど感じていない様子で、俺の顔を見てポカンと口を開けている。
……、彼女の顔を見て、俺は自分が焦っていたと気づく。
こいつに質問するのが一番早い。
予想では、関わらない方が良い人間な気もするが……、純粋にどこから落ちてきたか気になる。
いや、それよりも気になることがあった。
俺は感情のまま尋ねる。
「生きてる?」
目の前に落下した彼女は硬直したまま俺に答える。
「へ?」
彼女は気が抜けたようにそう言った。
それはまるで、現在の状況に理解が追いついていないと言った表情。
いや、今の状況に理解が追いついていないのはこっちなんだが……。
そんなことを思っていると、彼女は徐々に顔が青ざめ、絶望的な表情に変わっていく。
「やばっ! 見られてる!? なんで!?」
見られたことを気にしていることは不可解。
しかし、彼女は自分の横に落ちている黒色の靴を眺め、唖然として呟く。
「靴、脱げてるんですけど……」
その後、しばらく無言。
その沈黙が不気味だったから、俺は再び質問してみる。
「なんで生きてるの?」
ビルの5階かそれ以上から落ちてこないと、今の落下速度は出ないはず。
改めて、普通の人間なら、身体が爆発するように砕けているはずなのに、彼女はその速度で落下して、すでに元気よく慌てている。
「あ、え、その」
彼女は文字通りワナワナと慌てながら、目線を右上左上に流して考えている様子。
そして、俺の目をチラリと見たあと、すぐにその視線を空へ逸らしながら言う。
「っていうか、生きてて悪い?」
まさかの逆ギレ。
俺は可笑しさを堪えながら答える。
「いや、悪くはない。むしろ、生きていてよかった。あの速度で落ちたら普通、死ぬから」
「な、何で笑いそうになってんの? とりあえず! 普通は死なないから! あの速度で落ちても!」
いや、それはさすがに無理がある。
彼女は明らかに歯切れが悪く、焦っているように目が泳いでいる。
そんな時、突如、全く知らない声が脳に響いた。
「私の可愛い弟子よ。人間に見られたのかい?」
脳に響いたその声は、まるで空間の向こう側から俺に問いかけるよう、どこからともなく聞こえていた。
直接脳に響いたような感覚。
俺は本能的に右を見て、左を見て、後方も見る。
が、その声の主はいなかった。
と、思ったその直後、突如、俺の背後に気配が生まれた。
俺の後ろに明らかな人影を感じる。
そのため、俺は再び振り返り、その気配を目で確認しようとした。
が、振り返ろうとした俺の肩を、柔らかい手が掴んだ。
「あなた、お名前は?」
その声はゆったりとして、さらに若干しゃがれているように聞こえる。
肌で感じる気配や声音から、なんとなく、背後に立つ人間の老獪さを感じた。
女性らしき声音であることから、背後にいるのは年上の女性か?
ん?
俺はすぐに気づいた。
背後の女性に身体を掴まれてから、身体が動かなくなっている。
「忘れました」
「忘れた?」
「はい、名前を忘れました」
これは比喩ではない。
数年前、俺は本当に、名前を忘れたのだ。
親は、俺を連れて病院や神社、最終的には怪しげな宗教施設にまで連れて行った。
が、俺はどうしても自分の名前が思い出せなかった。おまけに何度も名前を呼びかけられても認識ができない。読めないし書くこともできない。
その結果、俺は病院で記憶障害及び失語症、名前健忘症等々の診断を受けている。
名前が分からないこと以外、俺はすべての記憶を持っていると考えているし、普通の人間として生きるための知識もある。
しかし、名前が分からないことは案外不便だ。だから俺は偽名で生活をしている。
「忘れた……。ふむ、そうか」
肩を掴んでいた女性は、次に俺の首を掴んだ。
しかし、殺気は感じない。
ゆったりと首筋を掴まれ、まるで何かを探られているような感覚だ。
が、俺は自分の状況よりも、目の前の落下してきた女の子の様子が不可解だった。
「お、おおおお、お、お師匠さま!?」
落ちてきた女の子はそのように言うと、急いで靴を履き直してから俺に跪いた。
いや、正確には俺の後ろに立っている何者かに対して、跪いたと思われる。
しかし、俺の背後の女性はそれを無視して俺に問いかける。
「あなたは目の前の女の子が見えていますか?」
そう問われた。
見えているか? と問われれば、当然俺は目の前の跪いている女の子をこの目で見ている。
「見えています」
俺は率直にそう答えると、俺の首を掴む老婆の手の力が強くなる。
「どう思いました?」
「なんで死なないんだろうと思いました」
俺がそう言うと、後ろの女性は黙った。
一秒、二秒、三秒。
無言のため、俺は時間を感じる。
と、そこで背後の女性が呟いた。
「それは、目の前の子が魔法使いだから」
「魔法使い、ですか」
全て合点がいった。
それであれば、あの落下速度で生存したことも、箒が近くに落ちていたことも全て説明がつく。
もっとも、魔法使いという言葉の定義が、俺の読んだ本で蓄えられた確かに基づくものであれば、だが。
「え、えーーー! お師匠様、言っちゃっていいんですか!? この人、ボンフですよ!?」
目の前の彼女は慌てて顔を上げて言う。
ボンフ?
ボンフと読む言葉は、漢字で書けば凡夫しか知らないが。
「お前さんが私の許可なく勝手にこの世界へ出て、ドジを踏んだから仕方ないだろう。それに、私は協力者が少ないから、都合が良い」
後ろから、俺の首を掴んでいる何者かは、目の前の彼女の師匠らしい。
後方に立つ師匠はそのように言いながら、首を掴んでいた手の力を緩めていく。
が、首から手は離れない。
「名前を忘れた君。そこに立っているのは、私の弟子、水の魔法使いフィナ」
水の魔法使いフィナ。
落下した女の子はフィナという名らしい。
「光る素質はあるものの、私の弟子の中でも一番の落ちこぼれ」
光る素質、と聞いた瞬間、フィナの大きな両目は見開いたが、落ちこぼれと聞くと、その途端、彼女は視線を地面に落とし、がっくりと両肩を落とした。
まるで受け取った言葉へのリアクションがそのまま外に流れ出てくるような彼女の挙動を見て、俺は何故か笑みが溢れていた。
「あ! この人今笑った! お師匠様! この人、失礼な人ですよ!」
しかし、師匠は彼女を無視して俺に言う。
「協力者になってもらうにつき――。いや、それよりも、私がこの子を魔法使いと言ったことについて驚かないのかい」
「興味深いですが驚きはしません」
「こちらの世界の者に言わせれば、魔法は非科学的だろう」
「魔法を非科学的である言えば、未だ解明されていない全ての事象を非科学的ということと同義です。何千年前、水の存在は非科学的に信仰されていましたが、今は誰もが知る科学的物質です」
俺は自分が考えていることをそのまま言う。
すると、フィナはきょとんとした表情で言う。
「何言ってるんですか? この人」
一方、師匠はその言葉を聞いて黙る。
深く、深く考えているようで、何も言わなくなった。
フィナはそんな師匠を見て一言。
「嫌な予感……」
本当に師匠弟子の関係なのかと突っ込みたくなるが、俺は黙っておく。
気づけば、この道は俺とフィナ以外、誰も全く通らなくなっている。
どう言う原理なのかはわからないが、誰もいないし誰も来ない。
「フィナ。気が変わった」
師匠はそう呟くと、再び二、三秒考えてから言う。
「本当は3日間食事抜きにしようと考えていたんだが……、決めた」
「え、えーっと、何を決められたんですか、お師匠様」
フィナが恐る恐る、俺の後ろに立つ師匠にそう尋ねる。
すると、師匠は俺の後ろからはっきりと、高らかに宣言した。
「水の魔法使いフィナに現世で修行を行う許可を与える」
「え」
フィナはそう言って、フリーズしたような顔で固まった。
そしたまた、何秒か間が空いた。
……、なんだ、何を見せられているんだかわからないが、フィナの顔色は再び悪くなっていく。
「えーーーーーー!?」
地面に落ちてきた時よりも大きな声が、天に轟いた。
そして、フィナは必死に抗議するよう、跪いたまま頭を地面に擦り付けて言う。
「お師匠様!? 昨日、まだ私に修行は早いと仰ってたじゃないですか!?」
「気が変わった」
「え!? そんな……、私、お師匠様の元で一番の落ちこぼれなんですよ!?」
フィナが顔を上げて抗議をすると、俺の最後の師匠は告げる。
「修行もだが、当然、凡夫に見られた罰も当然受けるように」
背後に立つ師匠が、俺の首を再び強く握る。
するとその瞬間、俺の首が焼けるように熱を帯びた。いや、フィナの師匠が俺の首に熱を与えているのか?
一方、フィナは風船から空気が抜けるように、力が抜けていくような様子で地面にへたり込んでいく。
「え、ちょっと待ってください。罰って、魔法を取り上げる罰ですよね!? 魔法が使えないのに修行なんて、お、お師匠様、本気、ですか? 魔法が使えなかったら、私、魔女狩りに捕まって、殺されて、しま、います――」
目の前の女の子は、全ての力を吸い取られたように、アスファルトにへにゃっと寝転んでいる。
一方、俺の首裏に与えられた熱はもう治っている。
と、その直後。
後ろに立っていたものの気配が消えた。
首を掴む手も、一瞬で消えた。
俺はその瞬間、勢いよく後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。
ただ、目の前にはアスファルト前にへたりこみながら、掠れた声で叫んでいる女の子。
「お師匠様!? どこへ行ったんですか!?」
地面に力無くへたり込んだまま、フィナは涙を流し始める。
とりあえず……、どうしようか、この状況。
アスファルトに大きな染みができるほど、フィナは嗚咽を繰り返しながら泣きでいる。
「すいません! お、お師匠さまー! 勝手に、家出して、すいま、せん! 帰ってきて、ください!もう3日でも、30日、でも、食事抜きで、良いですから!」
……、気になる。
未だ泣きじゃくる彼女に、俺は釘付けだった。
魔法使いとは、魔法とは何か、非常に気になる。
世界一不味い珈琲の淹れ方よりも、気になる。
「凡夫に見つかって、すいません! もうこんな失敗はしませんから! 一緒に帰らせてください、お願い、します」
そんなことを言っている彼女に、俺は意を決して話しかけた。
「大丈夫か?」
【御礼】
この作品を見つけていただき、そして読んでいただきありがとうございます。
今日は初日なので、プロローグを4エピソード投稿します。
その後、当面は週2回更新を目標に頑張ります。