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燕雀鴻鵠  作者: 見城R
11/22

4−2

墨寧は県令を続けることとなった。

とりあえず、県令であるかぎりは上司である省令の期待に応える必要がある。

期待は、具体的な働きで示された、墨寧はそれを完遂せねばならない。

省令がどういう人柄か、そういうことには一切興味を示さないで、

ただ、言われたままにそれをこなそうと考えた。


柵を作ること。

屋敷を作ること。

牧場を作ること。


「つまるところ、辺境に町を一つ築くことになるか」


「その様子ですな」


墨寧は、影翁と話をしている。

ここでまとめた考えを、周雲達に下知しよう、

そうやって考えている。

今、この座は墨寧の領域だ、この広い天下において、

己の領分はおそらく、影翁を抱き込んだ二人だけの世界だろう。

悲観を含みつつそう分析している、周雲達は利用しているにすぎない。

そういう気持ちは拭えない、拭うつもりもない。


「周雲の工人達はどの程度だ」


「いや、墨寧県令様の下の民であります…優秀ですぞ」


わざわざ己を卑下する墨寧の気弱さに、

影翁はやんわりと返した、その内裏で、

この男でも、こんな時があるのか、そういう驚きを少々覚えたが、

その人間臭さが、悪人になりきれぬ墨寧の姿だと気に入っている。

才気があると信じるだけで、本当にあるかは妖しい。

そういう風体だが、それでもなお、信じて悪徳を積み重ねる男、

影翁は、残り短いであろう人生をこの男に賭けてみようかと考えるようになっている。


「ならば、柵を作ることなどたやすいな」


「早速下知なさいませ、ただ」


「わかっている、これについては包み隠さず話した上に、徐粛に訊ねるとしよう」


影翁はにこりと微笑んで黙りこくった。

何一つ言葉を挟む必要のない、墨寧の言葉に満足したのである。

少しして、部屋に徐粛が現れた。

そして、上記の通り、何一つ隠すことなくあらましを話した。


「なぜ、私に?」


「お前が一番、利を理解してくれる、私の考えていることを読めるだろうと思ったからさ」


「なるほど、確かに周雲殿では反目があるかもしれませんな、上への覚えをよくするため県民を酷使するなど」


「はは、博徒を使って皆殺しをするなどには及ばぬよ」


薄ら笑いを浮かべて、二人の会話は続く。

その程度で怒るほど墨寧は若くないし、徐粛も馬鹿ではない、それをわかったうえで、

もう一つ確信に迫りたいところがある。


「さて、働かせる方法と実際にどうやったら早く仕上がるか、それについては周雲に任せるが」


「……そうですな」


ちらりと、徐粛は影翁の顔を見た。

瞬時に悟ったのか、翁は部屋をあとにした、

人を払ったようなものだ、墨寧と内密の話になる。

ぱたり、戸の閉じた音が切り出しの合図になる。


「やはり、これは宰相派への挑発行為か」


「間違いないでしょう」


すたり、二人向かい合って地図を見下ろすように立ち上がった。

そこには、新しく割り当てられる土地と具体的に柵や小屋を立てる指示が記されている、

その地図にもう少し書き足しをする。

隣の県や土地条件、つまるところ、この新しい土地のまわり広域の地図。


「地勢的に不穏すぎますな」


「そうだ、それくらいは私にもわかった、あからさますぎるなこの異動は」


墨寧達が新たに赴任してきた県は、新設の県だった。

しかも岩倉県の隣である。

公表では以下の通りになっている。

『この度、新たな娯楽施設が出来たことで県全体の管轄を郡直轄とする。

そのため現在の住人は全てとなりの居住区へと異動させる』

中央からのお達しでこうなっている。

この公布はおそらく、宰相派からのものだったろう、

居住区という新たな囲いを作り、その場の利益を同じく、地盤である郡管轄にしたところからも、

それが伺える、彼らは岩倉県で生まれる目先の利益全てを拾い上げることにしたのだろう。


「遠目でみるとやはりすぐわかるな、ここは南州だ」


「そうですな」


今あてがわれた場所、新岩倉県は元の場所よりも、

かなり南に下がった場所に作られた。

公布ではそこを居住区と名付けていたが、居住区に県民と県令施設までが異動したため、

県が二つに割れたようなことになった、もともと西州と南州どちらにもつかずだった岩倉県。

南よりというだけで、南州に取り込まれて、なんらおかしくない場所だ。


南州は天帝派の地盤として強い。


完全に岩倉県を天帝派にひっくりかえした、そういうことになるのだろう。

宰相派がみすみすそんなことをさせたのは、

目先の利益が思った以上に豊富だったこともあるのだろうか。

ともかく、天帝派がくさびをうった形になった。

その居住「区」で、本来ならば岩倉県の時と同じ省令の管轄のはずが、

南州の管轄下の省令から命令が下った。

柵を作り、小屋をたて、牧場を作る。


「しかし最初にこの柵などの地図を書いたかたはかなりの戦略家ですな」


「ほう?どういうことかな徐粛先生」


「ここを前線の基地にするのでしょう」


「基地?……い、戦になるのか!?」


「おそらくその為でしょうこの異動」


徐粛の眼光が鋭くなった、墨寧を見ることなく、

さらに地図に手をおいて説明を続ける。


「柵で囲い、小屋を兵舎とし、牧場は軍馬を置く場所にできます、挑発行為というより示威行為ですね」


「…」


「おそらく、省令ではなくさらに上からの達しでしょう、天帝派は口実を手に入れたがっている」


「口実?」


「ええ、あの娯楽施設に攻め入るつもりだと思われます」


「馬鹿な、太平の世の中で軍を動かすなど…」


「治安維持の名目でしょう、罪人があれだけ集まりましたから、天帝派の軍で蹂躙して、

おそらく現在西州に大きくはびこりはじめた宰相派の地盤をことごとく潰していくかと、

政治的には治安維持の名目を取りつつ、北進していくのでは?」


「…なる、ほど」


「これで合点がいきましたな、土地を肥やすなという」


「!…そうか、対陣できぬようにするためか」


「おそらくそうでしょう、糧秣を調達できない土地では守ることが難くなるでしょうし、

岩倉県は宰相派にとって軍を置けぬ土地、策士ですな天帝派は」


徐粛の一連の話を聞いて墨寧は目を丸くするばかりだ。

徐粛が看破したそれにも驚いたが、

知らない内にそのようなことに巻き込まれつつあった己に何よりも驚いた。

少しだけ喜ばしいと思ったが、すぐにそれは冷静を取り戻す。

所詮は使い出のよいコマのままか、言われるままに踊らされる人生か。


「なるほどな、もしかすると典晃がここに遣わされたのも、これを見越していたのかもしれぬ」


「そうですな、全てに因果があるとは言い切れないものですが…」


中央警邏で名を知られた典晃がいれば、

軍も動かし易くなるのかもしれない。

そこから先は、見たことのない常識世界であろうから、

墨寧はわからないが、そんなこともあるだろうと考えた。


「さて県令殿」


「おう」


「戦となれば」


「そうだ、功名の拾いあいになるだろうさ」


薄く、その瞳に利益の膜が張られた。

おおよその狙いがわかった以上、その期待にこたえて働けば、

それ相応の利潤を、己の出世を手に入れられるだろう。

古来より、戦争で出世した輩は多い。

一番派手で、浮かれていられるからだろう、その中の数人がやがて将軍や州令など、

大きな役職へと抜擢されていくのだ。

墨寧は目の前に下げられた縄につかまり、あとは登り上がっていくだけだ。


「ありがとう徐粛、お前のおかげで先が見えた」


「いえ、お役に立てて光栄です」


「おう、まぁお前も私を利用しているのだろうがな」


「…そのような」


「かまわんよ、ある程度まで私を玉よけに使うがいい、途中で私は周雲とは別れることとなろうからな」


墨寧は冷たい目でそう言った。

寂しそう…とは思えぬな、

割り切ったその冷え込みは、徐粛にとって見慣れたものだ。

かつて役人だった頃、殺した相手はこの瞳の持ち主だったように思われる。

ただ、墨寧はそれよりも頭がよく、それよりも狡賢く、それよりも執拗だ。

だから大成するかもしれない、県令が大成すれば県民は救われることとなる、

最終的に民が利を勝ち取ればそれでよい。

徐粛は、一つ頭をさげてそこを辞去した、表に影翁が待っていた。


「お帰りで?」


「ええ、ずっとお待ちだったのですか」


「はい、聞き耳など立てておりませんでしたよ」


「ははは、どうせすぐにお話されるでしょう、吉報ですよ」


「それは重畳、では私からも吉報を一つ」


おや?

徐粛はそういう顔をした。


「これにつきましては、気になさることはありません」


「……」


徐粛は無言で立ち去った。

その手に、徐粛の顔が描かれた手配書が握りつぶされていた、

天帝派の力で、こんなこともできるのか。

徐粛の闇はかき消された、ではない、箱に閉じこめられたような、

そういう処置をされたのだろう。

ともあれ、この日から徐粛の罪は無罪とされたらしい。



南州大会議。


これは南州にある郡令を集めての、

一大意見交換会だ、大会合である。

ただ、今から追うのはその会合が終わった後の、

お偉方ばかりがまとまった別の会議、話し合いのことである。


「早すぎるのではないか?」


「申し訳ございません」


厳しい叱責の口調で、大柄な男は一喝した、彼は中央の上級役人だ。

深々と小役人風に頭を下げる男は、郡令である。


「南州令、あなたも貴方だ、監督怠慢ではないのか?」


ずい、言われて、やれやれという顔を作ったまま、

南州令は、怒る御仁に身体を寄せた。

負けぬような大柄の男である。


「まぁ、それもあるが計画とは、得てしてこうしたものだろう、動いたものは仕方ないから速めたのですよ」


「あと2年待っておれば、精鋭を投入できたというのに」


「まぁ確かにそうではありますが、2年後では気付かれていた可能性がありましてな」


「なんだと?」


「あの郡について宰相は、やり手を送り込んでいる様子、かなり無理をして金を集めさせておりましたが」


「……掴んだのか?資金の使い道を」


「最初は宰相派の政治資金かと思いましたが、中央へはほとんど流れておりませんでした」


「ふむ?」


「先にあちらが蜂起する可能性が」


「ばっ…!」


「考えてみれば、こちらと同じくらいの智恵揃えをしておるのですから、こちらが考えることは、

あちらも考えている、そうしたもんでしょう」


「蜂起とは、しかしまたぞろ乱世など」


「あちらにも色々おると見た方がよいかもしれませぬな」


「宰相派の中でも、様々におるということか、過激派、あり得ぬ話ではないな」


三人の男達は、雁首揃えて静かな席を作った。

郡令はまだ頭を下げたままでいる。

上級役人と州令は、その職の上下でいえば同じになるだろう。

それぞれが、もう、個人ではどうにもならぬほどの大きさの権力を扱っている、

無論、権力を振りかざすではなく、正しく使うためにだが。


「そうか、相手に合わせて早くしたというならば仕方が、ないな」


「ははっ」


「今後、しくじるなよ、次があると思うな」


言い終わるとこの会は散開した。

上級役人と州令はまだ話があるのか、そのまま、

二人で別の席へと移っていった。

取り残されたようにして、頭を下げたままの男が、

ゆっくりとその面を上げる。


「やっと終わったか…」


ぐったりと疲れた様子で、脱力を見ている。

置いていかれたというよりも、解放されたと見るべきだろう、

凄まじい疲弊を全身に感じている。

己の手をそっと持ち上げてみると、ふるふる、細かくまだ震えている。

強く握ろうにも握力がなくなっている。


「なんたる重圧か…」


人物からこれほどの重圧を受けたことがかつてあったろうか。

郡令は、己の人生を見返して、まったくそのようなことがなかったと、

から笑った、人種というべきか、もはやあれだけのものならば、

物の怪の類と変わらぬ何かがある。


「あそこまでの力を持たなければ、あの座にはつけぬと見えるな」


郡令はようやく落ち着いたのか、一度も口をつけられなかった茶をさっと呷って、

腰を持ち上げた、足取りはしっかりしている。

おっかなびっくりしていたことから解放されて、

少しばかり浮かれてしまっているのかもしれない、まぁよい、

ともあれ、進み出したものは実行せねばならない。


「お帰りなさいませ」


「お前のせいで、苦労したわ」


「本当に、行かれる前より2年は老けましたな」


「2年で済めば儲けものよ」


からから、笑って待っていた男に刀を渡した。

この男は側仕えではない、省令だ。

しかもただの省令ではない。

墨寧に県令の座を譲った、あの省令だ、

墨寧の上司にあたる男になるだろう。

しかし、この男が今回の実行において、絵を描いた。


「お上の考えを変えてまで実行する、本当にそれでよかったのか?」


「無論です、郡令様には早く上がって戴かないと私が上がれませんからね」


「しかし、もう一度確認したい、ここに説明を」


やれやれ、でもないが、どっかりと腰を落ち着けた郡令に対して、

この省令は地図を拡げた、その地図を目の前にすると、

男は省令から、軍師に姿を変えた如くに見える。


「この柵を作るのに問題はありません、まだあちらは新しい県令を置くなどの処置をしておりませんから」


「そこは納得できる、相手が準備する前にサイコロを振ることができる」


「はい、そして掃討については名分に『治安維持』を掲げます」


「そこだが岩倉県の隣、森近県と林隣県、あそこに刑務所を作って罪人捕まえる権利があったが」


「今、省令でならしている曹蓋です、地方警邏の手形を先日手に入れたとのこと」


「そう、そこが出てきたら管轄はあちらにあるのだから、名分が生きないのではないか?」


「それよりも先に動かしますし、それに岩倉県は今回のことで南州になりましたから」


「そのような無茶が通るとは」


「挑発ですから、これくらいでよいでしょう、ともかくここで一つ紛争を起こさなくては始まりませんから」


「そうだがな」


策士は、こともなげに言う、

ともかく、戦にしなくてはいけない。

それを念頭に置いて、この策は作られている。

だから、強引な部分は多くある、それを挑発だと言ってのけているが、

この作戦が失敗した場合、それらのことは洒落にならない。


「大丈夫です、失敗しなければいいのですから」


「ふむ…」


「だいたい失敗する要因がありません、この時機に出てくるなんて思うわけありませんから」


「確かにそうだな」


「我々ですら2年後にと思っていたことをいきなり始めるのですから大丈夫でしょう」


「感づいた動きがあるというが?」


「まぁ、あからさまに住居区ではなく、別の県を作りましたからね、すぐに気付くでしょう」


「気付かれても」


「あちらはこれから準備をするのです、こちらはもう準備ができてる」


自信をもって策士はそう言った。

この男はまだ、省令のままで終わるつもりは無いのだろう、

郡令としてもこの男の実力をかっている。


「その後、戦は3度もあれば多いくらいでしょう、3回で3勝すれば、はれて郡令から中央役人へ昇格です」


「そしてお前は郡令となるのかな、それとも」


「そうですね、郡令と兼任で南州の軍事でも戴きたく思いますよ」


そんな会話が常にされている。

この風景を墨寧が見ていれば、孤独を感じる暇はないだろう。

結局、中級程度の役人は皆、こんなことばかりを考えているといえる。

ここで戦になれば、下々がどのようなことになるのか、

そういうのを考えるものたちはこの地位にはいない。



「まずは牧場を作ります、それから牧場のために宿舎、最後に柵を立てます」


徐粛がそう説明をして、周雲と墨寧に確認をとった。

それから、異論があるはずもなく、

この順番で作り始められたのである。

徐粛は、この一連の大きな事件において、この場で時間稼ぎ、

相手に悟られることのない準備を進める。

それが肝要と思っている、無論これは、お上のためではない。


「なるほどこの順序なら、相手にわからぬということか」


「おそらく省令様達は、わかろうとも時間がくればすぐに出征とされるでしょう。

これは、我々が生き延びるために準備をする時間を稼ぐためのものです、我々の守備を固める一手です」


墨寧に徐粛はそう答えた。

この、省令達のたくらみについて、ついに周雲には伝えていない、

周雲はただ、与えられた仕事を完遂するために、

県民達を指揮して、典晃と二人であちこちで汗を流している。

徐粛は、少しだけ墨寧に上記のような話をしてから、

すぐにそちらへと合流した。

墨寧は一人取り残されている、陽射しの強い日である。

日向で働き続ける県民と役人を見て、

墨寧は一人、日陰でたたずんでいる、影翁は牧場に放すための馬を買いに出ている。


「結局、国造りはこの最果てより始まっておるのだな」


墨寧らしからぬ、下を見つめた呟き、

国がたちゆく為には、これらの衆愚が働かなくては何もならない。

彼らを率いることが自分にはできない。

ならば、大成しないのではないか、愁いはそこにある、

周雲を利用しているとはいえ、それは利用しているに過ぎず、自分は結局ダメなのではないか。


「おう、周雲っ!」


「墨寧様」


「私も手伝おう」


どっ、と喚声のようなものが上がった。

墨寧は、とりたてて特別なことでもないという様子を繕いながら、

その輪の中に入っていった、典晃と徐粛の驚いた様子は捨て置き、

ただ、周雲だけが、笑顔でそれを迎え入れた。

県民達は、働き続ける、言われるままにこの場所に自分たちが住む町を作るために働く。

そうして半月近くを過ごした、牧場が出来上がり、今、宿舎の設営に取りかかり始めている。


その半月後の夜。


「帰ったか」


「はい」


小屋には墨寧が薄明かりを灯して、帳簿を見つめている。

どうやら新しい県民名簿などを作らなくてはならないらしく、

それらの事務処理を遅くまで行っていたらしい。

ゆらゆらとした蝋燭の火が、ぼんやりと部屋の中を照らしている。

その背中で、人の気配が立った、影翁だろう、

そう思って、墨寧は声をかけた、まだ背中を見せたままにしている。


翁が立つ入口に、背中を向ける位置、そこに墨寧は座っている。


「首尾はどうであった?」


「何一つ滞り無く、馬もよいものが手に入りました」


「重畳だ」


そう呟いて、墨寧は背を伸ばした。

座ったまま、やや前屈みになっていた姿勢を糺した様子だ。

まだ、影翁の顔、姿を見ていない、

相変わらず背中側に喋りかけている。

影翁も、視界に入ってこない、こないどころか、

薄暗い戸の前に立ったままの様子だ、墨寧は振り返らないから、

実際どうしているかはわからない。


ゆらり、火が揺れる。


「随分、日に焼けておられる様子ですな」


「外働きをしたからな」


「ほほう、外で汗水をたらしながら、夜は部屋仕事をなさる、すっかり勤勉ですな」


ゆらり、


「翁」


「はい」


…………。


「俺なりに考えた、徐粛の読みが当たれば、間違いなくこの戦、常勝をもって過ぎるだろう」


「なるほど」


「戦の数は三度だろうと見ている」


「三度の働き場が設けられるということですな」


「そうだ、そういうことだ、このまま行けば、私は自分で何一つすることなく三度の功を立て、用いられるだろう」


「重畳であります」


かたり、墨寧はおもむろに立ち上がり、相変わらず振り返らずに、

机の向かい側にあった火鉢に近づいた。

そして、モチを焼き始めた、随分と久しぶりのことである。

まだ、墨寧は振り返らない、それでもモチは二つを乗せた。

ちょいちょいと、かつての通り、衰えることのない妙技でモチはころころと火鉢の上を転がる。


「香ばしいですな」


「そうだろう、まだ衰えておらぬよ」


じじじ、焦げる音。

それがさらに食欲を刺激する。

ゆらり、また蝋燭が揺れた、その揺れが大きくなる。


どどどど、騒がしい、そういう音がすっかり小屋のまわりを覆い始めた。


「三度で立てる功名で、俺はいよいよ省令になれるだろうさ」


「なるほど」


どどどどどどどどどど、


「だが」


じゅっ、醤油が焦げた匂いが白く上がった。

出来上がったらしい、墨寧は満足のいった、

満面の笑みでそれを取り上げると、ようやく振り返った。

その視線の先に、剣を抜いたままの影翁が写っている。

全て想定していた、そう言うかのように驚きはまったくない。


「三度では、所詮、省令どまりだ、俺はそんなところで終わるつもりはない、だから」


どどどどどっわぁあああっっ、

大きな音は、喚声を伴いはじめた。

もう、あちこちで様々な悲鳴も混じって、

人の発する音があふれ出す、この小屋の中だけ、ただ、

モチを焼いた音だけ余韻を残す。

墨寧は、翁の横をすぎる、そこで一言を告げる。


「まだ、乱に治まってもらっては困るんだ、俺はその程度で治まらぬよ翁」


墨寧は通り過ぎて外へと出ていった。

すれ違い様にモチを影翁に渡した。

影翁は会心の笑みをこぼした、モチを手に入れたそれもある、

が、それ以上のことを今、感じている。

今の現状、敷かれたレールに沿って生きていくと妥協したならば、

墨寧に人物としての価値がない、それを思って剣を抜いていた。

だが、その不幸な予測を小気味よく裏切った、大物だ、影翁はそう強く念じた。


「俺が出世するには、まだ、この乱を続ける必要がある、しばらく上にはドタバタして貰う」


墨寧は外へ出た、慌ただしい軍馬の声、

人の足音、様々なものがいっしょくたになっている。

夜の闇は姿を隠したまま、その状況を音だけで送り続けている。


「墨寧殿」


「これはこれは、使いの方」


「お迎えにあがりました」


「もう、ですかな」


「一刻も早く、主もお喜びになられます」


「主・曹蓋殿か」


ばばっ、最高の礼を見せる従者の男。

側には馬車がある。

それをじっと見つめて、その馬車がどこへ向かうものなのか、

地獄か極楽か、

そんなことを考えてしまった自分に苦笑する墨寧。

一つ、現実に立ち戻って大きな声をあげる。


「翁っ!!!参るぞっ、早くせよ」


「ははっ」


待っていたとばかりの声をあげる影翁。

そして二人は馬車に乗り込む、

馬車はゆっくりとその車輪を回し始めた、やがて北へと向かっていく、

省令・曹蓋のもとへと向かってこの馬車は走る。

その闇の中で、別の場所、周雲の寝所。


「!?」


外の騒ぎに飛び起きた。

そして、すぐに状況を悟った。

外に出て、慌てて現状の確認をする、絶望的な状況が目の前に横たわる。


「周雲殿っ!!!!」


「典晃っ!これは」


「賊の攻撃だ、いや、賊だけではないかもしれぬ、ともかく、もう持たぬっ」


「なぜ、どうして、何が……そうだ、徐粛はどうした、あと、墨寧様は!?」


「わからん、これ以上ここにいるのは危険だ、逃げるしかない」


ごうごうごうっ、ついに火の手があがりはじめた。

この仮初めの町は今、炎に包まれつつある。

もうダメなのだろう、そういう現実をつきつけられた感じがある。


「周雲殿っ、典晃っ!!!」


「徐粛っ!、これは」


「急ぎ落ちなされ、これは賊の皮を被った、宰相派の攻撃だ、とても持たぬ」


「なに…馬鹿な」


「敵は、周雲殿を謀反の心得ありと吼えている、どこの賊かわからぬが、

危うい思想に傾いている人種に違いない、急ぎ逃げよ」


けたたましい状況。

慌てふためく住民達。

その中で、周雲は心のどこかを置き去りにしたようにして、

ゆっくりと、この状況を冷たく眺めた、

ながめた上で、決断をくだす。


「典晃、お前は県民を伴って、さらに隣の県へと逃げよ」


「な」


「徐粛殿も随伴して、その道先を危険から逃れるように頼む」


「周雲殿はどうされる」


「私は捕まろう、現状、話を聞いたところによれば私が捕まれば他全ての民は救われると見た」


「馬鹿なっ、そのような無茶な話があるものかっ、私は戦うっ」


「典晃っ、我々の役目は県民を守ることだ、ならば従えっ」


周雲が一喝した、武人で知られた典晃ですらその気合いに圧されて黙った。

周雲は柔らかく笑う。


「これも天命であろう、ともかく、私に天命があるならばまだ生きながらえると見ている」


「そのようなあきらめを」


「あきらめではない、今は耐える時と見た、逃げても賊徒となる他ない、が、私を伴わなければ、

典晃、お前なら中央役人になんとか売り込むことができるだろう、仔細はわからぬが、

ともかく、私がここで捕まることがもっとも被害を少なくできると見ている、従ってくれ」


「周雲殿……」


「典晃っ、参ろうっ、時間が無い」


「徐粛貴様っ」


「主がそう宣言されたのに、たてつくことなどできるかっ、急げっ、我らの働きにかかるのだぞっ」


徐粛の声は大きく、周雲のそれに負けないほどの気合いを感じる。

だが、それを吼える顔は、涙ではらはらと濡れている。

徐粛は、少しずつこの全容が見え始めている。


墨寧が、天帝派のたくらみを宰相派へ売ったのだろう。


少し考えてみれば、予見できたことだ、

出世を考え続ける男である墨寧が、この敷かれたレールを進み、

どこまで出世できるか、それを考えて、

足りないと感じるだろうとわかっていたはずだ。

徐粛は、墨寧は省令程度がせきのやまだと、能力から計っていた。

だが、墨寧の野心はその能力を凌駕している、それを侮蔑して捨てた自分がおろかだった。

他人を蹴落として這い上がる男であることを、どこかに忘れていたのだろう。


徐粛、最大の失策だ。


「なんとしても、今は、我らで県民を守り、この場を脱するのだっ」


「そうだ、典晃、そなたがついてやれ」


「周雲殿…」


「周雲殿、あなたは、必ず私と典晃で救い出してみせるっ、そしてその後、いよいよ自由の翼で、

役人世界の最上へと羽ばたいていただく」


徐粛は力強くそう言って、典晃の腕をひっぱりその場を後にした。

名残惜しそうに、まだ、山ほど何か告げることがあると、

そういう顔をした典晃とともに、闇の中へと消えていった。

周雲は取り残された。


「周雲か?」


「そうだ、逃げも隠れもせぬ、私をつらまえれば、それで事足りるのだろう、これ以上は働くな」


「言うたな反逆者よ」


「……これも生まれの定めか」


炎があおる闇の中、

周雲は虜囚となった、生まれが卑しいからという「罪」だ。

墨寧は北へと奔り、典晃、徐粛は姿を消した。


ともなって、新岩倉県は無くなり、

その統括をおこなった、南州の天帝派省令、郡令も姿を消したという。

いや、彼らは消されたと言うべきだろうか。

南州で天を目指した実力ある男が二人、失脚した、

そういうことでもある。

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