第01話 母から息子へ
(また空振りか)
港へつながる大通りに面した商店の前で、男はため息をついた。
『ダイコ商店』と掲げられた看板の下で、丸々と太った店主に手を挙げて別れを告げた。
もう何度目かは忘れた。
イサベルという名の女性宛ての小包は、未だに背中の背嚢の中に納まったままだ。
(仕方ない。また手がかりを探ればいい)
男は伸びかけの顎髭のざらざらとした感触を手に感じながら、港への坂道をとぼとぼと下る。
荷馬車が通れるほどの広い街道。両脇には名物の魚の干物や、陸揚げされたばかりの新鮮な魚介類が商店の店先を賑わせている。
(相変わらず生臭いな、この通りは)
街道の反対側からは、ジュウジュウと串焼が焼ける音と香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「シルビナ名物、干物の串焼きだよ!銅貨5枚!今なら1串サービスするよ!」
「どうだい!そこのお兄さん!腹減ってないかい?買ってっておくれよ!」
目が合った売り子のおばさんが盛んにしゃがれた声を張り上げる。
しかし男は愛想笑いして手をひらひらと翻した。
「次通っても負けてやんないよ!今だけサービスだよ!ったく・・・」
男は苦笑いしながら海への坂道を下った。
目の前には大きな入江が広がり、水平線の向こうではオレンジ色の夕陽が沈み始めている。
(たしかこの先に・・・あった)
坂道を降りきった街角に、木製の樽の形をした看板が街道に沿うように大きく張り出している。
看板には『石海亭』と書かれていた。
男は看板の下にある、両開きの扉を押し開けた。
途端に、中から騒がしい男たちの喧騒が耳に届いた。
「いらっしゃい!食事かい?それとも泊まりかい?」
エールの入った樽型のジョッキを抱えた給仕の若い女性が、威勢よく男に声をかけた。
「両方だ」
「あいよー!悪いね、テーブルは満席だ。カウンターにどうぞ!」
「ありがとう」
男は漁師たちと思しき男たちで賑わうテーブルの間をすり抜けて、一番奥にあるバーカウンターの隅に腰掛けた。
「いらっしゃい、泊まりだってね。夕食込みで銅貨20枚。前払いで頼むよ」
カウンターの向こうから、女主人が声を掛けてきた。
「ああ」
男は懐から革袋を取り出し、銅貨を手渡した。
「まいど!とりあえずこれでも飲んどいて」
ドン、とエールの入ったジョッキを男の前に置く。
白い泡が縁からこぼれそうなジョッキを、男はぐいとひと口、喉に流しこんだ。
喉を焼くような苦味とコクが突き抜ける。
だが鼻から抜ける香りは、ほんのりと爽やかでもある。
「お兄さん、背中のものは重くないのかい?」
女主人は、男が背負ったままの背嚢に目配せする。
「ああ、荷は少ないから大丈夫だ。このままでいい」
男はそう答えて再びジョッキを煽った。
「そうかい。ならいいんだけどさ。食事、すぐ持ってくるから」
女主人はそう言って、小さな鍵を男の前に差し出した。
「これ、部屋の鍵な」
「ありがとう」
男は静かに鍵を受け取った。
「おにいさん、もしかして運び屋かい?」
女主人は、カウンターから身を乗り出し、男を値踏みするように見つめた。
「ああ」
「荷物、頼めるかい?」
「どこだ?」
「バストリア」
(バストリアか)
男はしばし考え込んだ。
「どうだい?」
「荷物は何だ?」
「手紙と干物」
男は懐から革製の小さな手帳を取り出した。
「やってくれるかい?」
「銀貨1枚」
「高いね。そんなにするのかい!?」
「その代わり、確実に届ける」
「わかった。後で持ってくるよ」
「宛先は」
「バストリア工業区、鍛冶工房のデイビスって子だ。私の息子だよ」
「工業区、鍛冶工房、デイビスだな」
男はさらさらと手帳に書き込んだ。
「あんた、名前は?」
「ギリーだ」
「おや、あんたが『運び屋ギリー』だったのかい。なら安心だ」
女主人はそう言って、奥の厨房へと姿を消した。
——数刻後。
女主人は夕食として名物の『シルビナ風干物の潮焼』をギリーに供した後、一通の手紙と二つの小包を目の前に差し出した。
「・・・荷は二つか?」
「ひとつはあんたにだ。道中に食べとくれ。干物だから日持ちする。焚火で炙れば最高のごちそうになるよ」
ギリーは少し驚いたが、口元を緩め、静かに微笑んだ。
「すまない。ありがたく頂戴する」
「じゃあ、頼んだよ。息子の好物なんだ」
「わかった。確実に届ける」
* * *
翌朝、ギリーは旅支度を始める。
女主人から預かった手紙と干物の入った包みを防水加工された革袋に入れ、水が入らないように厳重に口紐を縛る。
背嚢を開き、入ったままの小さな木箱の包みを確認した後、その隣に新しい荷を詰め込んだ。
その上に、革製の落し蓋を被せて荷を隠す。
そして最小限の手荷物——火打石、コッヘル、雨避けの外套などを詰め込んだ。
背嚢の側面には、ハチェットと鉈を収めた鞘と予備の水袋が縛り付けられている。
腰のベルトには護身用のナイフと水袋、丸く束ねたロープ、路銀や手帳の入ったポーチを取り付けた。
その上から、フード付きのマントを羽織る。
そして最後に、ブーツの靴底を確認する。
・・・問題なし。
全ての身支度を整えて、ギリーは宿屋を後にする。
女主人は「たのんだよ」と一言だけ告げ、ギリーは黙って頷いた。
外は快晴。
海風が潮の匂いを運び、漁の出航でごった返す港の喧騒の中、ギリーは海に背を向け、シルビナの外へ続く街道の坂道を上る。
途中、昨日の屋台の売り子がまた声を上げた。
「お兄さん!干物の串焼き!買ってっとくれよ!」
「すまない。もうある」
「うちのは違うよ!サービスするからさ!」
(朝から元気だな)
ギリーは苦笑いで返し、屋台の前を通り過ぎようとしたが、売り子のおばさんはギリーの前に立ちはだかり、手にしていた串焼きを強引に持たせた。
「次来たときは買っとくれよ!サービスだ」
ギリーは少し驚いて目を見開いたが、そのまま笑顔で返した。
「ああ、またな。次は買わせてもらうよ」
ギリーは手を挙げて感謝の意を伝えると、再び坂を上り始める。
歩を進めるごとに、硬い石畳から柔らかい砂の感触が靴底に伝わる。
そして、街道を上りきって城門を抜け、ギリーは街をあとにした。
香ばしい魚の串焼きを頬張りながら。




