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第九章    HOTELL MARINE WIND

 翌日の日曜日、パチンコ店に自転車を置いた令子を拾って、パンダは昼下がりの国道を走っていた。

 小高い丘の上にあるホテルに向かう車中、令子は迷っていた。

取り敢えず夕子には電話で、先方がそのホテルのロビーで会うことと、最初は令子も同席することを希望していると伝えてある。もちろん先方がそんなこと言う訳がない。苦肉の策として令子の一存で考案したことだ。

 夕子は「午後三時に待ち合わせ?なによそれ、おやつでもご一緒にってこと?それにどうして観光ホテルなのよ。普通そんなとこで商売しないっしょ?」と訝しげに聞き返したが「先方の車でホテルまで行って、ロビーで引き渡した後、私はタクシーで帰るから、その後のことは二人で決めて頂戴。先方は決して怪しい者ではないから。お願い。ね!」と頼み込んだ。

 夕子は未だかつて陽のあたる場所で、その手の男と会ったことがない。サングラスと帽子といういでたちで、訳知りの白タクを利用し、男の指定する場所へと向かうだけだった。令子に紹介された男たちの多くは、家の外に自分が自由に利用できる部屋を確保していた。夕子はその部屋での仕事が終わると、再度携帯電話で近所で待機している白タクを呼んで下宿へ戻るのだが、自由に使える部屋を持っていない男の場合は、その男の車に乗り換えてモーテルへ向かうこともあった。その時は最寄の駅まで送らせて、電車で帰ることもあった。

「まあいいや。今更どうのこうの言っても始まらないし、だけど多分あんたと一緒にタクシーで帰ることになると思うから、よろしくね」と言って夕子の電話が切れた。

 令子は、モスラサークルの名刺に、入会不可と記載していないのを悔やんでいた、と言うより、つまらない負けん気を出して、名刺を渡してしまったこと自体を悔やんでいた。もともとモスラサークルなんて機能していない。名刺は夕子が面白半分にやっつけ仕事でこしらえた物だし、未完成のホームページだって、会員を募る類のものではない。

 それに陽平の服装ときたら、世間は晩秋だというのに、時代がかったアロハシャツにジーンズ、足もとは見るからに安物のビーチサンダルと、まさにポンポコリンサーファーと呼ぶにふさわしいいでたちである。この風体からして、事情を説明したとたんけんもほろろに追い払われるという結果になるのは火を見るより明らかだ。その時は私もパンダに乗って帰ろう。そして陽平を慰めてあげよう。ホテルの駐車場に到着する頃、令子はようやく覚悟を決めることにした。


 車を降りた二人の頭上には、僅かにたなびく絹雲のせいで、とても高く感じられる秋晴れの空があった。青い海風は、波乱含みの展開を予告するかのように、きらきらと令子の髪に纏わり付いた。陽平のアロハシャツがヒラヒラとはためいて、それこそ糸の切れた凧のように、このまま何処かへ飛んで行ってしまうのではと思われた。手には名刺らしきもの……当然ポンポコリンクラブのものだろう。

 風のせいで誰も利用していないテニスコートを横切り、ホテルの正面玄関へと向かった。ポーチにはMARINEWINDと、個個に独立した文字を配した銀色の看板が、太陽を反射する鏡のオブジェのようだった。

 大きなガラスの自動扉を二回開閉させると、ロビーの奥の方に、玄関に向いたソファに腰掛けている夕子の姿が、目視ではっきりと確認できた。今日は帽子もサングラスも身に着けていない。従って、遠目にも不機嫌であることは、疑う余地もなかった。

 夕子は少し近視だが、サングラス以外は眼鏡もコンタクトレンズも利用していない。

恐る恐る二歩三歩と近付いて行き、夕子の目にもはっきりと二人の姿が識別出来ると思われる距離に足を踏み入れた瞬間、やにわに立ち上がった夕子は脱兎のごとく駆け出し、ロビーのほぼ中央にある、大理石張りの大きな柱の陰に身を潜めてしまった。それこそ、狐に追われた野兎が巣穴へと逃げ込むように。どのような手順で切り出そうかと試案していた矢先、令子はゴングもなり終わらないうちに先制パンチを受けたボクサーのように、目の前が真っ白になった。

 十秒後、顔だけを覗かせた夕子は、あまりの出来事に唖然として立ち尽くしたままの令子と目が合うと、右手で手招きした。

 気を取り直した令子は「ちょっと待っていてくださいね」と、陽平を窓際のソファに腰掛けるよう促して、柱の陰へと足を踏み入れた。そこにどのような難題が口を開けて待ち受けているのか、想像も付かなかった。

「あんまりじゃない。いくらなんでもこんな対応の仕方ってある?そりゃあの人は見るからにうだつの上がらない感じの人だけど。だったら余計にひどいじゃない。あなたがそんな人だなんて……信じられない」

 令子が夕子に食って掛かるなんて、未だかつてないことだった。

「私がそんなことするはずないでしょ。ちょっと驚いただけだから」

 それが作為的な行動でなかったとすれば、夕子の驚きはちょっとどころの騒ぎでないことは明らかである。涼しくもない柱の裏で、夕子の顔はいつもにも増して蒼白で指先は微かに震えていた。

「ねえ、あの人って経営者?」

 令子はプルプルと首を振った。

「じゃあ何処で知り合った人なのよ」

 令子は今までの経緯を説明した。もちろん、陽平が援助交際のことを理解しないままに、モスラサークルへの入会希望者としてここにいることも含めて。

夕子は何かをふっ切れたように話し始めた。

「よかった。マジ世界の終わりかと思っちゃった。もうだいじょうぶ、心配させてごめんね」

夕子は「ふうっ」と深呼吸して、意を決したように陽平のところへと向かった。

陽平はソファに腰を下ろし、巨大なガラスのスクリーン一面に広がる空と海を見ながら、その中に溶け込んでいた。夕子は陽平の視界を遮ることをためらうようにして立っていた。

 令子は、いよいよ審判のときが来たかと陽平の隣に座り、いざというときには陽平の耳を塞ぐ準備をした。陽平が夕子に何を言われようと、その場を追い払われようと、今回に限っては陽平の味方でいよう、半分は私の責任でもあるのだから。令子は心の中でつぶやいていた。

「あの、よろしいでしょうか?」

 まだ景色の中にいる陽平に、夕子がおずおずと話しかけた。令子の予想とは異なる展開だった。

 陽平は立ち上がり、夕子に名刺を差し出した。

「ご丁寧に恐縮です、素敵なご名刺ですね……。九条陽平さんですね」

 夕子は、サーフボードと海が配されたポンポコリンクラブの名刺を見ながら言って、

「モスラサークルへ入会されたいと代表から聞きました。あの、どうぞお掛けください」と続けた。

 促されるままに陽平は令子の隣に腰を下ろした。夕子はガラスのローテーブルを隔てた向かいのソファに座った。

「モスラサークルといっても代表と私の二人きりですし、特に目立った活動をしているという訳でもないんです。それでもいいと言うのなら、私は全く異存ありません。代表もそう考えているようですし」

「いいの?」と、あっけに取られたように令子が聞き返した。

「もちろんよ。よろしくお願いします」

 夕子は陽平の方に向き直って、深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします」とオウム返しをして、陽平も頭を下げた。

 令子は思わぬ展開に、代表としてどのように振舞えばいいのか、とまどっていた。夕子は何を考えているのだろう。モスラサークルなんて、ただ名刺を作って遊んでただけなのに。未完成のホームページと言ったって、会員を募るためのものじゃないって夕子は言っていた。それなのに何故?しかもこんなオジサンを……。まっいいか、私は別に構わないし、それに入会したからといっても、元々活動なんてしていないんだから。単に私の顔を立ててくれただけのことよね……

 自分なりの結論に至った令子は携帯で時間を確認した。まだ午後三時半だった。パチンコ店でのバイトは午後五時からだが、夕子を下宿へ送り届ければちょうどいい時間になるだろう。今日からは陽平にサービスのコーヒーを運んでもいいことになっていた。ただ、サービスであることを他の客に気付かれないように、その役目は令子が責任を持って遂行することになっていた。

「それじゃ、九条さんの入会も決まったことだし、このへんで……。あの九条さん、先に夕子を下宿まで送っていただけますか?」

 

 ホテルに入るまで令子が重い気分で見上げていた空は、変わらずに青く高く、筆で払ったような絹雲がたなびいていた。正面から吹く悪戯な海風も、なにか優しくて、微かな波の音が三半規管の奥に響いたとき、埋もれかけた記憶から海潮音の一節が浮かび上がってきた。これっていい詩ね、と令子が幸せな気分に浸っているうちに、他の二人は随分前を並んで歩いていた。会話を交わしている様子もないのに、風景の中に違和感なく溶け込んでいる。二人で援助交際なんてことにならなくって本当によかったと令子は思った。同時にまるで親子だなとも思った。束の間の親子ってとこか。

 令子が思いを巡らせている間に、駐車場に行き着いた。

パンダの前まで来ると「私、助手席がいい」と夕子が言った。

 夕子の方が先に降りることになるのにと思ったが、彼氏でもない人の隣にどちらが座ろうと大した問題ではないので、令子はそれに従った。

 車が走り出すとすぐに夕子が「パチンコ店に行ってください」と言った。

「あなたもパチンコするの?」

後部座席の令子は身を乗り出すようにして聞き返した。

「今日はもう予定もないし、九条さんはされるんですよね、パチンコ」

「はい」と陽平は返事をした。

 カーオーディオからは、いつものとおりイマチュアーが流れていた。

 夕子はその曲を聴くといつも、中学生の頃、弟の龍之介の部屋でCDを聴きながら、二人して大声を張り上げて母親から叱られたことを思い出す。

「イマチュアー好きですか?」と夕子が言った。

「はい」と陽平は聞き分けのいい子のようだった。

「だと思っていました。ずっと」

 令子は夕子の話が少し変だと思ったが、大して気にはしていなかった。

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